3話 涼風の便り

 松陰に字を忘れたのかと聞かれた優希は、バツの悪そうな表情を向ける。


 「あ、いや、何となくはわかるんですけど……」

 「それは少し不便だね。今度教えてあげよう」


 松陰はうれしいだろ?と言わんばかりに胸を張って言ってきた。

 そんな松陰に苦笑いする事しかできず、

 「ありがとうございます。」

と愛想笑いで優希は答えた。


 金槌の音が止み、陽が傾きかけた頃、改めてふみが利助と久坂を紹介してくれた。

 

 利助と呼ばれた人物は、伊藤利助いとうりすけ(のちの伊藤博文)といい、もう一人の大きな男は久坂玄瑞くさかげんずいというらしい。利助は小柄で素早しっこく、初めて会う優希にも良い意味で馴れ馴れしく話しかけてきた。対して久坂は大柄で、少し人見知りなのか、女が苦手なのか、多少の距離感はあったがそれでも冷たく接しることはなかった。


 聞き覚えの無い二人の名前に、もっと日本史を真面目に勉強しておけば良かったと心の中で反省している時、また一人、門から顔を出した。




 「御免、先生はおられるか?」


 ピンと張られた綺麗な袴を見に纏い、腰に刀を差したお侍がやってきた。



 --------綺麗な男の人。しかも本当に刀持ってる。


 初めて見る本物の刀に、内心興奮しながら、口を開けてとその男性を見ていた。


 

 「桂さんじゃないですか!」

 「桂さん!!江戸じゃなかったんですか?!」


 伊藤と久坂が驚きながらも、嬉しそうな声をあげる。



 --------桂、かつら……って桂小五郎かつらこごろう?!教科書に載ってたやつじゃん!顔こんなんだっけ?!



 知ってる名前が出てきてまるでクイズに正解したような気にもなったが、そういう問題では無い。歴史の中の人物と会う事がおかしい筈なのだ。段々とこの状況に慣れていることに気がつき、優希は自分自身に驚く。



 「用事があってね、昨日戻っていたんだ」


 口を動かしながら優希の前に桂は立った。長い髪を高い位置で結び、さらさらとした髪が風に靡いていた。まるで女と見紛うほどで、優希は見惚みとれていた。



 「よかった、元気そうだね。」

 「へ?」


 何の事だかわからない優希は、不思議そうに桂を眺める。



 「優希、彼は桂小五郎だ。昨日君を見つけた時、彼も一緒だったんだよ。」



 松陰の言葉で意味を理解して、慌てて頭を下げる。


 「助けて頂き、ありがとうございました!」

 「いや、私は近くに居ただけだよ。そうだ、先生。江戸に戻る前に少し話せませんか?」



 急に真剣な面持ちで松陰を見やる桂。その意図を察したのか、松陰も静かに桂の目をみた。


 「ごめん、ちょっと話してくるよ。」


 その場にいた優希達に松陰は一言言い残し、門から外へ出ていった。




 「行っちゃった。」


 優希がボソッと呟くと、玄瑞が悔しそうに声を上げる。


 「くそー!剣の稽古つけてもらおうと思ったのに!また江戸に行っちまうのかー!」

 「江戸……」

 「お前江戸も覚えてないのか?」

 「し、失礼な!それぐらいならわかりますよ!!」


 江戸は東京の事だろう、きっとそうだ。細かいところはわからないが、それぐらいなら優希の知識から引っ張り出せた。



 「そういえば久坂君が先生と一緒に優希さんを助けたんだと思っていたのに、違ったんだね」


 伊藤の疑問に久坂が答える。


 「あぁそれはだな、眠れなくて夜道を歩いてたら知らん間にここに来てたんだ。そしたら女を抱えてずぶ濡れの先生が帰ってきたからさ、驚いて声もかけれずに帰ったんだよ」



 --------私、あの人に抱えられてたんだ。



 優希は熱くなる頬を手で扇いだ。





 ***





 松陰と桂は、少し離れた木陰にいた。



 「何かわかったか?」


 松陰もいつになく真剣な表情。



 「名を優希と言ったな。確かに、間違ってはいない。あの子は馬関(現在の下関)に商いを構える藤野家の一人娘だ。名を藤野ゆう」


 桂は淡々と話す。


 「……家族には優希と呼ばれていたのかもしれないな。」

 「そうだな。偽名を使う理由もないし、色々調べた結果密偵とかではまずないだろう」


 桂はまだ話を続ける。


 「だがその家族が問題だ。藤野の本妻、つまりゆう……優希の母は既に亡くなっていて、父親は妾とすぐに再婚。その再婚相手との間にも息子がいたので、必然的に後継はその息子になるわけだ」

