第8話 安易な介入は悪化を招きがち
「……さて、他に何か質問はありますか?」
――そうですね……、今までは七篠さんの家庭内の話が中心でしたので、次は周囲の状況についてお話をお聞きしたいです。DVについて、周囲の方は気付いておられましたか?
「周囲というのがどの程度の範囲を指すのかは分かりませんが、まぁ地域では割と有名ではありました。ウチのボロ一軒家は住宅街に在りましたし、道路を挟んで反対側には大規模な市営住宅も立ち並んでいましたから。夜中の怒鳴り声などは周囲に丸聞こえだったそうです。しばしば学校で友人に言及されました」
――近所の方は何かアクションを起こしてくれましたか?
「はは、それは難しいですよ。当時はまだDVなんて言葉はありませんでしたし。昔気質の頑固親父だとか、躾に厳しいとか、そんな程度の認識だったんでしょうね。何ならそれだけ怒鳴らせる妻や子供に問題があるんじゃないかなんて風潮すらありましたし」
――そうでしたか。
「まぁ傍観者効果ってやつもあるんじゃないですか?」
――傍観者が多いほど、一人一人の責任感が薄まり行動を怠ると言う社会心理学の用語ですね。元々はアメリカの住宅街で起きた事件が元になった用語だとか。
「そうですそうです。ですので、まぁしょうがないかなと。あぁそういえば、お向かいのご夫婦は優しい方でした。父の恫喝や暴力があまりに激しい時に何度か様子を見にきてくれましたし。ですが、それだけ酷い時には、父も常より激昂しているので『あのクソババア、ちらちら覗き見しやがって気持ち悪い』みたいにワザと聞こえるように口汚く罵っていましたね。それで、万が一にでも父が隣人ご夫婦に手をあげでもしたら困るので、『何でもないです。大丈夫です。うるさくしてごめんなさい』と伝えて帰ってもらっていました」
――状況の改善には至らなかったのですね。
「そうなります。ですが、それでも十分ありがたかったです。昼間には母の話を聞いてくれて、私達には困ったらうちに避難してきなさいって言ってもくださいました。実際にその機会はありませんでしたが、それでも大きな心の拠り所になりました」
――学校側は七篠さんのご家庭の事情は把握されていましたか?
「どうでしょう。していたんじゃないでしょうか。低学年の頃は姉弟揃ってしょっちゅう青あざができていましたし」
――やはり何も?
「というか、そもそも当時の担任が暴力を振るっていましたし」
――そうなのですか?
「はい。体罰が問題視される前でしたので、まだそういう教師も存在していました。その五十代くらいの女性教師は常に竹の棒を持っていて、怒ると生徒の机やら黒板やらをバシバシ叩いていました。流石に生徒には使わなかったですが、素手での尻叩きみたいなのは良くやっていました。生徒も低学年で低体重なので、教卓から前のドアのあたりまで衝撃で吹っ飛んで廊下まで転げるくらいでした。定期的に見せしめみたいに決まった生徒を吊し上げていました」
――七篠さんは被害に遭われましたか?
「遭いました。クラスに三人ほど標的になりやすい生徒がいまして、そのウチの一人が私でした、はは。一人はフィリピン人の男の子で今なら差別じゃないかっていうような暴言を吐かれていました。先程の尻叩きで吹っ飛ばされたのもこの子です。もう一人は女の子でした。やたら標的になっていました。ですが、決して負けることなく睨み返すような強い子でした。そのせいで余計目を付けられていましたけどね。何より怖いのは、その教師の影響でクラス全体がその子を敵視するようなムードになっていたことです」
――その女子児童は何故ターゲットにされてしまったのでしょうか?
「分かりません。ウチの姉のように苛烈で、教師を睨みつけたりしていたのでそれで嫌われていたのかもしれません。あとは不潔だって教師に悪口を言われていました。今考えると、ネグレクト家庭だったのかもしれませんね」
――なるほど。では、七篠さんは場合は、何故標的になったとお考えですか?
