第2章 泡沫ノ戯

7話 麗かな日の一幕

安政三年、十月。



 「ゆっくり、優しーく、そうそう、上手よ優さん」

 「……できたっ!」


 ご飯を炊くための火を起こしているのは本当の姉妹の様にいつも一緒の優とふみだ。


 杉家での日々も慣れ、優が出来ることも増えていった。ここへ来てからは退屈なんて一切ない。時々ふとスマホを探してしまったり、ハンバーグが食べたいと思ってみたり、ドラマの最終回はどうなったのかとか気になっていたけれど、それでも毎日生きるために必死に生活をしていて、心は充実していた。それは杉家の皆が優の側に常に居たからかもしれない。

 寝る前には、両親の事を考えてしまいそうになっていたが、その度ふみが色々な話をしてくれるのだ。家族の話が多いが、最近では久坂との恋の話が多い。

 そんな日々を過ごしていると、気がつけば現代を思い出す事が少しずつ減っていった。逆にそれが、少し不安でもあったりする。思い出していないのではなく、忘れていくような……そんな気がしていた。





 食事を済ませて片付けを手伝った後、先に塾へと向かったふみの後を追い、優も向かった……はずだったが、


 

 「……どうぞ。」

 「ん」



 なぜか百合之助と2人で茶を啜る事になっていた。ズズズっと啜る音が響くのみで、気まずい沈黙が流れる。



 「あのー……」


 痺れを切らした優が先に話しかける。

 

 「すまないね、時間を取らせて。」

 「いえ!それで、お話とは?」


 いつもは滝やふみなど誰かしらいたので、2人という状況に背筋が伸びた。



 「まだ何も思い出せないか?」

 「……はい。すみません」


 嘘をついているようで心が苦しくなる。


 「いや、謝らなくていい。君が来てくれて皆明るくなった。虎の事は聞いてくれてるかな?」

 「はい、だいたいの事は聞きました」

 「ん。色々あって、皆心配していたんだ。だけど虎が君を連れてきた。そしてとても気にかけている。私はね、嬉しかったんだ」

 「でも誰にでも先生はそうしたんじゃないんですか?今も沢山のお弟子さんの面倒を見ていますし」


 いつも弟子たちを気にかけている松陰なら当たり前の事ではないのか?と思い百合之助に聞き返す。松陰は誰にでも優しく、親身に接している。誰にでも、平等。


 --------そう、特別なんかじゃない。あの人は誰にだってそうする。



 「いや、違う。あいつは変わった。みてればわかるよ」


 百合之助にしては珍しく、はっきりと言い放った。そして微かに眉を下げ、どこか曇りのある声で話を続ける。


 「何をする時も書を読ませ、学問こそが第一と教え込んだのは私だ。あいつは立派になった……だが、それ以外への関心が無く、父の私でも恐ろしく思う時があった。それがどうだ!君がきてからというもの、あいつの顔が穏やかになった。不思議だったよ」

 

 優は恥ずかしさから目を伏せた。


 「志を高く持つことも大事だが、足元を固める事も大事。大切に思う人ができた時浮き立った足は地につき、人は別の意味で強くなれると私は思う。虎は少々行き過ぎてしまう所があり、まだまだ半人前の男だが、どうか見ていてやってくれ」

 「え、私なんかが……」


 百合之助はそれ以上何も言わなかった。

 

 きっとこれは松陰を心配しての言葉だろうが、これではまるで想い人として扱われている様な気持ちになる。勘違い、してしまう。


 

 火照る顔を必死に隠していると、そこへ文の声が響いた。


 「あーー!遅いと思ったら父様だったのね!優さん、早くこっちへいらして下さい!ふさも待ってますよ!」

 「はい!すぐ行きます!」


 「行ってきなさい」と言う百合之助に一礼し、小走りで中庭へ出ていった。百合之助はその後ろ姿を微笑みながら見送っていた。




 ***



初秋の空はからりと晴れ渡り、可愛らしい雲がふわりと浮かんでいた。庭の木々も赤や黄に染まり始め、庭を彩り始めている。それが目に入った時、優の腰ぐらいの高さの子供が飛びついてきた。その子を優しく抱き止める。



 「ふさ!お待たせー!」

 「優姉様!!」



 ふさと呼ばれた小さな女の子は、十歳にも満たないぐらいだった。最近松下村塾へよく出入りする様になった吉田栄太郎の妹だ。家も近いため時々杉家に遊びに来ていた事もあり、知らぬ間に優は懐かれていた。



 「ちょっと、なぜ私には文姉だけなのに、優さんには様がつくの?!」


 これはいつもの光景で、文は優だけに様をつけているふさをよくか揶揄った。



 「だって優姉様、綺麗だもん!」

 「こらっ!待ちなさい!!」


 いたずらっ子のように舌を出して言うふさはとても可愛らしく、いつも周りを和ませた。そして文も良くふさの面倒を見ていた、というよりはふさに遊ばれていただけかも知れないが、こうした2人の追いかけっこは日常と化していた。


 

 「今日も騒がしくてすみません。妹が行くと聞かなくて……」

 「栄太郎さん、いいじゃないですか!先生も楽しそうですよ?ほら!」


 優の指差す方を見れば、はしゃぐ皆をみてクツクツと笑っている松陰がいた。先生はよく笑う。先生が笑うだけで空気が和む。ここは松陰が軸となり回っている世界のようで、松陰は皆の指針であった。もちろん、とてもいい意味で。


