最終話 笑子がいる
「起きたか」
「……ごめんなさい、宮下さん、私」
「堕ろしても無駄だぞ。これ以上命を粗末にしても、何の解決にもなりはしないんだ」
「でも……じゃあ、私どうしたら。タカもいなくなっちゃって――もう私、おかしくなりそうで」
夕方になり目を覚ました紗枝は顔の赤みも抜け、それまでの酩酊した様子は
なくなっていた。
「笑子は見えるか」
「いまは、居ないです。でも信じてください、ほんとにいつも部屋にいるんです」
「わかった」
ただ一言だけ返した。そして宮下はすぐさま車の鍵を握り、立ち上がる。
「急げ、ここを出るぞ」
「え?」
「……さっきから獣の臭いがしてんだよ、喰われる前に逃げるぞ」
*
社用車の中は相変わらず煙草の臭いが沁みついていた。しかし紗枝がそのことに不満を言うようなことはなかった。
夕方の道路は混雑していて、進みが遅かった。
苛立ちのなか、宮下はハンドルをきって、国道を外れ遠回りとなる側道に抜ける。
「あの、どこに向かってるんですか」
「……美空マンションだ」
「そんな! わざわざ死にに行くようなものじゃないですか」
「あのまま部屋に居てもどうせ殺される。あの犬はな、元は笑子の飼い犬なんだ、入居者以外のものが稀に連れ込まれるのも、犬に引きずりこまれてのことだ。団地から離れようが関係ない」
運転しながら胸ポケットに仕舞っていた二つ折りの携帯を取り出す。
左手でそのプッシュ式のボタンを押し、着信履歴から岩瀬の文字を選んだ。
『ああ、岩瀬さんすまない。いま森脇を確保した。これから美空マンションまで連れていく。大場世美子はいま301号室にいるんだな』
301号室で自殺した酒井トヨの娘、大場世美子が退去前の整理のためにマンションを訪れる予定があった。
そのことを宮下は事前に把握をしたうえで、岩瀬にその大場を監視するよう依頼していたのだ。
「えっと、宮下さん。大場さんって……」
「ああ、あの婆さんを捨てた娘だよ。あいつを身代わりにする」
笑子への対処のしようはないが、一つだけ被害から逃れる方法はあった。
それは別の者へ被害をすり替えることだった。
「……! そんなのっ」
「できる。大場にも娘が一人いてな、条件は揃ってる。この前の上着……まだ積んでるからそれを大場へ着せて、301号室に閉じ込める。笑子は目が見えない。生前、糖尿病の悪化で失明しているんだ。だから犬に頼る。鼻は効くがにおいでしか判断できやしない」
「できるとか、できないとかじゃなくて!」
人道的にどうなのか、と聞きたいのだろうと宮下は察した。
察したが突き放すように冷たく言い放った。
「じゃあこのまま死ぬか?」
その一言に彼女は押し黙った。
車はそのまま峠道に入っていった。普段の経路であれば、バイパス道路を通ればいいことたが、帰宅ラッシュの混雑を避けるための迂回となる。
日の当たらない道は暗く、ヘッドライトをつけて進む。
「笑子の父親は働かない男だったらしい。昼夜問わず酒と賭博に溺れる毎日で、まあ一家の長がそんな感じじゃ貧乏にもなるわな」
「……そうですね」
「母親が畑でとれたものを闇市で売って生計をたててたようだ。そんな生活だったから、学校でも大層いじめられていたらしい。それでも笑子は高校卒業とともに地元の電気屋の事務として就職して、取引先の男と結婚し子供も生まれた」
「そこまでは幸せだったんじゃないかと、思う」
淡々と語りだした宮下の言葉に、紗枝はゆっくりと頷く。
恐怖に震える両手を重ね合わせて話の続きを待つ。
それ以外に、紗枝に出来ることは何もなかった。
ただ恐怖だけが心を支配していた。
「だが、その数年後、結婚相手の男が飲酒運転の車にひき逃げされて死亡した。夫を失ってから笑子は変わった。そう聞いている」
「かなしいひとだったんですね」
「どうだろな、俺には最初から笑子が狂っていて、夫の死を機会にそれが表面化しただけに思えるが。事実、笑子は自身の不幸のすべてを産みの親のせいにし、実母であるハルヱを追い出して、美空マンションに捨てている」
曲がりくねる道をのぼっていく。都度、車のサスペンションが軋むたびに、横転するのではないかと不安に思うほどの速度だった。
「それからは息子にも呆れられ、飼い犬だけが笑子の心の拠り所になった。その犬が病気で死んだ日の夜、あとを追うように笑子は山奥で首を吊って死んだ」
「……宮下さん、詳しいですね」
「俺の記憶力のことは知っているだろう」
その返答に最初は納得した森脇だったが、少しして違和感を覚えた。
たしか……。見たものはすべて記憶しているとは言っていたけど――聞いたものは。
そこまで思考した瞬間、大きく車体が揺れた。
がりがり、がりがりと車体の左側から鈍い音がして、その左側が大きく下がるように、車は斜めに傾いた。
紗枝の身体は、そのときの慣性によってボンネットまでもっていかれるが、シートベルトによって押し返されることとなった。
体中が軋むように痛むが、無事ではあった。
「……悪い、側溝にタイヤが嵌ったみたいだ。大丈夫か」
「大丈夫です……宮下さんは?」
「俺も身体はなんともない、だが……車のほうがまずいな」
宮下はそう言うとアクセルを踏みしめた。
