ラストコール

白ノ光

ラストコール

 八月三日


 「………………誰か、いますか? 私の声が、聞こえますか?」


 ノイズ交じりの通信音声を、トランシーバーが拾った。


 「誰か、応答してください。いませんか? お願いだから、返事を……」


 懸命に叫ぶ女性の声だ。この世界にいるかもしれない誰かに対して、呼びかけている。


 「いない、のかな……」


 「……もしもし、俺の声は聞こえてますか? そっちの声、ちゃんと聞こえてるよ」


 俺はヘッドホンに付いているマイクに、声をかけた。


 「あっ! 本当!? やった、生きてる人だー! はじめまして、私、兼谷七生っていいます!」


 「俺は、伊遮那浩人。誰かと喋ったのなんて、いつぶりだろう」


 この世界には既に、自分以外の人間はいないと思っていた。


 「うん、私も久しぶり! えっと、どこから話せばいいかな……。とりあえず自己紹介! 私は今十八歳で、こっちは一人きりなの。住んでる場所は────」


 「へぇ、同い年じゃん。こっちは東京の────。君のとことは、大分離れてるかな。残念なことに、こっちも一人きりだよ」


 「そうだねー。海を挟んでると、ちょっと直接会いには行け無さそう。お互い一人か、寂しいね」


 「でも、よかった。俺以外にも生きている人がいると分かって」


 安堵の息を吐き出す。地球に一人ぼっちは、流石に広すぎる。


 「うん、うん! ねえ、お願い! やることもないしさ、私とお話ししてくれる? 毎晩、この時間に。せっかくこうして声が聞けるんだから、さ」


 こうして、彼女──兼谷七生との顔の見えない付き合いが始まった。

 滅んだ世界における、奇妙な通信。こんなこともあるんだな。




 八月四日


 「伊遮那君って、高校は何部だった? 私ね、水泳部。また泳ぎたいなぁ。もう夏なのに、どこ行ってもプールに入れないや」


 「俺は天文学部だよ。小さな学校の、小さな部活だけどね。水泳とか出来ないから、あんまり話はできないかな……ごめん」


 「いいっていいって! じゃあ、趣味とか特技とかある? 好きなものは? 得意な教科は何だった?」


 彼女は興奮した様子で、どんどんと質問してくる。

 人との会話に飢えていたのだろう。それはきっと、俺も同じだ。


 「ええと、趣味特技……も大したものはないかな。強いて言えば、読書とか映画鑑賞とか? 好きなものは、辛い食べ物。得意な教科は……国語と英語、だと思う。テストの点は良かった」


 「へぇ、そうなんだ。文系ってやつ? 私はどちらかっていうと理系かなー。国語は苦手かも。あはは。一番得意なのは体育だけどね。あ、趣味は水泳特技もクロール、好きなものはカワイイものでーす。猫のキャラクターグッズとか好き!」


 トランシーバーから、チャラチャラと鎖の揺れる音がする。恐らく、キーホルダーか何かを向こうで動かしているのだ。

 生憎と、こちらからではどんな猫が揺れているのか全く分からないのだが。


 「かわいい猫だね、それ。あ、猫型ロボットかな?」


 「違うよ、ちっちゃな白猫の方──って、伊遮那君見えてないでしょー! どうして私が今猫のグッズ持ってるって分かったの? やっぱり見えてる!?」


 この通信機器にカメラ機能はない。もし見えていたら、それは超能力だ。


 「君が猫のグッズが好きだって言ったばかりだろ。チェーンの音、聞こえてるよ」


 「あ、そっかぁ。あははは、賢いねぇ!」


 彼女は麗らかに笑う。つられて俺も、少し笑ってしまった。


 「……よかった、伊遮那君が怖い人じゃなくて。大人の人とかだったら、ちょっと緊張して上手く話せなかったかも。同い年だと遠慮なくて楽だなー。ねえ、今夜はもう寝るけどさ、また明日ね! おやすみ~」