 部屋の奥に座る松陰を見ていると、優と目線が交わった。

 

 「あ、」


 しかし先程の百合之助との話が頭によぎり、すぐに目を逸らしてしまう。

 栄太郎はそんな2人を交互に見て、悟った様にニヤリと笑った。



 「ふーん、なるほどねぇ」

 「どうした栄太郎?」

 「おう、亀太郎。お前にはわからねぇか?」

 「ん?何がだ?」

 「……もういい」



 この頃には塾生の数は増えていき、入れ替わり立ち替わり、松下村塾には沢山の人が訪れた。亀太郎(松浦松洞まつうらしょうどう)と呼ばれる男は、絵がとても上手な男だったが、少し天然というのか、特に色恋沙汰には疎い青年だった。逆に栄太郎は敏感な方だった。

 


 「これ、もらいもんなんですけどよかったらどうぞ!」

 「利助さん!こんなに沢山のお野菜……まぁ、さつまいもまで!母様に知らせてきます!」

 「いえ、これぐらい。いつも先生やみなさんにお世話になっていますので」


 こんな風に時々門弟の家族からも頂き物をもらう事が多々あった。しかし、伊藤の場合少し変わっていて……


 「こ、これは優さんに!!先日栗を取りに行って燻ってきたんです。よ、良かったら……」


 小さな布に包まれた物を優に差し出し、頬を赤らめながら言う姿は、なんとも初々しい。


 「栗だ!嬉しい!!みんなで食べましょう!ありがとう利助さん!」

 「あ、いや、みんなじゃ無くて……」


 伊藤は調子者であり、女好きで有名だった。事あるごとに優に贈り物をしては見事にからぶっていた。それを見ていつも周りは笑い転げているのも日常の事。


 皆に栗を一つずつ渡し、松陰の元へも届ける。


 「松陰先生もお一つ如何ですか?」

 「ありがとう」


 両手に広げた布に転がる栗を一つ選んだ。優希はその隣に座り、栗を剥く姿を眺める。それに気づいた松陰は、剥く手を止めて優を見た。


 「どうした?」

 「あ、いえ。こんな日がずっと続けばいいのになって思って!」

 「……」


 松陰は何も答えなかった。


 「先生?」

 「いや、何でもないよ」


 一瞬だけど、松陰の顔を見た時、凍りついた目をしていて、ほんの一瞬だけど、背筋がゾクッと震えた。また百合之助の言葉を思い出す。


 『父の私でも恐ろしく思う時があった』


 普段の松陰からは全く想像ができないが、今の一瞬だけは、百合之助の言っていた事が理解できた様な気がした。

 しかし栗を剥き始めた松陰は、特に普段と違うところはなかったので、考えるのはやめて話題を変えることにした。



 「あ、そう言えば、私、手紙が書きたいんです!」

 「手紙?誰にだい?」

 「ふさにです。この前手紙をもらったのに、私まだ上手く書けなくて返事が書けないままなんです……」

 「なんだそーゆうことか!いいよ、今晩見てあげようか」

 「ありがとうございます!」

 「ふふ、優の字はどこか変な形をしているからな」



 --------私の時代ではあれが普通なんですけどね!まぁ確かに結構癖のある丸字かも知れないけどね!


 と、心の中で言い訳をしながら、今晩が楽しみになる優。


 そんな2人だけの世界を作り出しているのを見て、周りの塾生達は見て見ぬふりをするのも日常であった。



 「利助、気落ちするなよ」

 「久坂君……先生なら仕方ないっす」

 「いや、まぁ、うん。そうゆう事にしとこうか」

 「優さん、あれで隠してるつもりかしら?」

 「それは先生もだろ?」

 「だから栄太郎、さっきから何言ってんだ?」

 「お前絵描きだろ?そんなんだといい絵がかけねぇぞ」

 「え?!」

 「でも、本当に優姉様、綺麗だね」

 「そうだなぁ。この辺じゃ、もう結構有名だろうな」






 ****



 松下村塾のある村一帯や城下町では、とある話が広まっていた。




 "松下村塾って知ってるか?"

 "あぁ、あの変わりもんの塾だろ?"

 "なんでも身分に関係なく朝から晩まで語り合うらしい"

 "そこじゃ女も子供も関係ないんだとか"

 '"しかも一人ものすごい別嬪さんがいるらしい"

 "なんでも天から降りてきたって話だぜ?"

 "はははっ、そりゃないぜ"

 "でもあながち間違いじゃないらしい"



 

 「すみません、その話、詳しく聞かせてもらえませんか?」


 深く傘を被り、合羽をきた若い男が、噂話をする男達に声をかかる。その手には一枚の銭が見えるようにかざされていた。



 「おぅ、いいぜ。何でもその女ってのが--」

 「……なるほど。ありがとうございます。」



 その男は傘を被り直し、話を聞かせてくれた男性達に数枚ずつお金を渡しその場を立ち去った。



 「記憶がないのは予想外だが……ようやく見つけたよ、姉さん」



 男は周囲にわからないように、ニヤリと口角を上げていた。






 








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