ギュルギュルと言ったゴムの擦れる音がするだけで、車体が動く様子はない。シフトレバーを使ってバックギアに切り替えるも、それは変わらなかった。
「だめだな、前にも後ろにも行けそうにない」
「……外、見て来ましょうか」
そう言って紗枝はドアを開けるようとした。
「……ひぃッ」
サイドミラーに映る影があった。
女性の姿だ。
「……み、みやしたさん……後ろ、後ろに……笑子がいる」
「くそ。何キロ走ったと思ってんだよ」
再度、ギアを戻して強くアクセルを踏みしめる。それでも、車が動く様子はなかった。そんなとき携帯の着信音が鳴った。
――ちっ。
苛立ちから舌打ちをしつつ、宮下はその着信をとる。
『岩瀬さん! すまんが、いま車が止まっててまだ時間かかりそうだ』
『……みや、したさん。来たら……だめだ……大場は……もう死んで――、ハル……エ……が……すべての……』
山奥だからか、電波が途切れとぎれで、ノイズ混じりのため上手く声が届かない。
『岩瀬さん! 大場のばばあがどしたって? なんだ、ハルヱ婆さんはもうとっくに……、婆さんがすべてのなんなんだ!』
『……やめ……まだ死にたく……』
ツー……ツー……。
「おい、どうした! 岩瀬さん! おい!」
通話が途切れたことを示す電子音だけが残った。
「宮下さん! 車、早くだしてください! 笑子がもう、近くに」
「うっせぇ! いまやってんだろがッ」
宮下が叫んだとき、車内にある臭いが充満した。
それは、雨上がりのむっとくる草木のような匂い。そんな青くさい匂いを何倍にも抽出し濃くしたような……獣のもつそれだった。
「……宮、し――あッ……がッッ――」
突如として後部座席から顔をだした黒い大型犬。
その牙が森脇の白い首筋に、食い込んでいた。
「くそ、離れろ! くそっ!」
宮下はその犬を振り払おうと、その頭を毛ごとに、がしりと掴んだ。
そして、一気に引っ張る。
その勢いで歯の形そのままに、森脇の首筋にある肉が裂け、大量の血液が噴き出した。
――ッ
その瞬間、紗枝は絶命していた。
白いシャツは血によって赤く染まり、その口からは逆流した血液が泡になって零れていた。
大きく見開かれたままの目は左をむいている。
左のサイドミラーを見ていたものだろう。
そこに映る……にやついた笑子の姿を最後まで見ていたのだ。
「犬は……どこいった。笑子は――」
車内を見渡すも、ただ死に絶えた紗枝の亡骸以外には何もなく。
獣の臭いと、血液による鉄の臭いが混じり合ったような……そんな異質の臭いだけが残っていた。
§
一人の若い女性が、オオカワ不動産の窓口を訪れた。
以前より何度にもわたりネットと電話を通してアポイントをとっていた、新規入居予定のお客様だった。
宮下はその女性に紹介するため、とある物件のデータを印刷し、それを手に窓口へと向かった。
「お待たせしました。ご希望に添える物件を見繕ってまして――、ただご予算を考えると、ちょっと訳ありな物件とはなるのですが」
「えっと、訳ありとは……?」
「いわゆる、心理的瑕疵というものになるのですが、すでに清掃も済ませてますが、実はここの301号室では自殺がありまして」
「あー。そういうやつですね、大丈夫です大丈夫です。オカルトとかって信じない質なのでっ」
「それなら良かった。ただ、問題がそれだけじゃなくて、その現場検証の際に刑事さんと身内の方の二人もですね……先日、不慮の事故で亡くなっているんです。まぁ、そういうわけで非情に訳ありなわけですが、オカルトを信じないような方であれば。大丈夫ですかね?」
ここまで話すと、大抵の客は引いてしまうものだが、この女性はむしろ嬉々として聞き入っているようだった。もしかすると、最初から事故物件を狙っての入居なのかもしれない。と宮下は察した。
昨今ではネット配信の話題作りで住みたがる人も多いと聞く。
「ぜんぜん、むしろ歓迎です!」
「それなら……契約の話になりますが、二つ条件があるんですよ」
「? なんでしょう?」
美空マンションの契約には他の物件にはない特別な契約条件が追加されている。
「おひとりとは聞いておりますし、お子さんがいらっしゃらないのはもう存じてはおりますが、妊娠などされていないでしょうか」
「あ、えっと、はい。相手もいないですし」
「それなら、良かった」
そのとき女性が顔をしかめた。
契約内容が理由ではない。窓口から……いや、対面にいる宮下から異質な臭いがしたからだ。
天井にはめ込まれたエアコンの風向きが、ちょうど自身をむいていることからも強く体臭が届いてしまったものだと納得する。
しかし堪えがたい。
最初はその臭いを煙草の臭いと感じたものだったが、それもまたどこか違っていた。記憶を辿り、それに近いものを思い出した。
犬のような獣の臭いがするのだ。
速やかに契約だけは済ませようと思い、催促をするよう言葉を投げかける。
「あの、もう一つの契約条件っていうのは――」
「ああ、そのことなんですがね」
――直近で、母親を捨てる予定は、ありませんよね
事故物件に潜む怪奇~営業部、新人森脇紗枝の霊障ケース~ 甘夏 @labor_crow
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