 「ああ、おやすみ」


 通信終了。俺は、トランシーバーのスイッチを切った。




 八月七日


 「今日は空に雲が少なくてよく見えるけど……そっちはどう? 兼谷さん」


 「ん。こっちも綺麗! すっごい星空だね! こんなに星が光るものだったなんて、私知らなかった!」


 「誰もいなくなったからさ、街の明かりが消えたろ? それで空がよく見えるようになったんだ。天然のプラネタリウムだよ」


 満天の星空とはまさにこのこと。図らずも俺たちは、この光景を独占している。


 「ほら、あそこに一際光る星、分かるかな。東の空に浮かんでる、三つの星」


 「あ、あれ? よく光って目立つね~」


 「そう。左側のがデネブで右側がアルタイル、そして一番高い星がベガ。夏の大三角ってやつ」


 「へぇ~、あれが! 良く知ってるなー……って、そういえば天文学部だっけ? さっすがぁ!」


 別に、知ってる人は小学生でも知ってることだろう。ただまあ、何も言わないでおこう。褒められるのも悪くはない。


 「デネブははくちょう座の一部で、アルタイルはわし座の一部、ベガはこと座の一部なんだ。それぞれ別の星座だけど、こうして一纏めにされることもある」


 「星座って、分かんないなぁ。だって全然そうは見えないんだもん。三角形なら誰でも分かるし、見つけやすくていいね!」


 彼女と話しながら、夜空の光を一身に浴びる。

 視界には無数の星座が広がっていた。大昔の人々は星々の光に、意味を見出したのだ。


 「……ベガとアルタイルには、それぞれ別名があるんだけど。知ってる?」


 「え、何? うーん……知っているような、知らないような……。分かんないや! 教えてよ~」


 「ベガは織姫星、アルタイルは彦星。七夕だよ。二人の間に流れるのが天の川。今日はよく見える」


 「おお~ロマンチック!」


 一年に一日しか会えない二つの星。少し可哀想な、夏の風物詩だ。


 「しかし七夕ってさー、二人が仕事をサボるから離れ離れにされちゃったんでしょ? よく考えると、悪いのは二人であんまりロマンチックでもないかも?」


 「そこは……ロマンチックってことにしておいた方がいいんじゃないか? だってほら、星はこんなに綺麗だし」


 「えー、何それー。あははは、でもそうかもね! 確かにこの星は綺麗! それに免じて許そう!」


 地上に誰もいなくなっても、天上の二人は輝き続ける。いつまでも変わらぬ光は、いつまでも美しいままに。


 「これって……さ。私たち今、おんなじ空を見てるんだよね。不思議だね、伊遮那君。私と君、こんなに離れてるのに、目に映すものは同じなんて」


 「そうだな。月とかよく見れば、反射した君の顔が見えるかな?」


 「ふふふっ。それは無理だけどねー。……今日は、星の話でもしながら寝ようか。まだいっぱいあるんでしょ、面白い話がさ────」




 八月十三日


 「私の容姿を教えて欲しい?」


 「そう。ほら、興味あるじゃん。背は高いの? それとも低い? 髪の色は? 染めてる?」


 「ええっと、ちょっと待って待って。一つずつ、順番に答えよ! ……私の身長は百六十センチぐらいかな? 髪は伸ばしてるけど、邪魔だから後ろで纏めてる。染めてないよ。染めるの禁止だったし。でも、地毛でもちょっと茶色っぽいかな」