 「まぁ、よくある話ではあるが、それがなぜ優希の身投げになるんだ?」



 当然の疑問を松陰は桂に投げかける。



 「どうも新しい母親は、本妻にそっくりな優希を嫌っていたようで、葬儀が終わると優希を追い出したらしい」

 「おいおい、父親は何してんだ?」

 「その藤野って奴も金の事しか頭に無いような奴で、妾に唆されたんだろうよ。遊廓にでも売り飛ばそうとしたらしい。それを知った優希は逃げ出してきた」



 松陰は頭を抱えた。

 桂はまだ続ける。



 「優希には想い人もいたそうだ。先日、下関に優希を訪ねにきたという、京都の呉服屋の男性がいたと噂があってな。反物を取引していた相手らしいんだが、便りを書いても返事がこないと言うので急いで尋ねたら……」

 「優希はもう居なかったと。」



 桂は静かに頷く。



 「でもよくこの短い時間でそこまで調べられたな。」


 関心したように松陰は言った。

 

 「いや、ちょうど彼女の事を周布様(周布政之助すふまさのすけ)に伝えておかなければと思い寄った際、馬関からきたという者がいてな、話を聞いたんだ。ここら辺では見ない上物の着物だったから、もしかしたら商人も多い馬関付近の娘じゃないかと思ってね。そしたら大当たり!藤野の娘の話は有名らしく、気立の良い娘だったそうで、周りの人々は心を痛めていたらしいよ。」

 「……優希が記憶を無くしたのは、よかったのかもしれないな」

 「それでもいつ思い出すかわからない。彼女には選ばせてあげないと」



 松陰は黙ったまま、返事をしない。



 「先生、もしかして……」


 にやりとした表情で桂は松陰を覗き込む。

 それに気づいた松陰は慌てた様子で後退りした。


 「いや!違う、違う!そんなんじゃ無いんだ!」

 「ふーん。まぁ、早く伝えてあげた方が良いと私は思いますけどー?」

 「わかったから!」

 「ハハッ、先生でも慌てる事があるんだ」



 桂は綺麗に笑いながら歩き始めた。



 「もう行くのか?」


 その後姿に話しかける。


 「まだ江戸で学ぶ事がたくさんある。先生が行けない分、私が代わりに沢山学んでこなくては……」

 「……すまない。」


 松陰の覇気のない声に桂は振り返る。



 「え、先生が謝るとからしくない!」



 松陰は笑って誤魔化す。


 「ハハハッ。それじゃあ便りを待っているとしよう!」


 その言葉を聞いて、ニコッと桂は笑い、また前を向く。


 「では、また。」


 そして、桂は歩き出した。今度は振り返る事はなかった。頼もしい後ろ姿をいつまでも見つめていた。

 



 ****




 「あ!先生戻ってきた!」

 「兄上遅かったじゃないですか!残ってた握り飯も全部久坂さんが食べちゃいましたよ!」


 文は空になった桶を指差しながら言った。


 「そうそう、久坂さんが全部食べてましたー」

 「優希!お前もだいぶ食ってただろ!」

 「そんなはずありません、私は一個だけですー」

 「ぁあ?!じゃあお前の口についてる米の数はどう説明つける気だ!」

 「いや、違うの!これは!あまりにも美味しくて!」

 「だから食べてんじゃねーか!」



 優希と久坂が言い合っている姿を見て、松陰は目をパチパチとさせていた。

 ふみは困ったように慌てていて、伊藤は腹を抱えて笑っていた。


 松陰は4人の姿をみて、先程までの曇りがかった胸中がさぁっと晴れていく様な気がした。



 「ハハハッ、いつのまに仲良くなったんだい?」


 そう言って未だに歪み合う優希と久坂を眺めたあと、優希に向かって手招きをした。



 「優希、少し話があるんだ」






 


 *****




 優希は松陰に連れられて、浜辺に来ていた。


 「すまない、少し遠かっただろ。」


 松陰が振り返ると、息を切らした優希が屈んでいた。


 「はぁ、はぁ…いえ、これぐらい……。」


 慣れない着物でかなりの距離を歩いた優希は息も上がり、足が重くなっていた。途中で引き返したい気持ちに駆られたが、段々と聞こえるさざなみの音に、自然と足は進んでしまった。


 

 赤く染まりかけた海を見たまま、松陰は口を開く。


 「君は、何も覚えてないんだよね?例えば、家の事とか……」



 優希は現代の家族を一瞬思い出したが、きっと松陰が聞いているのはそっち側の話ではないことはわかった。


 「……すみません」

 「謝る事じゃないよ」


 松陰は振り返る。

 現代とは違い静かな海。

 波の音だけが二人の間に響く。



 「言うか、どうするか、ここへ来るまでもずっと悩んだ。だけど、やっぱり言わねばならない」



 優希は黙ったまま、松陰の顔を見つめる。



 「君はここで身を投げた。その理由を、私が知り得た限り今から話すよ」



 さーーっと、海風が二人の間を通る。

 夏の海か、初秋の海か。涼風か。

 波の音がやけに大きく聞こえていた。

 







 


 



 

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