8話 白藤の雨隠れ

 蝋燭の火がゆらりと部屋を照らしてる。辺りはすっかり夜になり、ひやりとした風が部屋に流れる。どこからともなくすずむしの声も聞こえてきた。机には紙と墨が置かれ、その筆をとった優はゆっくりと墨に浸した。



 「優、そうじゃないよ。もう少し動きを小さくして」

 「小さく?」


 今日は門弟達も早く帰り、自宅で夕飯も済ませていた松陰と優は、今朝の約束通りふさ宛の手紙を書こうとしていた。慣れない筆と墨に苦戦する。字を書いてもすぐ潰れてしまう。小学生のときの書き初めとは訳が違うのだ。


 「こうするんだ」


 優の筆を持つ手を、後からそっと包み込む。手が重なったまま、松陰がゆっくりと墨に筆を落とし、すーっと引いた。それは松陰の字そのもの。されるがまま『松』という漢字が出来上がった。

 しかし綺麗に書かれた字よりも、優は他に気を取られて集中できなかった。

 後ろから覆いかぶさるような松陰の体。背中から伝わる体温、髪にかかる吐息、声が耳のすぐそばから聞こえて、何も考えられなくなる。

 


 「まずは名前を綺麗に書けないと。藤野優、でいいかな?」


 そんな優の気持ちは知ってか知らずか、平然と聞いてくるが、鼓動が煩くて上手く返事ができない。代わりに小さく頷いた。


 「ふっ。じゃあ書くよ」


 耳元で名前を読み上げながら、優の名を書いていく。


 「藤野 優……藤野、優」


 自分の名では無いはずなのに、それは自分の事を言っているのだとわかる。なんとも奇妙な感覚だ。何度も、何度も優の名を唱えながらゆっくりと筆をすすめる。それは何度も、名前を呼ばれていた。

 息をするのも忘れてしまいそうだった。


 「ふさからの便りには何が書いてあったんだ?」

 「んー、それは秘密です」

 「えー!じゃあ何て書けばいいかわからないじゃないか」

 「それでも秘密ですー」

 「なんだよ、じゃあもう教えないよ?」

 

 戯れるように笑い合う二人。ふと目が合った。蝋燭の灯りが風に吹かれて影が揺れる。あと少し近付けば触れてしまいそうなその距離で見つめ合ったまま、互いに目を逸らさない。

 ゆっくりと目の前に近づく彼の顔に、反射的に目を閉じた。望んでいる事はただ一つ。

 あと少し、あと少し……



 ガサガサッ


 庭先から物音がしたかと思えば物陰からドサっと人が雪崩れ込んできた。それも一人ではない。




 「いってぇーー!だから押すなって言っただろ!」

 「私じゃないですよ!久坂君です!」

 「おい利助!いつも俺のせいにしやがって!」



 物陰から出てきたのは、亀太郎、利助、久坂、そして、ふみだった。


 「お前達……通りであっさり帰ったと思ったら……」


 松陰は赤くなる顔を手で隠しながら横を向いた。

 隣にいた優は恥ずかしさで隠れるように部屋の隅へそそくさと逃げる。



 「ごめんなさい優さん!違うの、あのね、なかなかお部屋に来ないから心配でね、ここかなーと思って見にきたら……本当に覗くつもりじゃなかったのよ!」

 「もういいです。穴があったら入りたいとはこの事ですね」



 魂が抜けたように優は膝を抱えて項垂れていた。

 そのあとはふみに連れられ部屋へ戻り、床についた。にやにやしたふみにあれこれ聞かれたが、聞こえないフリをして布団を深く被り込んだまま、気づけば眠っていた。



 松陰達はというと、覗き見をしていた三人に朝まで暗唱させていた。覗き見をするという浅はかな行動を反省させるためだと本人は言っていたが、本当のところはどうだろうか。顔が真っ赤になったままの松陰を見て弟子達は朝までクスクス笑っていたそうだ。




***





 明倫館の教室。窓から空を見上げているのは高杉晋作だ。

 流れる雲を見ながら、先日町で出会った女の事を考えていた。



 --あんなやつ。なんで気になるんだよ。


 彼女の掌が触れた頬に自身の手を添える。

 あの日から彼女のことが頭から離れない。




 「高杉君、次剣術だけど、一緒に行かない?」


 名前も覚えていない男が話しかけてきた。媚を売りたいのが見え見えで吐き気がする。


 「いい。俺帰るから」

 「え、でも!」

 「つまんねーんだよ、お前らとやってもよ」



 そう言われて一瞬ビクッと肩を揺らした彼は、そそくさと教室から出ていった。



 「めんどくせぇ」


 椅子から立ち上がり、まばらに人が残る教室をでると、気だるそうに外へでる。

 彼に話しかけるものはいない。それもそのはず、常に高圧的で人と連もうとしない彼は、悪い意味で目立っていた。その上剣の腕も一流で、おまけに大組の跡取り息子。触らぬ神に祟りなし、だ。



 門をでて町を歩く。どこかで時間を潰そうか、それとも真っ直ぐ家に帰って三味線でもいじろうか、そう考えていた時だった。



 「すみません、少しお尋ねしたいのですが……」


 深く傘を被り合羽を着た男が高杉に声をかけてきた。

 みるからに怪しいその男に、腰に差した刀の位置を確かめる。


 「何者だ」

 「いや、怪しいものじゃ無いんです!」


 慌てて傘をとり、顔をあらわにした男は、深々と頭を下げた。


 「突然申し訳ありません。人を訪ねておりまして。この辺で藤野ゆう、という若い女を見ませんでしたでしょうか?名乗り遅れましたが、私藤野泰時と申します。」


 にこにこと人の良さそうな笑みを浮かべて泰時という男は高杉に歩み寄る。


 その者は刀をさしてはいないことを確認して、少し警戒を解いた高杉は、めんどくさそうに答えた。


 「知らねぇな」

 「そうですか……。では、松下村塾とはどちらにあるのでしょうか?」

 「何?」

 「そこに姉がお世話になっているかもしれないと言う噂を聞きまして、ここまでやってきた次第です」



 高杉の頭に一瞬、あの日の女の顔が浮かんだ。確か、あの妹が優と呼んでいたような……。



 「……それなら知っている。ついてこい」

 「あ!ありがとうございます!!」


 もう一度あいつに会えるかもしれない、なんだかそんな気がした高杉は、これはいい機会だと思い先程までとは打って変わって、生き生きとした表情で歩き始めた。


 泰時は駆け足で背中を追う。道中、自身の身の上を話し出した泰時は、姉のことをとても慕っていたことを楽しそうに語っていた。


 そんな話も上の空に、彼女に会ったら何と話そうか、そればかりを考えていた高杉の足取りはとても軽い。



 もう少しで会える。

 二人の心はそればかり。



 秋空は澄んでいて、見上げればまだ天に陽が昇りきる少し前だった。

 

 


 

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