5話 風と雲の悪戯


 「こ、ここが明倫館?」


 目の前に広がるのは大きな門、その先に見える広大な敷地。そして大きな校舎。時々出入りする者は殆どの者が刀を脇に差しており、胸を張って歩いている。



 「いくつか建物があって、剣術等も学べるそうです。兄や桂さん、久坂さんもここで学んだんですよ」

 「なるほど」



 そういえば遠足で萩に行った時、明倫館という所にも行ったっけ。と記憶を辿る。しかし記憶とは曖昧なもので、ぼやーっとモヤがかかって当時の事は殆ど覚えていない。小学生のあの頃の楽しみといえば、大抵は友達と食べるお昼のお弁当や300円までと決められていたおやつぐらいだろう。



 「ん?じゃあふみさんは?」


 自身の小学生時代を思い出していると、ふと疑問に思った。ふみはここへは通ってはいないのだろうかと。

 しかしふみにとっては当たり前の事を聞かれたので目パチパチさせると、すぐにクスリと笑った。



 「そうでしたね、優さんは忘れてしまっているから……。でも、良いですね。私も行ってみたかった。皆が同じように通えたら、どんなに楽しいことでしょうか」



 ふみは明倫館を見つめた。その目は単に建物を見ているだけではない。きっと、想像しているのだろう。自分がもしここで学ぶ事ができたのならどんな生活をしていたのか、と。

 言葉にしなくても優にはそれが伝わってきた。叶わぬ夢は、見るだけなら誰も咎めはしない。何とも返事ができぬまま、ふみをただただ見ていた。



 --------私の知っている当たり前が、当たり前じゃない時代……。ふみさんにも見せてあげたい、現代を。


 

 そんな事を考えていると、ふみがいきなり苦虫を噛んだような声を上げた。


 「うわ、あの人……」

 「?どうしたの?」


 ふみの目線の先を追うと、男が一人、足取り重くこちらに向かって歩いて来ていた。少し着物を着崩して、気だるそうに歩くその男は、久坂に比べると体はそこまで大きくはないがどこか威圧感がある風貌だった。


 と、眺めていたのも束の間、いきなりふみに手を掴まれたかと思うと元来た道を走り出した。


 「逃げましょ!」

 「え?!ちょっとふみさん、どーゆうこと?!」


 優希の声も虚しく文はどんどん走る。


 「待って!ふみさん!!」


 人が先ほどよりも多く、その間を縫うようにふみは走る。手を繋ぐには限界がきて離すと、次第に離れていく二人の距離。それでもふみに追いつこうと必死になるが次第に人混みは濃くなり、見失いそうになる。それに加えてまだ慣れない着物に草履。足元が絡まりうまく走れない。



 「待ってってば!……ぎゃっ」


 "ダンッ"


ふみに追いつこうと必死で、周りを見れておらず、思いっきり人にぶつかり優は転んでしまった。



 「い、痛たたた……。」

 「痛ってーな!何してんだ!」


 地べたに尻餅をついた優は、荒い声のする方を見上げると、見下ろす三人組の男性が目に入った。ぶつかってしまったであろうそのうちの一人は、睨みをきかせて優希を見ている。



 「おいおい、ぶつかっといて謝りもしねーのか?ぁあ?」

 「すみません、前を見ていなくて……」



 --------うわーマジでいるんだこんな人達。


 現代でもこんな絡まれ方をしたことがない優にとっては初めての体験で、恐怖というよりは驚きが勝っていた。それに加えて、杉家や塾へやって来る人以外と話すのはこれが初めてで、この状況もどこか他人事のように思えていた。



 「あんま見かけねー顔だな。どこの女だ?」

 「さぁ?でもなかなか良い顔してるじゃん!」

 「どーせどっかの女中か、客引きだろ?」



 値踏みするように優を下から上へと見回す。


 「ま、いーや、せっかくだから遊ぼーや!」



 三人組は座り込む優希を乱暴に立たせたかと思うと、両腕をがっちりと掴んだ。



 「え、え、えー?!ちょっと何してんの?!」

 「うるせぇ女だな、黙ってろ!」

 「はぁあ?これはれっきとした誘拐でしょ、ねぇ、誘拐は罪が重いわよ!」

 「何言ってんだこいつ?いかれてんのか?」

 「何なの、誘拐はなんて言うの?!人攫い?!もう、離してよっ!」

 「おい、暴れんじゃねーよ!」



 優はふりほどこうとするが、男の力には敵わない。ようやく事の重大さが理解できた優は、必死に抵抗した。



 「助けてっ……!誰か、誰かっ!」



 一瞬、松陰の顔が浮かんだ。

 だがいるはずなんてない。

 もうダメだ、そう諦めかけた時だった。


 

 「おい、何してんだ。」


 