 「ふーん……。俺は身長百七十五ぐらいで、黒髪の短髪。最近伸びてきたから切ろうと思ってるんだけど、一人で髪を切るのはやりにくくてね」


 「そっか、確かに大変だね! ……あ、でも、失敗してもいいのか。誰も見てないし」


 会話だけで、彼女の容姿を想像する。

 実際にどうなのかは会ってみないと分からない。しかし、想像するだけでも楽しいものだ。


 「服は何着てるの? 俺、まだ制服なんだけど。不精なもんで、とりあえずこれでいいかなって」


 「あは! 私も一緒! 未だに学校の制服着てるよー。紺のセーラーね。伊遮那君はどんなの?」


 「こっちはブレザー。同じく紺色。ウチの女子はセーラー服じゃないからな、どんな服なのか着てるところ見てみたいよ」


 「別に、そんな特別なものじゃないかなー。水泳やってた頃は、下に水着も着てたけど」


 水着。興味が無いと言えば全くの嘘になる。

 しかし俺には、想像することしか出来なかった。


 「伊遮那君? どうした? 聞こえてる?」


 「ん、ああ。大丈夫。それより、今は水着着てないの? 参考までに、どんな水着だったか詳しく知りたいんだけど」


 「……急に食いつきがよくなったね。参考までって、何の参考なのかな?」


 しまった、つい。急いては事をなんとやらだ。口を滑らせすぎた。


 「まあいいや。水着って部活のだからもちろん、学校指定の黒いスク水だよ。別に変わり映えもしないし、参考にもならないと思うけど」


 だが兼谷さんは答えてくれた。良かった、ここで引かれて通信を切られなくて。


 「いや、それで十分ですはい。ありがとうございます」


 「なんじゃいその敬語」


 「ごほん! あと、そうだな……。メガネとかしてる? コンタクト? 俺はコンタクト派なんだけど」


 「うーん残念、どっちでもなし! 裸眼だね、視力はいいから私」


 「ほー、そうなんだ。そりゃ羨ましいことで」


 「あーあ、なんだか学校生活が懐かしくなっちゃった。こんなことになるなら、もっと楽しんでおけばよかったなぁ」


 「………………………………」


 「おっと、ちょっとしんみり? ごめんごめん、つい、ね。今日はもう寝よっか。おやすみ、伊遮那君」




 八月十九日


 「ん、繋がらないな……」


 昨日まで定刻に会話が始まっていたのに、今日は向こうから応答がない。

 どうしたのだろう。


 「もしもーし。兼谷七生さーん? 誰かいますかー?」


 応答なし。

 ちょっと不安になってくる。


 互いに一人きり。もし何かあっても、助けてくれる人はいない。

 悪い想像ばかりしていると、通信にノイズが入った。


 「……あー。ごめん、聞こえる?」


 「兼谷さん!」


 「ちょっと考え事しててさ。ごめんね、遅れた」


 ちゃぽん、と謎の水音が聞こえる。


 「ねえ、伊遮那君。学校で必死になって勉強とかしたけどさ、意味なかったのかな。こうなっちゃたらもう、役になんて立たないもんね」


 「……そんなことは」


 「ない? でも、国語も数学も……英語も歴史も、化学も体育も、こんな世界じゃもう意味なんてないんじゃない? 私たちのやってきたことって結局……」


 今日の彼女は、やけに感傷的だ。

 気持ちは分かる。誰もいない世界で一人きりは寂しい。


 寂しさが続くと、明るいことを考えられなくなってくる。


 「無意味なんかじゃないはずだ。学校で習ったこととか、部活で学んだことがなかったら、俺は兼谷さんに星の話なんて出来なかったよ」


 「……ふふっ。そうだね、うん。私が星座について知ることなんて、一生なかったかもね。今日も出てるよ、夏の大三角」


 東の空に輝く三角形。俺と彼女が、この場で唯一共有するものだ。


 「学校の授業がどこで役に立つかなんて分からないけどさ。でも、きっと役に立つ。世界が滅んでも、勉強したことは無駄じゃない。悲観的になることはないさ」


 「うん、うん。ありがとう、励ましてくれて。急に家族も友達もいなくなっちゃったから……。私、辛くって……。自分が生きてることも、何だか無意味に思えてきて」


 ちゃぷちゃぷ、と謎の水音は続いている。

 彼女の声は今までになく弱く、儚いものに感じられた。


 「世界がこんなにあっさり滅ぶんならさ……。もっと、やりたいことやっておけばよかったなって……。もっと家族と話して、友達と笑って、満足するまで泳いでおけば。後悔、ばっかりだ」


