第13話 『正義』とは

 「……え?」


 期待していなかったわけではないが、長い間を置かず返されたシンの言葉にアストレアは不意を突かれ固まった。


 「良かれと思ってやったつもりでもそれがどこかで誰かを不幸にしてしまう、なんてことはよくあることです。アストレア様ならよく分かると思いますけど政治とか特にそうなんじゃないでしょうか」


 誰かの行ったことで幸せになる者がいるなら不幸になる者も当然いる。

 それが例え大多数の人間にとって正義でも不幸になった者からすればそれをもたらした者は悪に相違ない。


 「善人もそうやって罪を犯すんです。……悲しい話ですけど」


 付き合いは浅いがアストレアが正義感が強く、清濁併せ呑むことの出来ない不器用な人間であることは分かる。

 進んで『悪』に手を染めることはおろか、やむを得ない状況であっても『悪』の手段は選ばないだろう。

 しかし、そんなアストレアでも――否、そんなアストレアだからこそ犯してしまうのだ。


 己の信念せいぎを貫くということは誰かを蹴落とすのと等しい。

 それを為そうとするならば誰かにとっての悪になることを覚悟して望まなければいけないのだ。

 だが、アストレアは自分が『正義』と信じて疑わず、自分と相反する者たちを敵と決めつけ今日こんにちまで突き進んできた。

 そして、それをシンとの邂逅によって覆されたのだった。


 尤も《正義の断罪ユースティティア・ジャッジメント》で怪我らしい怪我を負っていないことからある程度の『正義』と『悪』の取捨選別は出来ており、無差別に敵対者を斬り捨てるようなことはしていなかったようだが。


 「それじゃあ……わたしはどうすればいいの?」


 アストレアはまるで子どものような、情けないとも取られる声で尋ねてくる。

 今、アストレアの心はボロボロだ。信じていた理想という主柱を失い、その心はまるで砂上の城のように危うい。

 ならば、今にも壊れそうな心に確固たる柱を築けばいい。

 そうすれば、アストレアは立ち直れる。


 「罪を犯すまいとする清廉な心も大切ですが、それよりもアストレア様に必要なのは誰かにとっての『悪』になることを恐れず、自分の思う『正義』を貫くことだと思います。だって、貴女の『正義』の在り方はこの上なく純粋で尊いものなのだから」


 その言葉にアストレアは一転して体の底から熱が湧き上がってくるような高揚感を覚えた。


 自分の『正義』を肯定されたのが嬉しかったから?

 しかし、アストレアの『正義』に共感している者たちはもう大勢いる。

 【星乙女騎士団】の面々や彼女を慕う国民たちがその最たる例だ。


 それとも、新しい『正義』の道を切り開けたから?

 今までアストレアは『悪』を裁くには純正の『正義』になるしかないと思っていたが、シンはそうでなくても良いと言った。間違っても良いと言ってくれた。

 それがアストレアにとって新鮮だったからか。


 だけど、とアストレアは首を横に振る。

 それは妥協だ。

 誰もが罪を犯しているという前提だからこその妥協だ。


 だが、目の前の少年はどうだ。

 シンは断罪の光に当てられても無傷だった。

 それならばやはり自分は――


 「おれはアストレア様が思っているような人間じゃありません。おれはただ、罪を犯すことさえ許されなかっただけの奴隷なんです」


 そんなアストレアの心の内を見透かしたようにシンは悲しげな笑みを向けた。


 「物心ついた時にはおれは他人の言いなりでした。良いことをたくさんさせられましたが、同じくらい間違ったこともさせられました。けど、そこにおれの意思はありませんでした。それを《正義の断罪ユースティティア・ジャッジメント》は『と判断したんだと思います」


 言外に『正義』にもなれなかった、とその微笑の中に自嘲の色を混ぜて語った。

 自分は他人の命令なしでは何も出来なかった。そしてそれは今でも変わっていないように思う。

 そういう環境に身を置いていたので仕方ないと言う者もいるかもしれないが、シンはその環境を許容し続けた自分をアストレアと出会って情けなく感じるようになった。


 何故、あの状況を受け入れ続けたのか?

 心が折れたというのもあるだろう。

 しかし、自分には力があった。にも関わらずシンは抗うことを放棄して絶望に身を委ねた。

 抗っていればもっと早くにこの力を気付けたかもしれないのに。


 こんなものが『正義』などと言えるはずがない。

 『正義』とは救われぬ現状に対して何もせず、天の恵みを待ち続ける者ことではない。そんな者に対して救いの手を差し伸べることの出来る者を言うのだ。

 そして、自分などではなく、アストレアこそが『正義』であるとシンは確信していた。


 「貴女は女神になる必要なんてない。貴女は一人の人間なんだから。それとも、アストレア様が目指した『正義』は一つの間違いも犯さない絶対的なものでしたか?」


 違う。

 アストレアは断言した。


 (わたしが目指したのは神の如き完全無欠の『正義』じゃない。わたしが目指したのは……)


 勇者アーサーのような泥臭くも人間らしく、足掻きながら探し求めてゆく『正義』だ。

 そんなアストレアの心の変化を読み取ったシンは続けて言葉を重ねる。


 「それでももし、アストレア様だけで背負い切れなくなったら、おれにも背負わせて下さい。貴女の罪を」


 「……え?」


 思いがけない一言にアストレアは目を見開いた。


 「貴女は誰かを蹴落とすには優しすぎる。だったら、少しでもその重荷を軽くしてほしいんです。おれで頼りないなら、カストルさんやフォルトゥナさんでも構いませんから」


 「……だめよ。わたしのわがままのために貴女たちへ罪を背負わせるわけにはいかないわ」


 「負い目を感じる必要なんてありませんよ」


 シンは間を置かず、今までより強い声色でそう返した。

 そこにはどことなく不満げな様子が滲んでいることにアストレアは気付いた。


 「おれはこれからたくさんの罪を犯すことになるかもしれません。でも、おれはそれを恐れません。だって、貴女がいるならその先には確かな『正義』があるって分かっているから」


 そして、断言するように言い切った。

 アストレアを映す瞳には一点の曇りもなく、そうなることになんの疑いも抱いていなかった。


 「貴方……」


 「それはカストルさんやフォルトゥナさんも同じだと思います。だから、苦しい時は頼ってほしいです。頼っちゃいけない仲間なんていないんですから」


 そう言うと微笑とともに手を差し伸べた。そしてそれは、シンが初めて見せた何一つ含みのない、純粋な笑みだった。


 「……ええ!そうよね!勇者アーサーだってたくさんの仲間がいたんだもん。それだったらわたしにもそれを支えてくれる臣下がいてもいいわよね」


 アストレアは花が咲き誇ったような嬉しさに溢れた笑みでシンの手を取った。


 「これからわたしの『正義』のためにめいいっぱい働いてもらうわよ」


 「貴女に助けられた命、貴女のために使いましょう。出来れば……人権に配慮した扱いを所望します」


 シンの冗談とも本気とも似つかないブラックジョークにアストレアは声を出して笑った。それにつられてシンも笑った。

 昔にもこうやって笑ったことがある気がする。

 それがいつのことか思い出すことは出来ないがそれでもいいと思う。

 だって、今自分はこうして笑えているのだから。

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