夜の電話

@8163

第1話

 「残念ですわ」電話で、チヨ子は上品ぶって、そう言った。小学校の同級会の誘いだった。無論、出る気はない。マッピラなのだ。二十歳を過ぎるまで一度も出席した覚えはない。要するに劣等感からなのだが、理解はされないだろう。彼女らは年頃になり、自分を見せたいのか、見られたいのか、色気づいて来たのは間違いない。そんな恋愛ゴッコに付き合う気はない。俺に気があるのか?などと自惚れる積りはないが、それも匂わせつつ出席を促し、興味はないと伝えると、「残念ですわ・・・」と、未練を示した。こっちはもう、安キャバレーのホステスの同伴を誘う電話を受けることもあるのだ。そうゆうのを隠して話している。彼女もそうだろう。それとも、断られるのが想定外だとでも言うのだろうか。そこまで女で勝負をしているのか?

 記憶の中のチヨ子は大人びていた。六年生の中でも大きい方だ。女子の成長は男子より早い。今考えれば、六年生の男の子なんてガキだ。あそこの毛も生えてない。ツンツルテンだ。それに比べて女子は胸も膨らみ、背も男子より高くなった子もいる。チヨ子もその一人だった。ガキなんぞは眼中に無かったろう。相手にされた覚えもない。それが、電話の様子では丁寧に出席を促して来て、逢いたいような素振りだ。こちらもそうたが、チヨ子だって昔のままのガキのイメージだろうに、相手にするのか?まあ、大人びたチヨ子のイメージは大して変わらないと思うが、化粧で変身でもするのか?

 当時、チヨ子で驚いた事があった。体育館で大声を出したのだ。嫌と叫んでいる。それも悲鳴に近い声だ。場所は体育館の舞台の上。パーティションで仕切られ、女子はそこで医師の問診の筈なんだが、それを拒んでいるらしい。男子は下の広いフロアでパンツ一丁で並ばされていた。何があったのか、黄色い声に皆振り向いた。チヨ子が右腕で胸を隠し、左手を伸ばして指を開いている。医者を突き飛ばしたのかも知れない。慌てて女の先生が取りなしたが、チヨ子は仕切りを手荒く動かし、皆に見られるのも厭わず、横から出て舞台から降りてしまった。どうやら、男の医者に胸を見られるのが嫌らしい。医者は去年までの白髪の老人ではなく、中年の男だ。髪の毛は短かかったが未だ黒い。そんなに嫌なのか?理解できない。はてなマークが頭を取り囲んだ。

 考えれば、我々はガキで、どうでも良かったが、中年の医者は異性として認識されていたと言うことなのか。単に恥ずかしいのなら、大声を出して皆に見られる方がもっと嫌だろうに。でも、おかげで、チヨ子の胸が大人と変わらない程大きくて、腕の上と下から食み出た乳房の丸みは、柔らかそうだった。ただ、色気など感じなかった。何でだろう、こちらも、そんな相手じゃなかったとしか言いようがない。

 恋は不思議だ。妙な所に色気を感じたり、癖や好みに我慢ならなかったり、その上、容姿ばかりでなく、社会的地位、財産、学歴、趣味や宗教、生まれた地域や訛りまで、影響される要素を挙げれば、キリがない。運命を感じたり、失恋すれば死ぬ奴までいる。燃え上がる恋の先には闇が口を空けているのかも知れない。

 もうひとつの電話はナオミからだ。興奮している声だった。タクシーで帰宅中に暴走族のパレードに遭遇したらしい。夜の十時過ぎだ。それが尋常ではないと言う。オートバイとシャコタン改造車が、延々と続き、冬だと言うのに箱乗りで旗を振り、裸の上半身を乗り出した輩が、爆音と共に、もう一時間も通り過ぎているのに、まだまだヘッドライトが丘の向こうまで途切れないと言うのだ。場所は郊外のバイパス。タクシーを待避所に止め、やり過ごそうとしているのに、轟音と光に眩惑され、沸き上がる興奮が収まらないようだ。交差点など一般車がいれば、すかさずバイクが駆けつけて道を塞ぎ、ハンドルを曲げてライトを浴びせかけ、スロットルを激しく動かせて排気音で威嚇する。空吹かしの爆音が、あちらでもこちらでも、渦巻くように沸き上がったまま、夜空いっぱいに鳴り響く。その興奮を誰かに伝えたくて公衆電話から電話を掛けているらしい。胸騒ぎを抑え切れないのだ。