 「後悔することなんて、そりゃいっぱいある。でも、こうなるなんて知らなかったんだ。仕方のないことだよ。だから過去を見て後悔に苛まれるより、明日のことを考えた方がいい。だろ?」


 「………………うん。そうだね」


 そうは言っても、簡単に割り切れることではないと分かっている。

 そりゃあそうさ。急に自分の世界が、人生が滅茶苦茶になって。泣かずにも叫ばずにもいられないわけがない。


 だから、泣いてもいい。叫んだって、苛立ちのままに暴れてもいい。

 ただ、いつか前は向かないと。永遠に後ろを見ていては、暗闇に取り残される。星明りだってそこには届かない。


 「あーもう、やだやだ! さっきまでのナシ! なんか私らしくなかったね! ごめん伊遮那君、変な話なんてしちゃってさ。でもありがとう、スッキリしたよ」


 「ならよかった。兼谷さんが元気なら、俺も元気が出てくるよ」


 「ふぃー、うだうだ話すもんだからのぼせちゃったぁ」


 ざばぁ、と大きな水の音。これは……つまり?


 「もしかして兼谷さん……お風呂入ってた?」


 「あ、うん。ドラム缶にお湯沸かして、傍に通信機置いてね。そういえば言ってなかった、あはは」


 なんということだ。これまで彼女は、入浴しながら会話していたのだ。

 しまった……。もっと音をよく聞いておくんだった。自分で「明日のことを考えた方がいい」などと言っておきながら、この後悔は大きい。


 「あれ、伊遮那君どうしたー? まーた変なこと考えてるのかな? もしかして伊遮那君って、結構な変──」


 「あー、あー! いや、何でもない。ちょっとトランシーバーの調子が悪くて。それでお風呂だっけ? ドラム缶でお風呂、なかなかいいね。うん」


 「……うーん、想像もほどほどにしておきなよ。ふふふふ。でもこのドラム缶風呂、よく出来たと思うんだよねー。私のお気に入りでーす」


 悲壮な声色はもうない。

 彼女の跳ねるような声が、耳に佳く響く。


 最悪な世界だが、いいことはあるものだ。




 「……ねぇ、聞こえる?」




 「本当に、ありがとう。あなたがいて、一人きりじゃないって分かって、すごくほっとした。この世界で生きてることにも意味があるって、確認できた」




 「聞こえてないなら、それでもいいや……。おやすみ、伊遮那君」




 深夜の突発的な通信は切られた。


 「おやすみ、兼谷さん」


 俺は月に向かって、独り言ちた。




 八月二十七日


 「今日は何した? 私ね、近所のスーパーから缶詰持ってきたよ。これで全部無くなっちゃったから、次からはもっと遠くに行かないと……」


 「俺は野良猫の観察してたな。ぼーっと見てたら一日が終わってた」


 「あはははは! なにそれー! ちょっと暢気すぎない? まー、やることなんてそうないけどさー」


 幸いに、食糧は豊富だった。一人が故に、細々と食べて行けばかなりの時間は持つだろう。

 それらが尽きた後は、何も考えてはいないのだが。


 「ね、将来の夢って何かある?」


 「……は? それって、昔の話?」


 「んー、どっちも! 私はね、看護婦になろうかななんて考えてたんだ。私の力で誰かを助けたかった。もう、助ける人なんていないんだけど」


 「立派な夢だな。俺は……そんな夢はないよ。ただ、生きられるから生きていただけ。特にやりたいこともなかったから、適当な会社に就職して適当な人生を送るもんだと思ってた」


