第36話 弟は幻想を抱かないもの

――では、次に……。


「いえ、残念ですがここまでです。到着しました。お疲れ様でした」


――え、でも……。


「最後が少し尻切れトンボになってしまいましたが、もう大体話しましたし、後は今までの情報から上手くまとめてください。何かあったらメールでよければ質問にお答えしますので」


――駄目です。中途半端は良くないです。


「勘弁してください。もう日付変わっていますし、眠いです」


――どうせ明日も暇じゃないですか。もう少しだけ。


「嫌ですよ。眠いです。ほら、降りて」


――なら、私の部屋で少し休んでいってください。居眠り運転で事故でもされたら寝覚めが悪いですからね。少し休みましょう。そうしましょう。それがいいです。うちには可愛い可愛いハムスターの〝大福〟もいますから癒されますよ。


「いや、人の部屋になんて入りたくないです。松延さんももう少し危機感を持ってくださいよ……初対面の異性ですよ」


――大丈夫ですって。七篠さんは熟女好きですから。


「確かにそうですけど。いえ、やはり止めておきます。こんな時間に女性の部屋にお邪魔するなんて気が引けますから。さぁ降りて」


――……分かりました。そこまで言われたら仕方ありませんね。今日は諦めます。


「それでは、お疲れ様でした。おやすみなさ……」


――ところで、七篠さんは〝カサ・アルバータ〟という単語に聞き覚えはありますか?


「……長蛇の列で有名なアップルパイ専門店ですよね」


――やはりご存知でしたか。そう、そのお店です。


「それが何か? ……まさか」


――ふふ。


「まさかんですか? そうなんですか?」


――さぁどうでしょう。でも、七篠さんはもう帰るんですよね? それならどのみち関係ないですよね?


「……」


――それではまた。


「……待ってください。分かりました」


――えー、なんですかぁ? 何が分かったんですかぁ?


「くっ。その、少し……そう、少しだけ疲れてしまいました。長時間の運転でしたから。それと一日話し通しでしたしね。疲労が蓄積していたのかもしれません。ですので、松延さんの部屋に少しだけ寄らせてもらっても良いですか? 少しだけ休息が必要なようです」


――休息だけでいいんですね?


「アップルパイもお願いします」


――はい、良く言えましたねぇ。えらいえらい。


「……」


――何です、その反抗的な目は?


もしかして『今は下手に出て我慢して、食べたらとっとと立ち去ってしまおう』とか考えてます?


「いえ、そのようなことは……」


――本当ですか?


「はい」


――ならいいです。さぁ行きましょう。車はそこに停めてください。


「はい、直ちに」


――私から提案しておいてなんですが、七篠さんが素直になりすぎて気持ち悪いです。そのうちスイーツで身を滅ぼしますよ?


「私の墓前には生クリームと粒あんをお願いしますね」


――腐ってキノコが生えてきそうです。



「それではお邪魔します」


――どうぞどうぞ、散らかっていますが。


「うわぁ、本当に散らかっていますね。これ人を呼んでいい部屋じゃないですよ」


――五月蝿いです。仕方なかったんです。最近少し忙しかったので。


「まぁアップルパイさえ無事ならいいですけど。ここって防音はしっかりしていますか?」


――はい。在宅が多いのでしっかりした部屋を選びました。


「それなら多少の物音や話し声は大丈夫そうですね。軽く片しておくので、早くアップルパイを温めてください。紅茶もお願いします。あ、温めはレンチンした後に、トースターで表面を軽く炙ってパリッとさせてくださいね」


――注文が多いですね。


「カサ・アルバータのアップルパイですよ? 最高の状態で食べたいに決まっているじゃないですか。そのために私は、この部屋の片付けをしますので」


――分かりました。任せてください。それじゃあまずは……えーと、600Wで五分くらいかな?


「……ちょっと待ってください。やっぱり私がやります」


――何でですか。


「いや、その……アレです。今日はさぞお疲れでしょうし、先に入浴されてきてはいかがでしょうか?」


――失礼ですね。私にだって温めるくらいはできますが?


「分かっています、全部分かっています。ただ、家主の松延さんにそこまでさせるのは気が引けるだけですので。さぁさぁ、メイクも落ちかけていますし、先に入浴しましょうね」


――お風呂洗ってないです。


「……私が洗っておきます。着替えて顔でも洗っていてください」


――覗かないでくださいよ?


「そういうのいいんで早く」


――あ、はい。




――七篠さん、私の今の心境があなたに分かりますか?


「アップルパイ美味しい?」


――確かにとっても美味しいですけど、違います。


「あ、お酒ですね。すみません、気がつかなくて。今持ってきますね。あ、いつもみたいに缶から直ではなくグラスで飲みましょうね。その方が苦味が薄れて円やかな口当たりになるそうですよ」


――そうなんですか、それは初耳です。良いことを聞きました。でも、何故いつも缶で直接飲んでいるのが分かったんですか?


