エピローグ
学年度の下半期の始めである一〇月一日を迎えると、生徒会役員や部活動も次なるメンバーに引き継がれて学校中が清新な気風で満たされていた。
放課後に既存の部活動で新部長の任命式が行われる中、下半期から新たに正式な部となったメモリースポーツ部に所属している細川は、部室である図書室に向かう廊下を急ぐ様子もなく進んでいた。
初日は何をやるんだろう、と考えながら図書室の前まで差し掛かると、ドアに真っすぐ顔を向けて立つ人物が目に入る。
細川からは後ろ姿しか見えないが、肩甲骨辺りまで届く艶やかな黒髪に、痩せぎすではない適度な肉付きの肩幅、スカートから伸びる引き締まったストッキングに覆われた脚などから、スポーツでもやっていそうな印象を受けたが細川の記憶にはない女子生徒だった。
図書室に用でもあるのかな、と細川は推測して黒髪の女子生徒を廊下の幾分離れたところから眺める。
しかし女子生徒は身じろぎもせず無為にドアを眺めるばかりで、さすがに見かねて面倒を感じながらも声をかけることにした。
「あの?」
細川の声に気が付いて女子生徒が、ぱっと振り向いた。
女子生徒の想像以上に整った相貌を見て、細川は凄い美少女だなと感想を抱いた。だが脳裏に一瞬だけ知り合いの赤い髪をした女子の面影が過ぎって、おかしいと首を傾げる。
その僅かな予感に疑問を持つのも束の間、女子生徒の方から細川との距離を早足で詰めてきた。
眼前にまで迫った端正な美貌に、細川はドギマギしながらも辛うじて後ずさりせずに顔を逸らすだけに止めた。
女子生徒が形のいい唇を開く。
「なあ幸也。奈保を見てないか?」
「……うん?」
聞きなれた声質に、細川は違和感を覚えながら顔を正面に戻す。
女子生徒と正対してじっと見つめた。
記憶にある赤い髪をした知り合いの顔と目の前の美少女の顔を照合する。
「あっ」
思わず間抜けな声を漏れる。
目の前の黒髪美少女が細川の知る女子生徒と完全に一致した。
「もしかして土屋さん?」
「あたし以外の誰だと思ったんだよ?」
「誰っていうか、最初見たことない人だと思って」
「わからないからって、まじまじ見んなよ。照れるだろ」
「ごめん。ほんとうに気が付かなくて」
本人確認までしないと判別できなかった非を詫びた。
まあいいや、と細川の非を軽く捉えて和美は尋ねる。
「幸也は奈保を見なかったか?」
「平田さん? 教室を出ていって以来見てないけど」
「見てないか。朝の時は放課後に部室前集合って言ってたのにな」
和美は当てが外れた顔をして、ここにいない奈保を責めた。
共通の知り合いの所在が不明だとわかると、途端にどちらかともなく話題を失い、図書室の前で二人佇む。
会話欲しげに和美が細川をちらと横目に見た。
何、という目で細川が視線だけを返すと、表情を緩めて微苦笑する。
「奈保のやつ、どこで油売ってんだろうな」
「さあ? 俺は何も聞かされてないから知らないよ」
「あたしに会うのを避けてるのか?」
「どうして避けてるなんて思うの?」
「今朝久しぶりに一緒に登校したんだよ。あたしが黒髪どうって訊いたら不愛想に何も答えないでよ、放課後集合ってだけ言って黙るんだぜ。どうかしてるだろ?」
「何か考え事でもしてたんだよ」
「友人が訊いてんのに一方的に話すなっての」
本人がいないことを良いことに不満をぶちまける。
部活動の初日で決めるべきことが多かったんだろう、と細川は奈保の気持ちを推察して慮った。
「奈保が答えないから幸也に訊いていいか?」
話題の潮目なのか少し遠慮ぎみに和美が切り出した。
細川が目顔でどうぞと促すと、人差し指を艶のある黒髪を向ける。
「あたしの黒髪、どうだ。似合ってるか?」
「……どちかといえば似合ってると思う」
細川は素直に答えるのが気恥ずかしく、要りもしない言葉を前に置いて答えた。
二択で選んだような答えでも和美は嬉しそうに笑った。
「似合ってるか。黒髪にした甲斐があった」
「二人ともー。遅くなって……」
細川と和美以外の声が廊下に小さく響いた。
「髪色を変えることに甲斐とかあるの?」
「あるだろ。幸也が褒めてくれた」
「……褒めたというか、なんというか。まあ質問されたから」
「じゃあなんだ? お世辞か?」
「二人ともー。平田奈保はここにいるよ」
和美の三歩後ろまで接近した奈保が存在を示すように声を出した。
「お世辞ってことはないけど」
「だろ。本音だろ」
「……本音だよ」
「あたしが美人だからって顔を赤くして照れるなよ」
「気付いてよ、二人とも!」
奈保の声の苛立ちが顕著になる。
「自分で美人って言う?」
「美人だろ?」
「ま、まあ」
「幸也が認めた。あたしの方も照れるな。へへっ」
「リア充は爆発しろ!」
怒りが沸点に達した奈保が、前触れもなく和美の頭上へ手刀をかざす。
