9話 揺れる京紫
「少し肌寒くなってきましたね」
空気が乾き、秋が深くなってきたこの頃、滝と優は軒先から空を見上げた。
「そうだねぇ。その藍の着物、とても良く似合ってるよ」
「ありがとうございます!直してまでいただいちゃって」
「少し破れていたからね、ちょいと縫っただけよ」
優は自分が着ていたという着物を、今日やっと袖を通した。なんだかそれを着てしまうと、本当にこの世界の住人になったような気持ちになりそうで避けていた。だけどもういい。
思い切って着てみたら、深い藍色に藤の花が描かれていて、薄紫色に銀の刺繍糸がキラキラと光っている帯がとても上品で、見惚れてしまう程に美しかった。
「とても綺麗ですね、この着物」
「何言ってんの!自分のでしょ?」
「あぁ、そうでしたね」
遠くから、松陰達の力溢れる論議が聞こえる。そんな日常も当たり前となり、優もふみも時間さえあれば松下村塾へと通っていた。
「御免!」
突然、大きな声で一言、戸口から聞こえてきた。
どことなく聞き覚えのあるその声の主を頭の中で探すが、思い出せない。
優と滝は顔を見合わせて、玄関まで向かった。
「お前何しに来たんだ!!」
突然、久坂の怒鳴り声が聞こえる。その声に驚いた二人は、歩みを速めた。
目的の場所へと到着すると、久坂と睨み合うあの男がいた……高杉だ。
「やば!」
高杉の姿を見た瞬間、滝の背後へ隠れたが、時すでに遅し。
「あぁ、居た居た。久しぶりだな」
優に気づいた高杉は、嫌味をたっぷり含ませて話しかけてくる。それでも滝の後から顔だけ少し出し出てこない優に、話は続けられる。
「お前に客だ」
高杉が横へずれると、笠を被り合羽を羽織った旅人のような風貌の男が現れた。
ゆっくりと笠を外す男。
優は知らないはずなのに、胸が窮屈に唸り始めた。体がその人とは会いたくないと反応しているようだった。思わず凝視してしまう。
「お久しぶりです、姉さん」
人の良さそうな笑みを浮かべるその男に、冷や汗が流れた。
***
「藤野
深々と丁寧に頭を下げた泰時は、姉を心配して探していたという。だけど、なんだか優は今ひとつ気乗りせず、ふみの隣で黙りしていた。居間には杉家の皆と優、泰時が並び、異様な緊張感が漂っている。少し離れた所で久坂や数名がチラチラと覗いているが、空気を読んで中にまでは入ってこない。高杉といえば塾の中へ入り込み、置いてある本をだらだらと読んでいた。
「姉さん、僕の事もお忘れですか?」
「ごめんなさい、何も覚えていなくて」
「そうですか……。では、家には戻られないんですか?」
優はドキリとした。松陰から聞いていた話によれば、体の元々の持ち主は、家族から逃げるように家を飛び出し身投げまでした筈だ。それをなぜ今探しに来たのか。
「少し前に姉さんの事を萩で聞かれたと言う人と会いました。理由は知らなかったのですが、もしかすると萩に居るのではないかと思い、ここまで来たんです!姉さん、一緒に戻りましょう!!母様の事は僕がなんとかしますから!」
一体、泰時とゆうとの間には本当の姉弟の関係があったかのように話す彼だったが、優はちっとも嬉しくなかった。
ここを離れたくないだけなのか、それともゆうが帰りたくないと言っているのか、上手く言い表せないが焦りが生じる。
返事が出来ず、黙りこくる優に周りも遠慮し、下を向くか目を瞑っている。
そんな中沈黙を破ったのは、松陰だった。
「君が姉上を思って訪ねてきた事は大変素晴らしい事だと思います。だけど今、優は新しい人生を歩もうとしている。ここで沢山の人と出会い、仲間が出来、学ぶ事の楽しさを感じている途中だ。私にはそう見えるんだが、どうだろう?」
「先生……」
優へと目線を移し促してくれた松陰のお陰で、答えが見たかった。
「泰時、さん。申し訳ありません。私、今すごく楽しいんです。先生やふみさん、杉家の皆様に温かく迎えてもらえて、本当に嬉しかった。全て忘れてしまい何もできない私を、優しく見守ってくれたんです。
塾のみんなとも、まだまだ私は話に入れないけど、それでも皆が何を考えているのか知りたいんです!だから、皆んなと居たい……もし杉家の皆様に許されるのであれば、ここに居させて下さい!」
気がつけば静かに涙が頬を伝っていた。
深く頭を下げたまま、起きてこない優に、杉家の皆は顔を見合わせて表情を緩ませた。
ポンッ
ふみが優の背中に手を置く。ふみを見ると、涙を溜めながら優希に笑いかけた。
「何言ってるの。もう、私たち家族じゃない」
「ふみさん……」
「そうだ、好きなだけ居たらいい!」
ふみと松陰の言葉に、周りも頷き、百合之助にいたっては目頭を抑えて、泣いていた。
「……そうですか。それなら仕方ありませんね。潔く諦めます。父と母には内緒にしておきますので、安心して下さい」
泰時はわざとらしく肩を落とした。そして胸元から上質そうな布を取り出す。
「これを、
それは艶やかな京紫の風呂敷だった。春、といわれてもピンとこない面々は、机に置かれたそれを黙って見ていた。
「そうか、春様の事もお忘れなのでしたね。姉上を心配して京から参った時、もし帰ってきたらこれを渡して欲しいと頼まれました」
おそらく春様というのは、ゆうの想い人だろう。察した優は、風呂敷を手に取った。しかし掴みどころが悪かったのか、はらりと広がってしまう。
慌てて畳直そうとする優の手を、先程まで離れで本を読んでいた筈の高杉が掴んで静止させる。
「ちょ、突然なんですか?!!」
驚いて振り向くが、高杉の顔を見てそれ以上何も言えなくなる。彼の顔が強張っているように見えたからだ。まるで見てはいけない物を見てしまったような。不思議に思い周りを見渡すと、机を囲んでいた人は皆時が止まったかの様に一点を見つめている。ある者は開いた口が塞がらず、またある者はふるふると体を震わせていた。
「え……どうしたんですか?みなさん」
「お前その紋、わからないのか?」
「もん?紋って……」
高杉があわてた様子でいうものだから、風呂敷の四隅に丁寧に刺繍された家紋をまじまじと見つめた。
どこかで見たことがある。ドラマか、教科書か、はたまたゲームか……
だが検討がつかない。皆が固まる意味もわからなかった。
「これは、三つ葉葵の紋……徳川家の家紋だ」
低い声で、張り詰めた空気に乗せるように高杉は口を動かした。
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