4話 黄昏に染まる心
「君は母を亡くし、家を追われ逃げてきた」
松陰は静かに話し始めた。優希は黙ったまま見つめた。
松陰は桂から聞いた話を、隠すことなく優希に伝え始める。馬関に住んでいた事、父親と継母の事、京に住む謎の男性の事、そして奉公に出すという名目で身売りされそうになり逃げてきたこと。
「……あの、売るってどこに?」
松陰の話が終わり、優希が口を開いた。
「馬関には花街がある。おそらく……」
優希は胸が締め付けられた。呼吸が浅くなり、動悸も激しくなる。
--------痛い。私の事ではないはずなのに、胸が痛い。自分の体じゃ、ないみたい……。息が、苦しい。
「優希?」
崩れるようにうずくまった優希のもとへ松陰は駆け寄る。苦しそうに肩で息をする優希の背中を優しく何度も撫でた。
「私、思い出せなくて。でも、なぜか辛くて、わからないけど、涙が止まらないんです」
涙が筋を残しながら、優希は途切れ途切れに話す。元の体の持ち主、ゆうの話に同情しただけではない。なぜか自分の事のように思えて苦しかった。ゆうの母親のことも、継母のことも、そして想い人だったかもしれない男性の事も、何一つとして知らないはずなのに、知っているような感覚。まるで体が覚えているようだった。
「ごめんなさい、暫くしたら落ち着くと……?!」
と、突然、優希を包みこむ体温。海から吹き付ける風を遮るその体は、松陰そのもの。彼に暖かさと共にきつく抱きしめられると、今まで抑えていた感情が湧き出てくるかの様に、瞳から大粒の涙となって流れてきた。
しばらくの間、松陰の腕の中で声を上げて泣いていた。
***
「すみません……もう、大丈夫です」
優希が泣き止んだ頃には、夕焼けも深くなり、赤と藍が混じり合いながら砂浜も染められていた。
「落ち着いたかい?」
腕の力を緩め、優希の顔を覗き込む。
赤くなった目を擦りながら前を向くと、目の前には松陰の顔。あまりの至近距離に頬まで赤くなりそうで思わず顔を背けた。
「み、見ないでください!」
「目、腫れてる。」
そう言いながら、優希の涙を親指で拭い、流れるように頬に手を添えた。
「ここに居ていいんだよ」
優希は驚いて松陰を見上げる。
「君の居場所はここではないかもしれない。でも、記憶が戻るまででも、それ以上でも、好きなだけうちに居たらいい」
「いいの?」
「もちろんだよ」
松陰の言葉に泣き止んだばかりの優希の目から、また涙が一筋流れ出る。
「ハハッ、また泣いてる!」
「もう、笑わないで下さい!」
優希は手を払いのけて自分の涙をごしごしと拭いた。その姿を見て笑っていた松陰は立ち上がり、着物についた砂を払った。
「さ、帰ろうか。」
優希に手を伸ばす。
「はい!」
差し出された手を取る。
二人の表情はここへ来た時より、どこか吹っ切れたように晴れ渡っていた。
握られた手を惜しむかの様にゆっくりと、どちらかともなく離し、砂浜を歩き始めた。
長い帰り道、松陰はこれまでの旅の話や、出会った人達のこと、今は自宅謹慎中である話などを優希に話した。
「え、乗り込もうとしたんですか?船に?!」
「そう。そのまま外国へ行けると思ったんだけど、駄目だった」
「ハハッ、それはだめでしょ」
「やっぱり?」
長い道のりも、そんな話を聞いているとあっという間で、気づいたときにはもう杉家の前だった。
月明りを頼りに家に近づくと、そこにはふみと久坂が門前で待ち構えていた。
「よかった!帰ってきました!」
「ほんと心配しましたよ先生。謹慎中なんだから、あんまうろうろしてたらまた怒られますよ?」
「そうだね」
そんなやり取りの中、ふみは優希に駆け寄った。
「おかえりなさい、優希さん。」
ふみの裏表のない笑顔に、優希も心から答える。
「ただいま、ふみさん!」
本当に我が家に帰ってきたような気持になる。
帰ってきた優希の表情が、目は赤く腫れてはいるがどこか澄み切っていて、心から笑っていることが伝わってきた。それに気づいたふみは、ようやく心を通わす事ができた様で顔が
ぞろぞろと家に入っていく三人の後をついて行きながら、優希は夜空を見上げた。いつの時代でも月は変わらないのだと思うと、なんでも乗り越えられそうな、そんな自信が湧いてくるようだった。
――私は、もう私の世界に戻れないのかもしれない。それでも、これが現実なら受け入れるしかないんだろう。ならせめて、ゆうさんが生きれなかった残りの人生、私が代わりに歩みます。そして、こんなに優しく迎え入れてくれた人たちに恩返しがしたい。ゆうさん、どうか見ていてください。
(ありがとう。)
「え?」
優希はどこからか女性の声が聞こえた気がしてあたりを見回す。
「どうしたの?」
「ううん、何でもない。」
「早く入りましょ?もう冷えてきましたし」
「はい」
――気のせい、だよね。
優希は気にしないようにして、文に続き家の中に入っていった。
****
優希が杉家でお世話になり始めて数日が経った。松陰から杉家の方々へ事情を説明してくれていたらしく、杉家の皆は快く優希を受け入れてくれた。
この数日で変わったことをまとめると、
・優希は皆から親しみも込めて、”優”や”お優”と呼ばれることが増えた。
・優希の部屋がふみの強い希望もあり、ふみと同室になった。(お陰で夜な夜なガールズトークが行われている)
・着物を不器用なりにも着付けれるようになった。
である。そのほかに、優希は家事もよく手伝って、すっかり杉家に馴染んでいた。
スマホも、テレビも、ゲームも漫画もないこの世界は、退屈に思うかも知れないと初めは身構えたが、毎日畑や炊事、洗濯等をこなしていれば一日が過ぎ、体もくたくたでよく眠れた。
そんなある日、文と優希に松陰はお使いを頼んできた。
「文、悪いんだが紙と筆をいくつか買ってきてくれないか?」
「いいですよ。優さんも一緒に行きません?城下町!」
「え、いいんですか?」
優は松陰と海へ行って以来家から出ていなかったので、内心とても喜んでいた。
「あ、でもまだ洗いが……」
洗濯の途中のことを思い出し、顔が曇る。
「私がやっときますから、優さんもたまにはお出かけしてらっしゃい」
すると奥から亀が出てきて、優希の肩を叩いた。
「でも……」
「優さんが来てくれてから私も楽させてもらってるしね。今日ぐらいふみさんと楽しんでらっしゃい!」
「ありがとうございます!!」
こうして亀の後押しもあり、優とふみは城下町へと繰り出した。
*****
「わぁ!人がいる!」
優希は時代劇の中にいるようなその街並み、人込みに終始感激していた。刀を差しているいる人も多く、そこには多少の恐怖感はあったものの、初めて見る景色を堪能していた。
「えーっと紙と筆はいつも……あのお店ですね。」
ふみが指さすそこは道に面している小さな店だった。中に入るとそこには紙や筆、墨や古書も置いていた。
「ここは明倫館にも近いから、勉学に必要なものは大抵そろっているんです」
「明倫館?」
「あ、そうでしたね。萩で一番大きな学舎です。見に行きます?」
「え、いいんですか?」
「前を通るぐらいなら大丈夫でしょ!」
こうして優希と文は明倫館を目指し始めたのだった。
この判断がまた一つの運命的な出会いを招くと、この時はまだ知らない優であった……。
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