「私は父の顔色を窺う生活が染み付いていたせいか、とにかく卑屈で陰気だったので、それが教師の癇に障ったのでしょうね。気持ち悪い目をしているとは常々言われていたんです」
ーーそれで標的に?
「いえ、それでも最初はネチネチ嫌味を言われる程度でした。そんな或る日、事件が起きました。放課後の掃除の時間にですね、教師が育てていた観葉植物を倒してしまったんです。……私の隣に居た子が」
――七篠さんではなく?
「隣に居た女の子です」
――どうなりましたか?
「気付いて血走った目で駆け寄ってきた教師に張り倒されました」
――自分ではないと弁解はしましたか? 女の子の反応は?
「既にぶたれた後ですし、どうせ嫌われているので無駄だろうと早々に諦めました。理不尽には慣れていましたから。女の子も怖くて何も言えなかったんでしょうね。バツが悪そうに俯いていました」
――……。
「それよりも、その翌日に教卓の前で二時間丸々謝罪をさせられたのが堪えました。『不注意で先生が大事にしていた植物を倒してしまいました』『みんなの勉強時間を奪ってしまいました』『私が悪かったです』みたいに延々と土下座と謝罪を繰り返させられました。内心では『現在進行形で授業を潰しているのはあんただよ』と思っていましたけどね。その後もネチネチ嫌味を言った後に、さらに生徒一人一人に私を罵倒させるんです。『◯◯君がよそ見していたのがいけないと思います』とか『◯◯君は普段からよそ見をしていました』みたいな告げ口大会です。ちなみに、植物を倒した当の女の子の罵倒が一番キツかったです。はは」
――薄情すぎます。普通は恋が芽生えたりするものでは?
「それは無いですよ。私はクラス替えまでずっと腫れ物扱いでしたから。この時期は誰とも口を開かずに家に帰る日も有りました。まぁ、あの教師は教室の支配者って感じで逆らえる雰囲気ではなかったので、クラスメイトの反応も理解はできます。いやぁ本当に嫌な教師でした。あぁ、すみません。ここら辺はDVとは関係無いですね」
――いえ、生活環境を知るのも取材の一環ですので。その後はどうなりましたか?
「先程挙げた二人ほどではないですが、私も標的になることが多くなりました。大抵は嫌味を言われる程度ですが、難癖付けて配布物や給食を与えないみたいな嫌がらせは何度かされました」
――そんなことをされるのですか?
「私自身、この諦めたような言い方は大嫌いですが、〝そういう時代〟だったのでしょうね。そんな指導も罷り通っていました。それくらい厳しい方が子供のためには良いなんて、その教師も一部では人気があったくらいですし。嫌な時代です。よく『昔は良かった』なんて言う年配の方いますが、とんでもないです。私は現代の方が良いですね。治安もモラルも何もかも向上していますし。比べるべくもないです。とはいえ、私に何の落ち度も無かったとは言いません。愚鈍で覚えは悪かったし、確かに根暗で気持ち悪いと言われても仕方ないのかもしれないです」
――家でも学校でも精神が休まる場が無いのでは、萎縮して内向的になってしまっても仕方がないのでは?
「そうかもしれません。でも、もう少し上手くやれた気もします」
――学校でのことはお母様はご存知でしたか?
「言えるわけないです。母の心労を増やすわけにはいかないので。教師に強く当たられて頬を張られたことよりも、それを母に知られることの方が辛いです。ただ、一回だけどうしても耐えられないことがあって、その時は泣いてしまって家に中々帰れませんでした」
――それは?
「小学生の頃って防災頭巾ってあるじゃないですか」
――椅子に取り付けるやつですか?
「はい、そうですそうです。そのカバーは各家庭で自作したものなんですが、私の頭巾のそのゴム紐部分を担任教師が引きちぎったんですよ。植物を倒した罰だからって。『こいつはモノの大切さが分かっていないし、ちっとも反省しないから分からせないといけない』って。それはキツかったですね。自分が打たれるのはともかく、母の手作りのモノに当たるのは違うだろうって、子供ながらに辛かったです。どんな顔をして帰ればいいか分からなかったです。その時ばかりは泣きながら帰りましたし、消えてしまいたい、死んでしまいたいと思いました」
――結局どうされましたか?
