2話 一筋の光明


 窓から日が差し込み、優希の顔を照らす。泣きつかれて眠ってしまったのであろう、目元が赤く腫れている。重い瞼を開け、ゆっくりと体を起こした。


 「やっぱり戻れてない」


 一日中布団の中で過ごしていたおかげで、優希の体は凝り固まり腰や背中が痛む。その体をほぐすかようにゆっくり体を動かした。



 --------ほんと、どうしよう。


 布団の中で膝を抱え、顔をうずめる。

 自分の持ち物なんて一切ない。スマホもない。本当に何もない。



 「はぁ……お腹空いた。」


 それでも体は正直で、ぐるると腹の虫が鳴る。喚くお腹を撫でながらどうしようか試案していると、昨日と同じようにふみの声が聞こえた。



 「優希さん、起きてますか?」

 「は、はい!」


 失礼します、と言いながら襖がゆっくりと開いた。昨日と変わらず、柔らかいえみを浮かべて優希をみつめる。その顔を見ると、なぜだかほっと安心した。

 


 「お腹、空いてません?ご一緒にどうです?」



 どこからかおいしそうな匂いが優希の元まで届いた。何の匂いかはわからないが、それは優希の空腹をさらに刺激する。遠慮の気持ちも芽生えたが、空腹には勝てない。小さくうなずいた優希をみて、満足そうに彼女は笑った。



 「優希さんの着物はまだ乾いていないので、私の帯を置いて置きますね。」



 ふみは手に持っていた帯をそっと畳に置いた。優希の着物もおそらくふみが貸してくれたのだろう。背丈はそう変わらないが、まだ幾分か自分より若いふみを頼ることしかできない事が情けなく思えた。それでも、着物など自分で着たことはないし、もちろん帯も結んだことなど無い。だから頼るしか無かった。


 「お手伝いしましょうか」


 何も聞かずに、ふみは優希を着付ける準備を始める。言われるがまま立ち上がり、着物を整える。手際よく腰紐を巻かれ、その上に帯が巻かれていく。

 ついこの間、母に浴衣を着付けてもらったのを思い出し、目頭が熱くなった。潤む瞳を必死に隠そうと顎を上げる。布が擦れる音だけが部屋に響いていた。

 それが終わったと思ったら、つぎは髪を梳かし始めて、ついには一つにまとめ上げた。



 「できました!どうですか?」



 鏡の前に座り、自分の髪をみる。ぼさぼさだった髪はきれいにまとめられ、後ろを鏡越しに覗き込むと、飾り気のない簪一本がささっていた。



 「ありがとうございます」

 「いえ!それじゃあ行きましょう!」


 部屋を出る前にもう一度鏡をみる。そこに映る自分は本当に自分なのか不安な気持ちが込み上げる。一体自分は、どこの誰なのだろうか……鏡から目を逸らし、ふみの跡を追った。



***



 「お待たせしました!」


 ふみに隠れるようにしてご飯の匂いがする場所にたどり着く。並べられた湯気が立つ白いご飯に、こちらも湯気立つお味噌汁。今にも飛びつきたい衝動に駆られるのを我慢するのに必死だった。



 「お!ようやく出てきたな!お腹空いてるだろ?」


 第一声は松陰だった。和やかな雰囲気が漂っていた。その声を筆頭に、机を囲む人たちが暖かく声をかけた。



 「ふみたちの母の杉滝すぎたきです。こちらは父の百合之助百合之助です」

 「海で溺れてたんだってなぁ、辛かったね」


 滝と百合之助が優しい声で話しかけた。



 「俺はこいつらの兄貴!梅太郎だ!記憶がねぇんだってなぁ、大変だったろ!いっぱい飯を食え!こいつは嫁の亀だ」

 「よろしくお願いします」


 梅太郎と亀も微笑みながら優希へと話しかける。

 

 --------なんて暖かいんだろう。

 

 気づけば優希の目から涙がボロボロと流れていた。無理もない。何も知らない場所で知らない時代にタイムスリップしていて、これから自分はどうなるのか不安でたまらなかった優希にとって、安心できる場所を彼らは用意してくれたのだ。緊張の糸が解けた様に、涙は頬をつたい溶けていった。


 

 「す、すみません。ほんとに……ぐっ、すみません!」


 すすり泣き、謝ることしかできない優希の肩に手が乗せられた。その手の主は滝だった。優希の涙を袖でぬぐい、ふみの隣へ座らせる。


 

 「腹が減っては戦はできん!ですよね?虎!」

 「そうだそうだ!優希、いっぱい食べろ!」


 優希は涙をこらえながら、数回大きく頷きご飯と向かい合った。

 そして両手を合わせたあと、ご飯を頬張った。いつも食べてる食パンでもない、この前みんなで食べたファーストフードでもない、とても質素な食事だったが、今まで食べたどんなものよりも美味しく思えた。

 