 背後から低く、ドスの利いた声がその場に響いた。


 「しょうい、ん……さんじゃ、ない。」


 優は期待していたのかもしれない。何かあれば助けてくれるのは松陰だと。しかし、その声の主は違った。先ほど門から出てきた、気だるそうな男だった。


 「た、高杉!」


 優を掴んでいた男が急に手を離す。その勢いでバランスを崩し、膝から崩れ落ちた。何事かと思い見やると、三人組の目は右へ左へと泳いでいた。



 「お前らなぁ。周り見てみろよ」

 「……ぐっ、」


 周りには何事かと人が集まり、人だかりができかけていた。



 「さっさと帰れこの恥晒しが。」

 「す、すみませんでしたー!」



 高杉と呼ばれた男のすごみのある声に、男たちは怯んでそそくさと立ち去っていった。


 呆気なく去っていった事に空いた口が塞がらない優に、高杉が屈みながら手を差し伸べる。



 「すみません、助かり……!」



 高杉の手を取り立ち上がった瞬間、そのまま手を勢いよく引かれたかと思うと、もう片方の手で腰を強く抱き寄せ、お互いの顔があと数センチというところまできていた。



 「か……?!」

 「確かに、なかなかの上物」



 目の前には口角をあげて妖しく笑う男性の顔。優は恥ずかしさから顔が一気に熱くなった。

 取り巻きの中からザワザワと話声も聞こえてくる。その中には若い娘もいるようで、黄色い声も混じっていた。



 「見て!高杉様よ!」

 「あの女は誰?」

 「なになに?何があるんだ?!」


 段々と騒がしくなる周囲の声に気づき、優は顔から耳まで赤くなっていった。


 「は、離して下さい!」



 これじゃあさっきの三人組に絡まれていた時と変わらないじゃないかと、掴まれていた腕を勢いよく振り払う。その弾みで優の体は自由になった。



 「いきがいい女だ」



 掴まれていた手をさすりながら、ヘラヘラ笑っている高杉をキッと睨みつけた。



 「助けて下さったのはありがとうございます。でもその後のは失礼じゃないですか?」

 「何がだ?それより、お前どこの家のもんだ。」

 「はぁあ?なんであんたなんかに言わなきゃ、」



 言わなきゃならないの、そう言おうとした瞬間、野次馬を掻き分けてくる一人の女の姿が見えた。紛れもなく、ふみだった。



 「いたーーー!優さん、ごめんなさい!!私、逃げるのに必死で……。」



 息を切らしながらふみは優希の元へ駆け寄ってきた。額からも汗を流して、膝に手をつき、肩で呼吸をしている。はぐれた後も必死に探してくれていたことが充分伝わってきた。


 「なんだ、お前の連れか?」

 「ゲッ、なんであなたが……高杉さん」



 そばにいた高杉に気づき、心の底から嫌な顔をする文。こんなに嫌そうな顔をするふみを始めて見た優は、なんだか少し不安になった。



 「兄上はお元気か?さぞかし素晴らしい塾生に囲まれてんだろうな」


 皮肉混じりにふみを見下しながら高杉は言う。


 「えぇ、もちろんです。皆で造築し、ほとんど完成しています。お陰様で塾生の皆様もはかどっております」


 丁寧に話しているように聞こえるが、ふみの言葉にも棘がある。



 「ハッ、吉田松陰のような罪人に教わる事などたかが知れている。久坂も馬鹿な奴だ、何にほだされて入り浸っているのか、俺には理解できん」



 ふみは唇を噛んで睨みつけた。何か言ってやろう、そう思い一歩前に出ようとした時、先に前に出たのは、優だった。


 パシンッ


 その音は、高杉の頬めがけて優の手のひらが勢いよく当たった音だった。



 「あんたがどれだけの人か知らないけどね、人を馬鹿にした様な言い方していい訳ないでしょ!それに松陰さんは、確かに変わってるかも知れないけど見知らぬ私を助けてくれた恩人です。それにふみさんも、久坂さんだって、利助さんだって……」


 赤くなった手のひらを握りしめ拳を作り、震える手を必死に抑えようとした。

 高杉は叩かれた頬を手で押さえて、目を見開いていた。そこにまだ言い足りない優は、最後の一発をかました。


 「あんたの方が、最低なクズ男よ!」

 「ク、クズ?!!」



 あまりの衝撃に言葉にならない高杉など目もくれずに、優はふみの手を取り歩き出した。



 「ほんっとに、ありえないんだから!!」



 怒りで足音が大きくなる優を後ろから眺めているふみは、心なしが嬉しそうだった。





 **



 残された高杉は、まだじんと痛む頬を触った。


 「本当に、威勢のいい女だな。」



 知らぬ間に野次馬もいなくなり、高杉も人混みに紛れてその場を後にした。

 

 









 

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