第38話 甘味からは逃げられない

「最悪だ」


――何がですか?


「見て分かるでしょう。今この状況がです。まさか朝まで話し込むことになるとは……。やはり無理にでも帰るべきでした」


――ふふ。恨むのならアップルパイにホイホイと釣られた自身の浅ましさを恨んでください。


「今まさに自己嫌悪中です。はぁ、とりあえず帰ります」


――待ってください。


「いや、待ちません。帰ります」


――待って待って。七篠さんって料理とか得意だったりしません?


「この上さらに料理までさせる気ですか?」


――フレンチトースト食べたいです。急に食べたくなったんです。


「それくらい自分で作ってください。さようなら」


――……駄目かぁ。ハーゲンダッツ乗せて、カナダから取り寄せた美味しいメープルシロップの瓶開けようと思ったのになぁ。実家から届いたばかりの新鮮なフルーツもあったんだけどなぁ。朝から豪勢なフレンチトーストにするつもりだったのに、駄目かぁ。


「……良い加減にしてください。甘いものを出しておけば何でも私が釣れると思わないでください」


――そうですか? それじゃあ、気をつけてお帰りください。


「……今の時間は通勤ラッシュで混んでそうですね」


――そうでしょうか? まだ通勤ラッシュには早いのでは?


「いえ、間違いないです。ですので、もう少ししてから帰宅します」


――そうですか。通勤ラッシュなら仕方ないですね。


「はい、仕方ないです」




「では、今から冷蔵庫でしばらく漬け込みます」


――えー、私お腹空きました。もう食べましょうよ。


「駄目です。私はその間に銭湯にでも行ってきます」


――お風呂ならうちのを使えばいいじゃないですか。ついでに、洗濯もしましょう。乾燥機もあるのですぐに乾きますから。


「まぁ借りられるなら手間が省けてありがたいですけど……」


――何ですか?


「余計なことはしないでくださいね。特にフレンチトーストには絶対に触らないように」


――いくら何でも信用無さすぎませんか?


「いいから。絶対に触らないでください。手が空いているなら、部屋の掃除でもしていてください。ほら、良い天気になりそうですし、布団も干して。それから、換気もしっかりしておいてください」


――お母さんうるさい。早くお風呂入って。


「あ、そこら辺のものはちゃんと洗濯ネットに……」


――本当にうるさいです。早く入って。


「はい」




――あのー……七篠さん、今大丈夫ですか?


「何ですか、今掃除中なんですが。ボトル容器の裏側カビだけですし、排水口はヌメヌメですし、換気扇も埃だらけなんですが。それより大事なことですか?」


――まぁある意味では、はい。


「言ってみてください」


――良いニュースと、悪いニュースどちらからですか?


「……悪い方からお願いします」


――それが、どうやらインタビューの締め切りを大幅に勘違いしていたようでして。来週ではなく、今夜の二十二時だったみたいです。


「そうですか。まぁ私には特に関係ありませんね」


――七篠さんなんらそう言うと思っていました。ヨイショっと。


「ちょっと、今何をしたんですか? 何ですかヨイショって。ちょっと、ドアが開かないんですが」


――でしょうね。つっかえ棒がありますから。


「は? え?」


――ところで七篠さん、お願いがあるのですが、インタビュー記事の執筆を手伝ってくれませんか?


「嫌です。つっかえ棒外してください。これ監禁事件ですよ」


――昨日遺棄未遂事件を起こしたあなたがそれを言いますか。


「絶対に手伝いませんからね。というか、こんなことをしている間にさっさとやればいいじゃないですか」


――え、良いニュースの方も聞きたいですか? もう……せっかちさんですね。


「いや、聞いていませんから。いいから開けてください」


――それはですね、なんと……七篠さんは二十二時まで私と一緒に居られることになりました。やったね。


「は? 頭大丈夫ですか?」


――言うこと聞かないと電気消しますし、室内乾燥しますよ?


「どうぞご自由に。絶対に手伝いませんけどね」


――そこまで意思が堅いなら仕方ありません。諦めて真面目に仕事します。フレンチトーストを食べた後に、ですけどね。


「ちょっと、それは非道過ぎますよ。私が大事に育てたのに、美味しいところだけ掻っ攫うなんて人として恥ずかしくないんですか?」


――いえ、全く。というか、元々は私の用意した材料ですし。


「……」


――最後のチャンスです。さぁどうされますか?


「……分かりました。手伝います」


――本当ですか? フレンチトーストだけ食べて逃げないですか?


「逃げませんよ。アップルパイの時にも大丈夫でしたでしょう?」


――いえ、アップルパイが切れた瞬間に逃げようとしたじゃないですか。信じられませんね。


「じゃあどうするんですか? 出ないことには手伝えませんよ?」


――七篠さんの衣服は預からせていただきます。これで家の外へは出られません。……というか、実は洗濯機の開始ボタン押し忘れていました。洗濯はまだ始まってすらいないです。


「……」


――タオルでいいですか? 流石に七篠さんサイズの服は持っていないので貸せるものが無いです。


「これ男女逆だったら……いえ、逆じゃなくても事件ですからね」


――大変申し訳ございません。




――七篠さん、意外と良い体してますね。げへへ。


「露骨なセクハラやめてもらえます?」


――そういえばジム通っているって言っていましたね。何かスポーツをされているんですか?


「いえ。ですが、スイーツを日常的に食べていたらどうしても太りますから、その対策として運動を欠かしたことはありません」


――いや量と頻度を減らしましょうよ。


「嫌です。スイーツを減らすくらいならジムに行く回数を増やします。松延さんこそ昨日から食べ過ぎですよ」


――私は太らない体質なので。


「ふふ、そうですか」


――何ですか、その小馬鹿にしたような笑みは。


「私もそうでしたけどね、三十超えたら必ずその言葉を後悔しますから。せいぜい今のうちに楽しんでおくんですね。さぁ、それより早く仕事を終えますよ」


――えー、先に食べてからにしません?


「眠くなるので駄目です。締め切り前は最低限のおつまみ以外は厳禁です。私も締め切りのある仕事をしていますから分かります」


――お酒も駄目ですか?


「当たり前でしょう。ほら、早く。私は何をすれば良いですか? 文字起こしですか? それなら慣れているので得意です」


――いえ、そちらは後で私がやりますので。七篠さんには、現在進行形でDVや虐待の影響下にある方へのアドバイスや対策をお願いいたします。勿論、今までと同じインタビュー形式でお願いします。


「は? それって今までのインタビューに無い部分でってことですか? そんな大事な話をそっちのけで、朝まで興味本位のくだらない雑談をしていたってわけですか?」


――……。


「猛省してください」


――誠に申し訳ありませんでした。謹んでお詫び申し上げます。


「……はぁ。とりあえず長丁場になりそうなので洗濯機回してきますね。流石にこの格好で長時間は嫌ですから」


――逃げませんか?


「逃げるかもしれません」


――泣きますよ?


「いいけど手を動かしながら泣いてくださいね」

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