第30話 忘れろと人は言う

ですが、七篠さんにはまだ目標があるはずです。そのために勉強もしていました。今こそ頑張り時なのでは?


「そうですよね。そのはずですよね」


――その気のない返事は何ですか?


「それがもうどうでも良くなっちゃいました。というか、何のために頑張ろうとしていたのかも分からなくなっていましたし」


――えぇ……。この店に来る前まで進学に対する熱い想いを語っていたじゃないですか。何故急に? 彼女さんにフラれて意気消沈したからですか? 例のアルバイトのストレス故ですか? お薬の副作用の倦怠感のせいですか? それとも、ここへ来て再度年齢や金銭面での不安で悩んだからですか?


「少し落ち着いてください。近いです。あとお酒臭いです」


――臭くないです。いや、それより理由を。


「それら全部のような気もしますし、どれでもない気もします」


――もっとちゃんと説明!


「いや、すみません。自分でも正直よく分からないんです。けど、そうですね。彼女との出来事は大きかったかもしれませんね。いや、彼女との関係それ自体も勿論なんですけど、この場合もう少し広い意味で、具体的には……結婚についてです。子供の頃から漠然と考えてはいたことではあるんですが、彼女とのやり取りを通してハッキリと意識したんです」


――何をですか?


「あぁ私は結婚出来ないんだなって。元々結婚願望こそ無かったものの、いずれそれも変わっていくものだろうと考えていたんです。でも、決意は思いの外固かったし、そもそもどう考えても上手くいくビジョンが見えないんです」


――それは誰でもそういうものなのでは? 結婚には勢いが大事とも言いますし、確信があって明確に将来を見据えている方の方が少数派なのではないでしょうか?


「すみません。説明がちょっと曖昧でしたね。ハッキリいうとですね、自身のDV癖に対する悪い予感を払拭出来ないんです。言い換えるなら、何か嫌なことがあれば確実に人に当たり散らして手を上げるってことです。そう確信できるんです。付き合っている段階なら逃げてしまえばいいです。ただ、もし結婚して逃げ場がなくなった時に、何か決定的な事態に陥りかねない。それが堪らなく怖いんです」


――……。


「私には勢いで結婚なんて出来ませんよ。それは相手に『もしかしたら暴力振るうかもしれないけど良いかな?』って言うのと同じですから。そんな無責任な話はないですよね」


――それだけ自覚があるなら……。


「『それだけ自覚があるなら暴力に至らないように努力すればいい』、ですか? そうですね。そうかもしれませんが、そんなことが可能なら、そもそも私は最初からDVなんてしていないはずです」


――でも、そんなの分からないじゃないですか? 実際には意外とすんなりとうまくいくかもしれないです。


「そうかもしれませんね。でも、安易にその可能性に縋るわけにはいきません。自分だけならいざ知らず人の人生も掛かっていますから。私は万が一にでも、最愛の人に母の様な人生を送ってほしくはないです。子供に人の顔色を窺いながら生活するような惨めな思いもさせたくはありません」


――幼い頃から漠然とそのように考えていたと?


「はい」


――それを彼女さんとの出来事を通して強く自覚した?


「はい」


――それで、それがどう先程の話につながるのですか? それは進学を諦める理由になるんですか?


「はい。そのやり取りを通して、『あ、自分は結婚出来ないな』って確信した訳です。つまり、言い換えると〝ずっと一人で生きていく〟ということです。そのままですけどね、はは」


――全然笑える要素はありませんが。それで?


「あ、はい。それで思ったんです。『それならもう十分だな』って」


――一体何が十分なのですか?


「一人で生きていくだけなら別に進学は必要無いかなって。いえ、進学だけじゃなく、贅沢しなければお金だってそこまで必要ではありません。人付き合いも要らないです。一人で生きていくだけなら必要の無いものばかりです。そう考えたらフッと肩の荷が降りました。それと同時に目標も目標では無くなりました」


――七篠さんの思考は極端すぎて、私には全く一ミリも理解できませんね。でも、それはとても悲しいことのように感じます。


「そうかもしれません。昔、海外の偉い人も言っていました。『自分だけの人生なんて薄っぺらいものだ。誰かのため、何かのために生きてこそ人生は輝くものだ』と。それで言うなら薄っぺらいのかもしれませんね。それでも、誰かに不利益をもたらしてしまうよりはずっと良いです」


――何から何まで極端すぎます。ちーっとも、これっぽっちも、何一つ理解できません。七篠さんは自分に酔っているようにしか見えません。そういうのカッコ悪いですよ。悪いところがあるのなら直せばいいし、やりたいことがあるならやればいいんです。


「いえ、ですから、やりたいことをやりたいと思えなくなってしまったという話です。必要性を感じなくなってしまったんです。それに、簡単に直せたら苦労しないです」


――それは分かりますが、過去のことはどうやっても変えられないです。それなら未来をどう良くしていくかを考えるしかないじゃないですか。


「……」


――……。


「……」


――何か言ってください。


「松延さんの仰る通りです。正論すぎてぐうの音も出なかっただけです」


――そうですよね? 私正しいですよね?


「はい、正しいです」


――じゃあ何で私……の親友と同じ顔をしているのですか? 何故そんなに悲しそうな顔をしているのですか?


「それは……っと、時間切れですね。もうそろそろ閉店みたいです。今日はここまでにしましょうか」


――そんな。ここからが大事なところです。


「いえ、今日はもう無理です。また日を改めましょう」


――……分かりました。

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