 それでいいと思ってた。ただ、現実は思う通りには行かない。


 「私だって別に、立派じゃ……。これからはどうする? 君の夢なら、今からでも叶いそうだけど」


 「まあ、そうだな。でも思った以上に暇だった。人と話すことなんて別段好きじゃなかったんだけど、いざ誰もいないとなると、寂しくてしょうがない」


 「ふふ、私もそうかも。人付き合いって得意じゃなかった。そりゃ友達はいたけどさ、クラスでも別に人気者ってわけじゃないし、どっちかって言えば影の薄い方だし」


 「兼谷さんが? 面白い冗談だね」


 「いやいや、本当だよ~。その、男子と話すのも実は、相当に珍しいことだったりして……」


 ふむ。彼女はおしゃべりだから、クラスで影が薄いというのは想像がつかない。

 もしかしたら、普段はこんなに元気に話すことはないのかもしれない。こういう状況だからこそ、あるいは俺しかいないからこそ会話が弾むのか。


 「一つ聞いていい? 兼谷さん」


 「何?」


 「彼氏とかいた?」


 「げふっ!」


 向こうから噴き出して、咳き込む声が聞こえる。


 「ちょ、ちょっと唐突だね……。ど、どうかなー。いたかもしれないし、いないかもしれないねー。……ご想像にお任せします」


 「ご想像に? いいの? 俺の中の兼谷さん像がどんどんと破廉恥なことになっていくんだけど」


 「どんな想像してるのー!? 言います、正直に言いますー! 彼氏なんて一人もいませんでしたー!」


 今、彼女が顔を赤くしているのははっきりと感じられた。


 「君こそどうなのさ! 私と同じで、彼女とかいなかったんじゃないの?」


 「ごめん、兼谷さん。俺、今まで十一……いや、十二人かな? 彼女はいっぱいいたんだ」


 「え、嘘ぉ……。仲間だと思ってたのに……」


 これで信じてしまうんだから、彼女は面白い。純真と言うかなんというか、そこがいいところでもあるのだが。


 「嘘だよ嘘。俺なんて万年ボッチさ。彼女どころか、男の友達すら数えるほどだ。バレンタインも母親からしかチョコを貰ったことないし」


 「伊遮那くーん!」


 閑話休題。


 「話が逸れたなぁ……。それで、君は今、やりたいこととか無いんだ?」


 「そうだな。君と話すことが日課で、生きがいみたいなもんだ」


 「そ、そう? それはよかった……かな」


 「兼谷さんはどうなの? 何か目標とかあるの?」


 「……生きること、かな。偶然でも助かった命を、簡単に終わらせたくはない。死んじゃった皆のため、なんて言えないけど。出来るだけ長く生きて皆のことを覚えていることが、私の目標」


 「覚えていること?」


 「うん。この世界がこうなって、皆死んじゃって……。それで、もう死んだ人のことを覚えている人も、君と私しかいないでしょ。誰からも死んだことすら忘れられたら……それは、ただ死ぬ以上に悲しいことだと思うの」


 ああ、確かにそうかもしれない。懸命に生きた七十億の彼らは、名前すら残せず消えてしまった。

 それはもう、最初からいなかったも同義だ。世界からの、存在の抹消。証明不能な人生。


 「だから、せめて私だけでも覚えておくの。こんな人がいたんだって、忘れないようにメモをして。家族に友達に、学校の先生に行きつけの美容室の人に、バイト先の人とそれから────」


