第36話 狩りの時間

 「……我が軍が敗北しただと……」


 共和国軍が大敗北を喫した。その一報にアレクサンドルはドサリと椅子に倒れ込んだ。

 そこからの細やか詳細については上の空で頭に入ってこなかった。

 辛うじて覚えているのは軍を預けたアラムが戦死したということだけだった。


 一人になったアレクサンドルはしばらくの間、何もする気にならずボーッとしていたが、やがて恐怖に震え出した。


 (21番を取り返せなかった……私はもうおしまいだ……)


 その考えに思い至った後のアレクサンドルの行動は早かった。

 急いで金目の物を纏めると急いで変装をし始める。

 もうこの国にいることは出来ない。『あの方』との約束を違えてしまった以上、共和国に安全な場所などどこにもないからだ。

 ならば全てを捨てても逃げ切って見せる。

 そんな生き汚い決意を固め、隠し通路から執務室を出ようとしたその時だった。


 「――?」


 外が随分と騒がしいことに気が付いた。

 出て行くこの国にもう用などないが、気になったので何気なしに窓を覗き込んでみる。


 「なっ――――!」


 その光景にアレクサンドルは言葉を失った。

 そこに広がっていたのは火の海に包まれる街並みと暴れ回る人々。

 暴動でも起こったのかと思ったが、どうも様子がおかしい。

 状況を注視し続けているとアレクサンドルを恐ろしいことに気がついてしまった。


 「やめっ――」

 「ぎゃあああああああああああ!!」

 「助けて……助けてええええええええええええ!!」


 人が襲われているのだ――人に。

 これだけを聞くと人間同士が喧嘩や殴り合いをしている様子を想像してしまうだろうが実際はそんな生優しいものではなかった。


 噛み付く、引っ掻く、喰らう、

 ヒトの姿をしたものがヒトならざる膂力と行為を以って人間を襲っている。まるで獲物を襲う獣のように。


 「ヒッ……!」


 思わず情けない悲鳴が洩れてしまった。

 それとタイミングを指し示したように人を襲っていた何かが動きを止める。そして、ゆっくりとアレクサンドルの方を振り返った。


 その顔は人間の面影を残しているものの浮かべた形相は人のものではなく、化け物のそれであった。

 剥き出しになる犬歯、垂れる涎、血で汚れた口もと、死人のように血の気を失っている肌と対照的に爛々と輝く目は赤く充血している。そして、アレクサンドルを視認したその目が弓の形に細められる。


 ――見つけたぞ、とでも言うように。


 「うわあああああああああああああああああ!!」


 蓄積されていた恐怖心が爆発し、絶叫に変わる。

 もうこんな場所にはいられない。いてたまるか。

 この場から少しでも早く立ち去りたい一心で窓に背を向け、走り出そうと――、


 「おやおや何処へ行くつもりですかい総統殿?」


 したところでアレクサンドルは固まった。

 先程まで誰もいなかったそこに人がいたからだ。

 一瞬、『あの方』か化け物が現れたのかと思ったが、目の前にいるのはそのどちらでもないただの男だった。


 「きっ、貴様何者だ!この私が総統アレクサンドル・ボロンボーイと知っての愚行か!!」


 そうだと分かれば何も怖くない。アレクサンドルは先程捨てたはずの総統の地位を笠に男へ高圧的な態度で出る。

 だが、それに対し男は慄くわけでも反発するわけでもなく、馬鹿にするように笑った。


 「何がおかしい?」


 「いやァ、これからなくなる予定の地位で威圧してくるのが滑稽で仕方なくてなァ。小物が背伸びしているのが見え見えだぜェ?」


 「何だと!?」


 あからさまに見下してくる態度に苛立ちを露わにするアレクサンドル。

 男はそれを見ても尚楽しげに笑った。


 「それにしても随分余裕だなァ〜総統様よォ?アンタ、教主様との約束破ったンだろ?それなのによーくそんな生意気な態度が取れるよなァ?」


 その一言でアレクサンドルの顔は青褪めた。


 「まさか……貴様『あの方』のっ……!」


 「そうだぜェ。オレ様はアンタの言う『あの方』の命令を受けてここに来たンだ。随分と派手にやらかしたそうだなァ?」


 男の目が嗜虐の色を浮かべ細められる。

 それに命の危機を察知したアレクサンドルは流れるような動きで膝を着き、頭を垂れた。


 「待ってくれ!もう少し……もう少しだけ時間をくれっ!そうすれば――」


 「ダメに決まってンだろォ?アンタは約束を破っただけじゃなくこの国にそのものを立ち行かなくしたンだ。しっかりツケは払ってもらわないとなァ?」


 「そんなっ――」


 「だが――」


 そう一度言葉を切ると男は頭を垂れるアレクサンドルに合わせて蹲み込んだ。


 「ただ始末するのは退屈だからなァ。だからアンタにチャンスをやるよ」


 「本当かっ!?」


 その言葉にアレクサンドルは顔を上げた。

 明るい一筋の希望が見えた気がして。


 「ホントだ。今から鬼ごっこしようぜ?アンタがオレ様から逃げ切れたら見逃してやるよ。ただし捕まったら――どうなるか分かるよなァ?」


 アレクサンドルの目を覗き込む形で楽しげに笑う男。

 子どもが見せるような無邪気なものではなく、これから相手を痛ぶることを楽しみにする残虐な笑みだ。

 ただただ恐ろしかった。

 しかし、やらなければ殺される。やるしかないのだ。

 アレクサンドルは無言で首肯した。


 「じゃ、始めようぜ。制限時間は無制限。アンタが逃げ出してから1分後にオレ様は動く。オレ様に見つからず首都ここからアンタの勝ちだ。安心しろ、オレ様も暇じゃねえからな。郊外にまで逃げ出したアンタをわざわざ探すような面倒はしねえさ。それじゃあ始めだ」


 息を吐かせる間もなく始まる鬼ごっこデスゲームにアレクサンドルは固まってしまう。

 だが、男が「オラ、行け」と首をしゃくったことで我に帰り一目散に逃げ出した。

 それと同時に「いーち!にー!」と聞こえるようにわざと大きな声でカウントダウンを始める。


 やっていることはそれだけだが、それがとても恐ろしく臓腑にまで響いてくるようだった。

 あのカウントダウンはそのまま自分に与えられた猶予の時間だ。それまでにどれだけ逃げられるのか。

 何処かに隠れ、姿を隠すことも考えたが、それよりも少しでも遠くあの男から離れたいという気持ちが勝った。

 その思いがアレクサンドルの足を動かした。

 

 (絶対に逃げ切って生きてみせる……絶対に!)


 その思いを強くし、アレクサンドルは走り続ける。


 やがて紡がれた数字が三十に達した。


 「……さ〜て、ハンティングゲームの始まりだ。ひさびさだからなァ。じっっくり楽しませてもらうぜェ」


 男は一人呟くと悪魔のような凶悪な笑みを浮かべ、舌舐めずりをした。

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