 「おいしい……。とても、おいしいです!」


 堪えていた涙がまた流れだしそうなのを必死に抑えながら、小さく何度も優希は呟いた。近くに座るふみと松陰は互いに目配せをして、嬉しそうにくすくすと笑っていた。


 


***



 ドンドンドンッ


 優希達が食事を終えた頃、勢いよく戸が叩かれた。


 「すみません!!先生、先生は居られますか?!」

 「利助じゃないか!!早いな!」

 「お食事中でしたか!居ても立っても居られず……作業に取り掛かってもいいですか?」

 「おう、もちろん!ふみも優希も来るか?」

 「行きます!!優希さん、行きましょう!」


 言われるがまま、優希は手を引かれ立ち上がった。慌ただしく部屋を出る間際、首だけでも振り返り食事のお礼を込めて頭を下げると、滝さんが笑顔で手を振ってくれた。他の人たちはこれが日常かのように気にも留めず、お茶を啜っていた。

 


 ****

 


 連れてこられたのはすぐ隣の小屋だった。綺麗に切り揃えられた木がそこらじゅうに散らばっている。大工道具も転がっている所から察するに、この建物を改装しているのであろう。



 「だいぶ出来てきましたね。」


 関心したようにふみは言う。


 「ここはね、兄上の塾になるんです。毎日毎日、兄上を訪ねてやってくるみんなに、もっと学べる場を作りたい。そう思って作り始めたの」

 「塾……」


 --------これがあの有名な松下村塾。

 

 一度幼い頃に見たこの建物と、今目の前にある作りかけの塾を交互に思い浮かべる。記憶の中にある松下村塾は、時代の流れを思わせるほど、古く色褪せている。しかし目に映るここは、畳も青々しく、木の色も活き活きしていた。そっと柱に手を添える。夏の朝日に照らされて、熱を持ち始めた木は、冷たいのか熱いのか、行ったり来たりしている様だった。



 「先生!あの人ですか?拾ってきた女って!」


 利助は隠す様子もなく松陰へにやけた顔で声をかけた。


 「言い方!誰だそんな事言った奴は」

 「久坂君が言いふらしてましたよ?先生が女を持ち帰ったって……イデッ」

 「それ以上愚論を続けるなら帰りなさい!」

 「そりゃ酷いです!私じゃなくて久坂君が言ってたんですよー!」



 楽しそうに二人は戯れあっているが、優希は少し恥ずかしくなった。知らない人に知られている、噂話の対象になっている事に顔を赤らめた。

 と、そこへまた新しい男が顔をだす。


 「俺が何だって?利助〜」

 「久坂君!!」

 「おお来たか!君が変な事を言いふらしているとゆーので利助を叱っていたんだが、どっちが正しいのかな?」


 「フッ、そりゃ先生、間違ってないじゃないですかー?現にまだ家にあの女を置いている。文学一筋の先生が!ですよ!?そりゃ皆が注目するに決まってますよ!」


 久坂は口元を緩ませて、腹を押さえながら彼らの前に立った。その姿はどこか楽しんでいる様で、先生とは呼んでいるものの、まるで友人のようだった。



 「全く……すまないな優希、不快な思いをさせてたら申し訳ない」

 「い、いえ!私は全然!お世話になりっぱなしですみません。えーっと、ふみさん?どうしたんですか?」


 

 彼らの会話に夢中になって気づかなかったが、いつのまにかふみが優希の後ろに隠れていた。振り返り顔を見ると、頬が少し赤く見える。



 --------なるほど、そーゆう事!



 久坂がきた事で顔を赤らめるふみを可愛いと思いながら、口には出さずにそのまま見守る事にした。



 「あ、ようやく笑った!」


 松陰はまるで宝物を見つけた時の様な言い方で、優希の元まで駆け寄ってきた。


 「君は笑ってる方がいい」


 そして無邪気に笑ったかと思うと、急に大人の顔でこんな事を言ってくる松陰に戸惑い、目線を下に逸らす事しか出来ない。

 そんな優希の気持ちなど知ってか知らずか、頭に手を乗せて、髪を優しく撫でた。


 心臓が飛び出そうになる。血が巡り、顔が火照る。

 そして松陰は目を細めて小さく笑った後、何事もなかったかの様に彼らの元に帰っていった。


 

 

 


 時々何かを話しながら、松陰達は作業を進めていく。一人は木を運び、一人は屋根に登ったり、また一人は襖を貼り直したりしていた。


 優希の目に一冊の本が目に入る。まだ新しい表紙に、達筆な字で難しい漢字が書かれている。


 「こうもう、、ん?」

 「あぁ、それは講孟箚記こうもうさっきって読むんですよ。兄さんが書いた本ですよ」

 「へぇ、松陰さんが……」


 優希はパラリと本をめくった。


 「え……読めない」


 たしかにそこには日本語が書いてあるだろうが、ミミズのように這う文字に瞬きを繰り返す。スマホのフォント設定でもこんなに読みにくいものはない。



「なんだ、君は字も忘れたのか?」



 頭上から声がして見上げると、松陰はにんまりと笑って見下ろしていた。

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