これを優しさと呼ばないのなら過ちでもいい

新巻へもん

忌み子

「その子を捨てよ」

 顔を見ることもなく塘除は言い放つ。やっと得ることのできた赤子を抱きしめながら昭夫人は床の上で顔を伏せた。

 反論することなど許されない。赤子の父親でもある塘除は成国の皇帝であり、その命令は絶対であった。

 皇帝たるもの、殺せというような無粋な言葉は用いない。しかし、その意味するところは端的に言えば生かしておくなということだった。

 昭夫人はただ体を震わせ、背中で寛恕を乞うことしかできない。

 折角授かった子である。生まれるまでは陛下もあれほど楽しみにしていたのだ。もしかしたら……。

 塘除は向きを変え歩み去った。沓音と共に僅かな期待はあっけなく砕かれる。涙にくれながら身を起こし昭夫人は赤子に頬ずりをした。

 生まれてたった五日で我が子の死を命じられて煩悶する。まだ名付けもしていない赤子をなんとかして助けたい。いっそ赤子を抱いてこのまま二人で逃げ出せないだろうか。

 しかし、自分自身が後宮という籠の中の鳥である。自由に外に出ることは叶わなかった。

 それに後宮から抜け出すようなことをすれば、塘除は激怒するだろう。父や兄に迷惑をかけることになることが容易に想像できた。

 恐らく実家はこの世から消滅する。

 なぜ、よりによって五月五日に生まれてしまったのか。昭夫人は美しい唇に血がにじむほどきつく噛みしめながら赤子の顔を凝視する。古来よりその日に生まれた子供は大きくなると親を害す忌み子として嫌われてきた。

 巷間でもその日に生まれた子を闇に葬っている。増してや、父親は至尊の地位に会った。

 皇帝を害する大逆の子であるから死を賜る。

 この国の倫理においては順当な判断であった。

 しかし、待望していた我が子に死を命ぜられて、徐夫人は簡単にあきらめることはできない。

 帳の向うからのっぺりとした声が響いた。

「畏くも陛下の仰せであられますぞ。早う支度をなされませ」

「しばし待たりゃれ」

 追い詰められた昭夫人に夫人付きの女官頭の藤が声をかける。

「奥方様。私めにお任せを」

 いつもはにこやかに笑っている藤の目に異様な力が宿っていた。

 どこからどう見ても朗らかな中年夫人というのが後宮での藤の評価である。居酒屋の女将なんかが良く似合いそうだった。 

 その藤は徐夫人の乳母を務め、後宮にあがった徐夫人についてきて女官頭をしている。徐夫人の赤子のことを我が孫のようにも感じていた。

 徐夫人と藤の視線が交錯する。どこに人の耳があるか分からないので、言葉をかわすことはできなかった。

 ただ長年の付き合いで目だけで意思をかわすことができるようになっている。

 ごくりと唾を飲み込むと徐夫人は赤子を差し出した。

 徐夫人から赤子を受け取った藤はそのまま帳に向かって進む。泣き崩れる徐夫人をそのままに室から出ると宦官に案内されて通用門へと進んだ。

 その胸の内では再び主の顔を見ることは叶わぬだろうと覚悟している。万が一の時にはこうすると密かに決めていた。

 門のところには禁軍の兵士たちが数人待ち構えている。

「女官頭どの。あとは我らが」

「私も参ります。お子の最期を主に報告しなければなりませぬゆえ。車を用意なさい」

 藤が毅然として言い放つと宦官たちがあたふたと支度を始めた。

 ようやく支度を終えた馬車に藤は赤子を抱いて乗り込む。

 がらがらと走り出した車は禁軍の兵士たちに囲まれて都の大路を進んだ。

 車の中で藤は帯の間から紙包みを取り出す。赤子の頬を両手で押さえて開けると紙包みの中身の粉を赤子の口に空けた。竹筒からあらかじめ用意しておいた乳を流し込む。

 玄武門を出た車はそのまま走り続け都の北を流れる亥水の岸辺にある渡しに到着した。

 兵士たちが舟の支度をしている間に藤はその辺りの石を密かに拾い集める。その石を膨らんだ袂に入れた。

 乗り換えた舟は岸辺から川の流れに向かって漕ぎ出される。獏北の砂粒を含んで流れる亥水は黄色く濁っていた。

「もうこの辺でよいであろう」

 禁軍の兵士の長が言う。その目は北岸に注がれていた。亥水の北には度々騎馬民族が侵入してきている。いつなんどき、川を越えてくるか分からぬ情勢だった。

「女官頭どの。赤子をこちらへ」

 絹の帯を手にした兵長が反対の手を伸ばす。仮にも皇帝の子である。刃を加えるわけにはいかない。この場合は絹布で縊り殺すというのが作法だった。

 藤は頭を振る。

「いとけなき御子です。お一人では寂しいかと。私がお供いたします」

 赤子を抱きかかえたまま藤は舟べりから身を投げる。河伯に祈りを捧げながら藤は暗い川の中に沈んでいった。

 舟の上では禁軍の兵士たちが大騒ぎをする。自分たちが受けた命は赤子を確実に死に至らしめよというものだった。

 赤子の体が浮いて来ないかと目を皿のようにして水面を探す。しかし、どれほど待っても藤も赤子も浮いて来ない。

 やがて西の空に日が沈む。夜になっては捜索もできなかった。

 禁軍の兵士たちはやむを得ず、都に戻り上役に顛末を報告する。命令が下されたのと逆の方向へと情報が上がって行った。

 ついに御史大夫が塘除の前に進み出てことの首尾を上奏する。

「赤子を手にかけ川に流しましてございます。その際、女官頭が後追いをいたしまして……」

 皇帝に任を果たせませんでしたなどと報告できるはずもない。ただ、女官頭が居なくなったということの辻褄を合わせるためにこのような内容を告げた。

 塘除は鷹揚に頷く。

「それだけか?」

「はっ」

「昭夫人に何か見舞いの品を」

「心得ましてございます」

 手を振って御史大夫を下がらせると、塘除は今日はどの女の元に通うかを考え始めた。

 赤子は気の毒であったが、また朕が孕ませればよい。たかが赤子一人のために朕の命を危うくするわけにはいかぬ。後宮には何十人もの美女が居るのだ。産褥から回復すれば徐夫人もまた幸じてやるとしよう。

 成の国の行く末に暗雲がたなびいていることを塘除はまだ知らない。

 そして、藤が水練の達人であり医学の心得をもつことも、亥水のほとりの廃屋で藤が麻沸散による仮死状態から赤子を必死に蘇生させようとしていることも知らなかった。

 満点の星空の下、廃屋にゆらゆらと足元がおぼつかない影が忍び寄る。

 影は筵をめくりあげた。

 藤は瓢箪を腰から下げた好々爺の姿を僅かな灯し火で認める。

「老師!」

「好好」

 老爺に場所を譲りながら、賭けに勝ったことを確信して藤の表情は安堵に包まれた。

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