 店で家の電話番号を教えたのは昨日のことだ。こんなに早く電話があるとは思っていなかったが、話すと直ぐに耳に馴染んだ。ナオミの番号も教えてもらったが、掛けてはいない。社交辞令みたいなもので、本気にしたら痛い目に遭うかもしれず、用心するのはお互い様なんだが、ナオミにその心配は不要なようだ。どこまで気を赦すのかは、どこまで躯を許すのか、なのだろうか。今は、そんな気もする。

 初めての時、ナオミの細い躯に硬さはなく、中が熱かった。耳朶に吐息を吹き掛けたら、うなじだけでなく、全身を震わせた。まるで釣り上げた後の小魚のようで愛しくなり、数日を置かず指名したのに、休んでいて居なかった。そして、それを昨日訊いたら膣に炎症を起こして休んでいたらしい。だから熱かったのだ。もうひとつ、住んでいるマンションの一階にクリニックがあるらしく、そこの院長が避妊薬を処方してくれ、コンドームは使っていない。たぶん嫌なんだと思う。生で受け入れ、そうして罹患したのだろう。熱かったのは病気だったのだ。休むのを連絡したくても出来ず、だから電話番号を教えてと言われたのだ。それはそれで納得するが、ピルを貰う医者に甘えたのじゃないかとの邪推が払拭できず、医者に抱かれたのかとも訊けずにいる。

 もう三十分以上も話している。硬貨が足りなくなったが、運転手が気を利かせて釣り銭を車から持ってきてくれたと言う。水商売の女だ、運転手の下心が透けて見える。素人女性を性的対象として見下すのは憚られるが、玄人なら遠慮なしだ。優しさを誤解されるかも、と、疑る必要がない。女は、その下心で商売をしている様なものだから。もっとも客になれば話は別だ。下心は具現化することが保証されている。

 店の狭い階段を降りてきたナオミの衣装は、クラブ時代の深紅のロングドレス。裾が絡むのか、屈んで左手でたくしあげ、踏み板を確めながら歩みを進めている。小さなバッグを右手に持っているのだが、手摺に引っ掛かって後ろに肘が伸び、ドレスの背中が大きく割れ、背骨の窪みと腰の丸みが見える。まだ慣れていないのだ。他の女の子はミニのドレスにサンダル履きなのに、ピンヒールのナオミは、いかにも危なっかしい。受付の眼鏡の男が横目でチラリと眺め、ひとつ、ため息を漏らした。それが最初だ。

 口に含んだ熱いお湯を、少しずつナオミが背中に垂らしてゆく。じんわりとした快感が下に伝わり、むず痒いような気持ちになる。どこで仕入れたテクニックなのか、キャバレーやクラブではないだろう。聞き上手で、客にでも教えられたのだろうか。間接的な接触は、もどかしさもあるが、いつもとは違う珍しさと、手術台に乗せられ、手術を待っているような雰囲気がある。ナオミは、悪戯っ子のような目をして見ている。同じことを全ての客にしているのだろうか。違うと思いたいのだが、それにも無理がある。不特定多数の男に嫉妬するのは不毛だ。暖簾に腕押しの感がある。結局、相手の顔が浮かばないから自分に帰ってくる。女を独占出来ない不甲斐なさ。その心理は普通の恋愛と同じだが、心の何処かに自惚れがあり、その自信が強まったり弱まったり、迷走に果てはない。それを打ち消そうと、答をナオミの躯に求めて、噛んだり吸ったりしながら、顔色を窺うようになる。