「部屋に空き缶が大量に転がっていた割に、キッチンに溜まった洗い物にグラスの類はありませんでしたから」


――洗い物までしてくれたのですね。ありがとうございます。でも、私が言いたいのはそのことではありません。


「そうなのですか? じゃあビールはいりませんか?」


――いただきます。いえ、元々私のですが。おっとっと、これはどうも、酌までしていただいてすみません。


「いえ、それで言いたいこととは?」


――そうでした。七篠さん。この歳になって年上の、それも初対面の男性に下着まで畳まれた私の気持ちが、あなたに理解できますか?


「まぁ確かに少し配慮に欠けるかなとは思いました。その点に関しては謝罪します。ですが、視界に下着が入る状況で食事をしたくなかったので」


――ちょっと。乙女の下着を汚物扱いするの止めてくれます?


「そういうの気にするなら普段からちゃんと片しましょうよ。そもそも、姉がいる家庭で育った男にとっては、下着なんて真実汚物でしかありませんから」


――私と七篠さんは兄妹ではありませんが?


「それでもです。傍若無人な姉の下で育った弟は、女性に幻想など抱かないものです。どんなに世間で評判が良かろうが、美人扱いされていようが、人は誰でも家ではおっさんですから。ほら、そう考えれば、今回の件もおっさんがおっさんの下着を片しただけです」


――嫌な絵面ですね。というか、おじさん扱いは流石に失礼です。


「それはこちらの台詞です。普段から虐げられているおじさんは、身綺麗であろうと努力しています。それに比べて、この部屋に住んでいる松延さんはどうなのですか? おじさんに謝ってください」


――ぐっ。それを言われると……。


「普段からもう少し片付ましょう。さもないと、ヤツが出ますよ」


――私は田舎育ちなので、それは別に……。


「食べたら即帰りますね。お疲れ様でした」


――ちょっと、話が違いますよ。


「いやいやGが出る部屋は無理ですって」


――大丈夫です。私が捕まえますから。


「残骸の処理は?」


――それも任せてください。ちょちょいのちょいの助です。


「……それは大変助かります」


――今キュンときましたね? 惚れましたか?


「そうですね。あまりの頼もしさに一瞬恋に落ちかけました。まぁよく考えたら、気のせいだったんですけどね」


――いえ、それは気のせいではありません。きっと湯上がりの私から漂うあまりにも濃厚な色気によって……。


「アップルパイ冷めるんで後にしてもらっていいですか? あと食事中なんで、ヤツの話は止めてください」


――七篠さんが先に言ったくせに。


「そもそも恋の始まりがそれでいいんですか?」


――いいじゃないですか、素敵じゃないですか。個性があります。こんな理由で付き合い始めるカップルとかなかなかいませんよ。


「そんな個性はいらないです」


――それなら、アップルパイで始まる恋ならどうですか?


「それは大変素晴らしいですね。さぁ早くアップルパイをください。そうしたら何かが始まるかもしれません」


――……。


「どうしました? 早く」


――……七篠さん、美味しいものは分かち合ってこそなんですよ?


「何ですか、今更渡すのが惜しくなったんですか? つまり、くれないんですね? では、何も始まりそうにないです。さようなら」


――既に二ピースもあげたじゃないですか。


「ここまでの送迎と部屋のクリーニングで相殺です」


――けち。


「松延さんは家事をやってくれる便利な相手が欲しいだけでしょ」


――……そんなことはないです。言いがかりは止めてください。


「そうですか。私の勘違いでしたか、それは失礼致しました」


――でも、どうしてもというなら月一くらいで家事をやりに来てくれても構いませんよ?


「今日のモノと同レベルの甘味を用意していただけるなら考えます」


――分かりました。ライターとして培ったコネをフル活用します。


「無理はしなくても結構ですよ。別にどうしても来たいわけではありませんので」


――いえ、素直になれない七篠さんのために私が一肌脱ぎますから。


「むしろ、あなたはもう一枚服を羽織ってください。お風呂上がりとはいえ、その格好だと風邪を引きます」


――七篠さんには少し刺激が強かったですか?


「はいはい、そうですね。あまりにも神々しくて目に毒なので、さっさと隠してください」


――まったくおませさんですね。


「……それより無理に引き留めたんですから、早くインタビューを終わらせてください。もう話すことなんて大してありませんけどね」


――いやいや、まだありますよね? 叩けばもっと埃が出そうです。


「私が悪事を働いていたみたいな言い方は止めてください。面白いエピソードなんて、もうそんなにありませんから」


――〝もう〟〝そんなに〟ですね。


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