「泣きながら母に『取れちゃった』って言いました。転んだ時に引っ掛けたとか適当に誤魔化せば良かったのに。ショックで頭が回りませんでした」
ーーお母様の反応は?
「学校で何かしらあったとは気付いていたとは思います。ただ何も言わず、いつものようにこっそり甘やかしてくれました」
ーーそうですか。
「はは。いや、話が逸れてしまって申し訳ないです。そんなわけでして、ご近所さんや学校の方がどうこうってことはありませんでした」
――周囲を恨みませんでしたか?
「それはもう恨みましたよ。『何か困ったことがあったら、おばちゃんにいつでも言ってね』とか言う割に何かしてくれる人なんて滅多に居なかったですから。いざ話したら話したで気まずそうにフェードアウトするだけですし。だったら、最初から声なんてかけないでほしかったです。どうせ何も出来ないんだから。その程度の覚悟なら何もしない方がマシです」
――そう思われますか?
「そう思っていました」
――今は違うのですね?
「勿論です。松延さんが当時の気持ちで話してほしいと言っていたから伝えましたが、実際に言ってみると……まぁ捻くれていますね。はは。親切に声をかけてくれた方に対して、私はそんなことを考えていたんです。我が事ながら気恥ずかしいです」
――今はどうお考えですか?
「詳しい話は後でするつもりですが、後々起こる別件を通して介入することの難しさを知りました。そもそも一般人が出来ることなんてほぼ無いですし。情報提供くらいでしょうか。普通の人は何も出来なくて当たり前なんです。心配して声を掛けただけでも、とんでもなくすごいことなんです。それを分かっていなかったです」
――要するにプロに任せるべきだと?
「はい。また別の時に、こんな出来事がありました。『困ったことがあったら言ってね』と言ってくれた方の内の一人に、姉が事情を話して助けを求めたそうです。それで、その女性の方は父に直接対峙して姉の不満を代弁してくれたそうなんです」
――行動してくれたのですね。どのように伝えてくれたのですか?
「『娘さんが日常的に暴力を振るわれていると言っている。アザもできている。やめてあげてくれ』と仕事帰りで家の前に居た父にそう話し掛けていました」
――随分直接的ですね。それで、お父様は何と?
「それは勿論否定しますよ。『えぇ? 娘がそんなことを言っていたんですか? 弱ったなぁ、確かに叱った時に少し熱が入ってしまったけど、暴力なんて大袈裟な。軽く押した程度ですよ。でも、わざわざお伝えいただきありがとうございます。誤解を招くような行動をした私も悪かったかもしれませんね。申し訳ありません』と、そのようなことを言っていたような記憶があります。随分経っていますので、正確ではないかもしれませんが、大筋では間違っていないはずです」
――その後どうなりましたか?
「殴られたり蹴られたりすることは無くなりました」
――それは良かっ……。
「見える部分はです。頭、首、肩、腕、脚。そういった部分ではなく、腹、腰、尻辺りの打撲が増えました」
――手口がより巧妙化して発覚し難くなったということですか?
「ええ、そうなります。ですので、やはりプロに任せるべきなんです。私含めて一般人にはどうにもできません。私の父のケースのように、問い詰めても証拠不足で煙に巻かれるケースは多いですから。半ば洗脳状態で被害者側が加害者を庇ってしまうケースもありますし。逆に、本当に子供が親に少し強めに叱られた腹いせに虚偽の通報をする場合もあります。DV被害の有無は判断が非常に難しいんです。
ーーなるほど。
「そもそも、DV加害者は大抵外面が良いものですから。豹変する前は穏やかで優しそうな人が多い。実際に父もそうでした。父に突撃してくれた方も父の怒鳴り声や悪評は知っていたはずです。でも、いざ対面したら父は誠実そうで柔和な雰囲気でさぞ困惑したことと思います。その結果、気勢を削がれてしまいました」
――なるほど。そういうことでしたか。
「そういうことです。人は見た目では分からないものなんです。プロですら難しいんですから素人にはその判断はできません」
――良く理解できました。
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