無警戒な肩を目掛けて勢いよく振り下ろした刹那、和美が翻るように奈保の方へ半身を開いた。
結果的に奈保の手刀は空を切り、数瞬の沈黙だけが残る。
「いきなりだな、奈保」
和美が余裕しゃくしゃくの顔で、手刀を振り下ろしたままの姿勢でいる奈保をやんわりと注意した。
奈保は恨みの籠った目で和美を見る。
「わざと気付かない振りしてるでしょ?」
「そんなことない。なあ幸也?」
共犯として巻き込むように、和美は細川に同意見を求めた。
細川は一方の肩を持つのを避けて何とも言い難い顔になる。
「気付かれないのはショックだけど、慣れてるからまあいいわ」
無視にいちいち腹を立てることに飽きて、奈保は手刀を振り下ろした姿勢から立位に戻って言った。
生真面目な表情で図書室の引き戸に手をかける。
「さ、部活を始めましょ」
奈保の誘いに細川と和美は頷くともなく同意して、引き戸を開けて入る奈保に続いて部室に入った。
部室とはいえ部として認可される前から使用していた三人からすれば、別段新鮮味もなく各々好きな席に腰を落ち着ける。
「部活って何をするんだ奈保?」
和美が判断を委ねる言い方で訊く。
奈保はしばし考えたが、うーんと唸って困った顔になる。
「特別何かをしようって決めてないんだよね」
「じゃあ本でも読んでていいか?」
尋ねてすぐに和美は席を立つ。
それはダメ、と奈保が制した。
「文芸部じゃないから読書をしても部活動にならない」
「じゃあ何するんだよ?」
「そうね。計測でもやろうかしらね」
部としての活動が閃かず妥協的な案を出す。
その時、図書室のドアが廊下側からノックされた。
どうぞ、と奈保が許可すると、ドアが静かに開いてハーフアップの髪をした呉本が顔を覗かせた。
メモリースポーツ部の三人を見て、朗らかに微笑む。
「部活動初日。何をしてるのかな?」
「何をしようか考えてたところです。生徒会長はどうしてここに?」
わずかに警戒心を働かせて奈保が訊き返した。
呉本は苦笑する。
「私はもう生徒会長じゃないよ。前生徒会長だよ」
「そういえばそうですね。で、どうしてここに?」
「前生徒会長として仕事を残っていてね。その仕事を終わらせるためにこの部室に来たんだよ」
「なんです仕事って?」
目的があるらしい呉本に、奈保が怪訝そうに伺った。
細川と和美も真剣な面持ちで呉本の答えを待つ。
三人の視線を受けながら、呉本が廊下側から誰か来たかのように首を振り向ける。
「この部の顧問を連れて来たんだよ」
「顧問ねえ。確かに正式な部になるなら必要よね」
認可された実感を伴って奈保は納得する。
呉本がたった今図書室に到着した人物に恭しく入り口を譲った。
「さ、どうぞ。先生」
「おう」
野太い応じる声が聞こえ、大柄で頑丈そうな肩幅の広い男性教師が入り口を潜った。
姿を現した顧問の正体に、奈保と和美が露骨に嫌そうな顔をする。
「清永じゃん」「先が思い遣られるわ」
女子二人から不満を口にされて清永は微かに眉を顰めたが、型通りと言わんばかりに厳しい表情を作り、手を後ろで組んで真っすぐに立った。
「本日よりこの部の顧問を務めることになった。メモリースポーツのことについては
ほとんど知らないが、これから勉強していくつもりでいる。よろしく」
「ホントに勉強する気あんのか?」
和美が野次を飛ばした。
清永は厳しい顔のまま返す。
「当面の間はお前たちの監視が目的だ。一応部として認可したとはいえ安心はできないからな」
「んだよ。清永なんかに監視されたくねえ」
「和美と同感」
「清永先生、よろしくお願いします」
教師との軋轢を感じていない細川だけが礼儀正しく頭を下げる。
何かしてる途中だったなら俺のことは気にせず続けていいぞ、と清永は促して手近な本棚に関心を向けた。
和美が指示を請うように奈保の方を窺った。
「なあ奈保。何やる?」
「そうね……」
呉本が来る前と同じく奈保は部活らしい活動を案出しようと頭を捻った。
今度は閃き、嬉しそうに頬を緩める。
「何を思いついたの?」
細川が奈保の表情から察して尋ねた。
嬉しそうな顔のまま奈保は告げる。
「一週間の練習メニュー決めましょ。なんだか部活動らしいでしょ?」
「いいアイデアだ奈保」
「俺も賛成」
和美と細川が同意した。
メモリースポーツ部の活動は、練習メニューを決めることから始まった。
窓から射し込む陽光は十月にしては明るかったが、もしかすると三人の現在の前向きな気持ちを象徴しているのかもしれない。
美少女に「やり方教えてあげる」と誘われてしまった件 青キング(Aoking) @112428
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