第40話 Dear myself

「はい、コーヒー。濃いめにしておきました」


――ありがとうございます。


「どういたしまして」


――あれ、何で服を着ているんですか。いつの間に?


「乾いていたようなので取り出しました。服は良いです。久々に文明社会に戻ってきたことを実感しました」


――えー、折角眼福だったのに。


「ついでに松延さんの洗濯物も畳んでおきました。忙しいからって乾燥機からそのまま取り出して使う生活は駄目ですよ?」


――そ、そんなわけないじゃないですか?


「ついでに、ヌメヌメで詰まっていた台所の排水溝と、油まみれのコンロ周りも少しだけ掃除しておきました」


――面目無い。それにしても七篠さんは家事が得意なのですね。


「子供の頃からやっていましたし、一人暮らしも長かったですから」


――私も一人暮らししているのですが、一向に上達する気がしません。早く素敵な彼氏を見つけなくては。


「松延さん、あなたの地元ではどうか知りませんが、ここ東京では〝彼氏〟という言葉はハウスキーパーという意味ではありませんよ」


――似たようなものです。


「そんなんだから……。いえ、何でもありません。続きを進めても良いですか?」


――今何を言いかけたんですか? ねぇ、ちょっと。


「話したい内容を一通り整理できたので始めますね」


――七篠さん、私今の納得できていませんからね?


「しつこいです。事実なんだからしょうがないじゃないですか」


――事実だったら何を言っても良いってわけじゃないんですよ。事実陳列罪って知らないんですか? あーあ、傷付いたなぁ。ショックで仕事が手につかないなぁ。


「そういうことなら帰らせてもらいますね」


――待って。何でそうなるんですか。違うでしょ。もっと他にやるべきことがあるはずです。


「面倒な人だなぁ。何ですか、どうすれば良いんですか?」


――ここは普通は優しい言葉をかける場面じゃないですか。『祥子ちゃんなら可愛いからすぐに彼氏できるから心配いらないよ』とか『世間の人は見る目が無いんだね。僕ならほっとかないよ』とか。


「世間の人は見る目があるね。祥子ちゃんは可哀想な人だから、僕ならほっとくよ。はい、これで良いですか?」


――冷めた態度で名前呼びされるの思いの外良かったですね……ちょっともう一回お願いできますか?


「……きも」


――真顔で心底軽蔑されるのは流石に傷ついちゃいますから止めてもらえます?


「そんなんだから……」


――また言った。また言いましたね? 二度目の暴言は看過できませんよ。大体七篠さんは……。


「はいストップ。愚痴は後で聞きますから。続きいきますよ」


――けっ。


「当時の私に伝えたいことでしたね。幾つかリストアップしました。一つずつ説明していきますね」


――おなしゃーす。


「……まぁ良いですけど。他の人にインタビューするときにそんな態度しちゃ駄目ですよ」


――じょ、冗談ですから睨まないでくださいよ。


「分かれば宜しい」


――では、お願い致します。ちなみにですが、伝えたいことは幾つくらいありますか?


「心構えというか、そんな感じのものが三つです」


――分かりました。では、一つずつお願いします。


「はい。まず一つ目ですが、〝まだ生きろ〟と伝えたいです」


――まだ? 詳しくお願いします。


「はい。昨日の昼間に話した通りですが、DVや虐待下にあった当時の自分は、父や父の友人、親戚に至るまでの関係者全てを殺してやりたいとすら考えていました。そして、もし何か少しでも状況が異なっていれば実際に行動に移していたかもしれません。それ以外にも、消えてしまいたい、死にたいと思うことも一度や二度ではなかったです。まぁ私の場合は、自分が死ぬくらいなら相手を先に殺してやる派でしたけどね。はは」


――……。


「とはいえ、世間には自殺派も多いことかと思います。死んで全てを終わりにしてしまいたい。もう関わりたくない。後どれくらい我慢すれば良いのか。先が見えない。そんなふうに考えた結果、死を選ぶと。ですが、それは非常に勿体無いです」


――勿体無い?


「はい。その時は本当に辛くてしょうがないのですが、多くの場合、いずれ必ず何とかなります。そのいずれがとんでも長くて、遥か未来の出来事に感じますが、それでもいずれ終わりは来ます。それまでは一旦踏みとどまって欲しいのです。私の家のように〝嫌だけど命に別状は無く何とか耐えられるレベル〟であるのならば、可能な限り耐えるべきです。耐えて、法的に可能な年齢になったら家を出てしまえば良いんです。そこで人生リセットです」


――その踏みとどまった先には何があるのですか?


「それこそ何でもあります。働いて法さえ犯さなければ何でも手に入ります。毎日自堕落な生活をしても誰にも文句は言われませんし、ホールケーキをスプーンで掬って食べても、趣味に全財産を注ぎ込んでも、何でもオッケーです。世の中には娯楽が溢れています。楽しいことだらけです」


――〝何でも〟があまりにもショボくないですか?


「私の場合の例えですから。反対されていた夢や目標に邁進するも良し、自分こそはと暖かい家庭を築くも良し、誰も顔見知りが存在しない場所で一から再出発するのもアリです。全ての連絡を断って、戸籍をロックして、整形でもすれば新しい人間になれます。何なら海外渡航してそのまま生活してしまえばいい。今までのように逃げ場がない家庭や学校と違って、いつでも逃げてリセット可能です。人との関係なんてあっさりと切ることができます。何でもアリです。今の時代独り身も珍しくはありませんし、一人で良いなら生活なんてなんとでもなります。いくらでも自由を謳歌できるし、努力さえすれば何でも手に入ります。理解者だっていずれきっと現れます。でも、それらは踏みとどまったからこそ得られるものなんです」


――つまり、七篠さんの言う〝まだ生きろ〟というのは、未来の楽しみを夢見て、今を耐え忍べということですか?


「そうですね。そういうことです。ただそれには、〝手を汚さずに真っ当に〟という但し書きがつきます。犯罪に手を染めるのは良くないです。善悪以前に損得で考えても損しかないですから。人から買った恨みつらみは、いつか必ず返ってきます。それも一番困る時にです。故に、どんなに困っても安易に法の垣根を飛び越えるべきではありません。犯罪なんて遠い世界の話に聞こえるかもしれませんが、困窮した結果犯罪に手を染める方は思いの他多いですから。窃盗、麻薬、オレオレ詐欺の受け子。無知で、頼る相手が居なくて、お金が無い若者なんて悪い大人のカモでしかありません。良いように利用されるだけです。利用された結果、経歴に一生残るような傷を負うこともありますから。そして、その傷は自身の信用を大きく損ね、何をするにも付いて回ります」


――なるほど。

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