第43話 自身の内面への潜航法

さて、過去の私に伝えたいことの三つ目ですが、〝考えるな〟です。これはDVをする相手を含めて、少しおかしい人と相対する時の心構えです」


――それは〝Do Not Think.Feel〟とかそういった感じですか?


「ちょっと違います。〝Feel〟もしないでください」


――先程『毅然とした態度で対処すべし』と言っていませんでした?


「それは〝被害に遭わないためにはどうすれば良いか〟と聞かれた際の対抗策です。今回の場合は、既に被害に遭っている場合です」


――なるほど。前提条件が違うわけですね。


「はい。最初に上手く回避することができなかった。もしくは、相手が本性を隠すのが巧くて、気付いたらどっぷり沼にハマって被害が日常化してしまっているようなケースです」


――前回のは予防策で、今回のは対策というわけですね。


「はい」


――続けてください。〝Do Not Think. Do Not Feel〟ですね。


「まぁ、はい。まず相手についてですが、認識を改めてください。普段はどれだけ理知的でも優しくても、DVや虐待に至る時点で相手はクズですし、おかしい人です。頭に血が上っていますので、言っていることは支離滅裂です。順序立てて説明しても、論理的に説明しても意味が無いです。相手のことは少し口が回る小学生低学年児童だと思ってください。真面目に議論するだけ無駄です。決して真面目に取り合ってはダメです。『自分にも非があったかもしれない』『私も悪いところは直さないと』『怒らせてしまった自分も悪い』そんな考えは不要です。いつか分かり合えるなんて幻想に過ぎません。相手は問題解決のために話し合っているわけではないからです。怒るために怒っているし、責めるために責めています。感情が昂っているうちは無駄です」


――どうすれば良いですか?


「逃げられるのならば逃げるのが一番です。話し合うならせめて一旦クールダウンを挟んでからです」


――逃げられないなら?


「神妙に聞いているフリをして耐えましょう。感情と思考を切り離すのが一番です。真面目に取り合ってもこちらの精神が摩耗するだけですから」


――そうは言っても実際に言い争っている最中にそれは難しいです。


「前提が違います。〝言い争っている〟段階で、既に同じ土俵で相手にしていますよね。それをスッパリ止めましょう。どうせ無駄ですから。相手の怒りに拍車を掛けるだけです」


――なるほど?


「顔だけは真剣な感じを保ちながら、自身の心の奥深くに沈み込むように意識します」


――……なんだか急にスピリチュアルになりました。


「確かにスピリチュアルな領域ではありますが、どちらかというと座禅とか瞑想、自律訓練法に近い感じです」


――ある種の精神修養のような?


「そうですね。そのような感じです。体の末端から徐々に力を抜いて、腹式呼吸で深呼吸をします。慣れると私の離人症のようにフッと外界と意識を切り離すことで自己の内面に埋没できます」


――七篠さんの場合は精神疾患だったのですよね?


「そうですね。でも、現実が辛いなら、現実と意識を切り離して心を守るしかないですから。使えるものは何でも使えば良いんです」


――そういうものでしょうか。しかし、話を聞いていると、どうにも抽象的というか……。


「最初はそう感じるでしょうね。難しいようなら……例えば、自分なりの呪文を決めておくと良いかもです。心がざわついた時や、落ち込んだ時のためにキーワードを設定しておくんです。日常生活であまり使用頻度が高くなくて、愛着がある単語であればなんでも良いと思いますよ」


――七篠さんにもありますか?


「勿論です。私の場合は数字の桁のカウントです」


――困った時には素数を数えるんだ的なやつですか?


「そうです。小学生のある時、家で殴られて、次の日学校でも嫌味を言われたことがあったんです。それで、教室の一番前の端の席で泣くのを堪えながら俯いていたら、視界に算盤の桁の数え方表みたいなのが貼ってあったんです。それが切っ掛けです。ひらがなで書いてあったのでどのような漢字なのか分からない部分も多いのですが、嫌なことがあった時にはそれを内心でカウントします。『ばく、びょう、あい、じん、しゃ、せん、び、こつ、し、もう、りん、ぶ、いち、じゅう、ひゃく、せん、まん、おく、ちょう、けい、がい、じょ、じょう、こう、かん、せい、さい、ごく』と」


――ある種の自己暗示ですか?


「そうです。私なりの心の平穏を保つための呪文です。過去の辛い記憶を思い出しそうになった際にも内心で唱えて上書きします。辛い出来事なんて思い出さない方がいいですからね。思い出すことで、記憶が強化されて定着してしまいますから。それは、ある種の精神的自傷行為です。先程話に出た不幸自慢もそうです。思い出しそうになったら、その前に別の何かで書き換える必要があります」


――なるほど。


「単純に『忘れろ忘れろ忘れろ』でも良いですし、楽しい妄想で上書きでしても良いです。私が以前知り合った物書きの方は、そういう時には脳内で創作を開始すると言っていました。寝る前や辛いことがあった時、嫌なこと、忘れたいことが頭に浮かんだ時には、その創作のストーリーを進めるそうです」


――それは非常に興味深いです。


「方法に関しては人によりけりですね。まぁ要するに、メンタルの整え方を心得ていると、辛いことを耐える際に大きく役立つんです」


――社会生活においても役立ちそうです。覚えておきます。


「辛いことなんて無いのが一番なんですけどね。生きている以上、どうしても避けられないことはありますから。というわけで、以上三つです。〝まだ生きろ〟〝理解を求めるな〟〝考えるな〟、この三つを当時の私に伝えたいです。どれもいずれ分かることではあるのですが、早い段階で知っていればもう少し上手に立ち回れただろうなと思うので」


――大変参考になりました。貴重なご意見をありがとうございました。では、次に……七篠さん、お腹が鳴りそうで集中できません。そろそろフレンチトースト食べませんか? ほら、意外と順調で、まだまだ時間もありますし。


「慢心は良くないです。百里を行く者は九十里を半ばとすです。それに、ご飯食べたら眠くなりますよ?」


――ちゃんと手も動かしますから。七篠さんだって、本当は食べたいでしょう?


「まぁそうですけど」


――なら、食べましょう。食べながらやりましょう。


「仕方ありませんね。では、準備してきます」


――やった!


「では、準備ができるまでの間、松延さんは作業を進めておいてくださいね」


――え?


「キッチンへのドアを開けて監視していますからね」


――……元々サボるつもりなんてありませんでしたし? 邪推はやめていただきたいです。


「寝っ転がった状態で言われても説得力が無いです」

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