 そうして、女をイカす事さえ出来さえすれば、確信を得られるのだろうか。

 もう一時間以上も電話で喋っている。こんな長電話は初めてだ。どちらかと言えば口下手で、会話は苦手だ。電話はもっと苦手で、もう会話ではなく、報告、連絡、確認の類いでしかない。昔の電報みたいなものだ。女性と夜に長電話なんて考えられない。やはり性的な関係は精神的な繋がりを生み、肉体の親密さが相手への疑念や用心を無くすのだろうか。ナオミもいっそう饒舌になり、お喋りが止まらない。口が、想像する喋っている口が、抱いて動いている時に、少し遅れて開く唇に重なり、その遅れが不思議で、もういち度もういち度、と、腰を動かすのだが、やはり遅れて口が開く。まるで衛星中継で遅れて話すアナウンスのようで、タイムラグがまどろっこしい。体は脳の思い通りに動いているのに、目は時間が遅れ、ズレた映像しか映さない。そうして、口が開く度に、徐々にナオミの下半身に力が入り、脚を胴に絡めて締め付け出した。

 興奮はまだ続いている。暴走族は途切れない。どれ程の規模か、前代未聞に違いない。まあ、猛スピードで走っている訳ではなく、左右に蛇行しながらトロトロと進む。車は派手な塗装と大きく反り上がったリヤウイング、バイクは仮面ライダーのような装飾で、まるで昆虫だ。公衆電話の中から見ているナオミの姿を電話を通して想像しているのだが、どうしてか緑色の公衆電話の中には深紅のドレスのナオミが、薔薇の髪飾りを付けて身を捩らせている姿が浮かぶ。大きく空いた背中の隙間からは、尻も腰も太股もまる見えで、見える筈のない乳房までも触れるほどに近い。すぐ近くを、大漁旗のような極彩色の旗を大きく波打たせ、半裸の男や色とりどりの特攻服の男が、何かを叫びながら通り過ぎて行く。無論、爆音で、何を叫んでいるのかは聞こえない。パントマイムのように、ゆっくりと動き、去って行く。

 「このまま眠れたら良いのに・・・」ナオミが呟いた。目は瞑っている。でも、そのまま、本当に眠る訳にはいかないので、大儀そうに上半身を起こした。部屋にはシングルベッドが一つ、奥にバスタブがある。浴室になっているのだが、扉はなく、腰の高さの仕切りで区切られ、上は素通しになっている。

 青いタイルの上でナオミが立ったまま動かない。目を閉じ、凝っとしたままだ。快感を反芻しているのかも知れない。そこまでの満足を与えられたのか、実感はないが、手繰り寄せて確めたい。出来れば、一晩中抱いてみたい。そう思った。

 店には早番と遅番がある。昼2時から10時と夕方5時から深夜1時迄だ。タクシーで帰るから2時には着くだろう。ナオミの名刺は小さくて四隅の角が丸い、女名刺だ。真ん中にカタカナの名前、下に店の電話番号。それを裏返してナオミの番号を確認した。

 呼び出し音が二度鳴らない内に声がした。男の声だ。

 「すみません、間違えました」とは言ったが、深夜に、こんなに早く電話に出るものなのだろうか。声の出た受話器を眺めたが、思い直してまた掛けた。

 また、男の声だ。

 「伊藤さんではないですか?」ナオミに教えられた名字を言った。

 「違います」訝しそうに男が言う。渋い声だ。深夜に男から電話が掛かればナオミへの電話だと解るだろう。でも、慌てる素振りはない。胆の据わった壮年の男が連想される。気圧され、探りも入れずに電話を切った。このまま押しても勝ち目はない。素人ではないかも知れないし、ヒモであってもチンピラではない。ナオミの思惑が判らない。三角関係を狙っているのか、とも考えたが、どう見ても壮年男が優勢だ。だとすると、若い男は当て馬だ。嫉妬心を煽り立て、愛情を確かめようとしているのだ。深夜の長電話も、遅れて開く紅い唇も、立ち尽くし、反芻する姿も、全て嘘っぱちなのかも知れない。根拠はないが、そんな気がしてきた。そんな虚の世界なのかも知れない。

 私はチヨ子に電話し、同級会への出席を伝えた。

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