 「俺か?」


 「そう、伊遮那浩人君……って、君は死なないでよー!」


 「はは。善処するよ。でもこれで安心だ、もし俺が死んでも、俺のことを覚えてくれてる人がいるって」


 「……もう。冗談でもそんなこと言わないで。私、嫌だから! もう一人になりたくない……。君が死んだら、私はもう……」


 怒るように怒鳴られた後、彼女はまたか細い声を出した。

 なんだか悪いことをしてしまった。冗談にしては、恐ろし過ぎたか。


 「分かった。俺、新しい夢が出来たよ」


 「え、何?」


 「君と一緒に年を取る。これから何年、何十年と話し合おう。互いに老人になっても、こうして夜、一緒に星のことでも語らうんだ」


 「…………伊遮那君」


 「なんなら、俺が君より長く生きてやる。君のメモは俺が引き継いでやるよ。どうだ、これならいいだろ?」


 そしてそこに、君の名前を書く。

 それまでに話したこと、君の趣味、特技、性格なんかも全部。


 決して忘れられぬように。俺が死んだ後も残るように。

 それが俺の夢だ。今決めたが、自分でも思う以上にしっくりくる。


 「つまり、私に会いに来るってこと? 遠いよ?」


 「あー、そうだろうな。一体何キロ離れていることやら。車は必須だが、運転したこと無いし、当然自分の車もないし……。やっぱり勉強しないとな」


 「あはは、うん。じゃあ私も君に会いに行く。一緒にお互いに会いに行けば、早く会えるよ」


 「そりゃいい。俺の車に乗せてやるよ、って言ってみたかったんだ」


 「ふふふふっ。奇遇だね、私も言われてみたかったんだ」


 はははははと、夜空の下二人で笑いあう。静かな街でただ、笑い声だけ。

 皮肉にも俺は、世界がこうなる前よりも、今の方を楽しんでいた。


 「はぁ、笑った笑った……。あーあ、もうこんな時間か。眠くなってきちゃった……」


 ふわぁ、と欠伸の音すら聞こえる。俺もそれにつられ、欠伸を返す。


 「そうだ、最後に言っちゃうね。私の看護婦になりたかった理由。人を助けたかったっていうのは、ちょっと見栄……かな。本当はね、誰かを助けられる自分っていうのが好きなだけ。弱い人を助ける自分がカッコよく見えるっていう、すごく自分本位な……。そんなもの」


 「それ、駄目なのか? 俺は別にいいと思うけど。どんな理由でもさ」


 「え、そ、そう? ちょっと引かれるかなって、言いにくかったんだけど……」


 「引いたりしないよ。理由がどうであれ他人には結果しか見えないんだし、君が誰かを助ける行為を志す、そういう高潔さは本物だ」


 「う……。まさか褒められるとは思わなかったなぁ」


 「実際俺は……君に救われてるよ。君からの通信に、俺は応えた。君からこなかったら多分、俺は誰とも話すことはなかったんだ。だから、ありがとう」


 「…………………………」


 返答は無かった。ただ、向こうの彼女の表情は、なんとなく察せた。

 俺も自分で言って恥ずかしくなったので、何も言えない。


 そっと通信を切り、その日の会話は終わった。




 九月二十日


 「もしもーし? 聞こえるー?」


 「大丈夫だ。そっちの調子は?」


 「うん、道も通信も良好! ま、田舎だからね」


 市街地に車を走らせる。

 高速道路には他の車が渋滞し詰まっているため、使えない。


 時間はかかるが、地道に街中を走るしかない。

 それでも動かない渋滞を避けるため、遠回りを強いられる道も多いのだが。


 「ちゃんとガソリン積んでるかー? バッテリーは?」


 「大丈夫だってー。全部積んでますー!」


 「車はどうなんだ? 一回操作ミスって、電柱にぶつけたんだろ?」


 「う……。ちょっと右のライトが点かないけど、動くから大丈夫だよ。きっと。何かお母さんみたいなこと言うねぇ」


 不安なものはしょうがない。なにしろ慣れないことばかりだ。

 俺だって車のナビを頼りに、えっちらおっちらと無人の街を進んでいる。


 「なあ、運転するのに邪魔なら黙るけど。どうする」


 「だめだめ、何か話してっ! 何時間も運転するのに一人きりとか、無理だって!」


 「分かった。じゃあそうだな……。互いに食べたい物の名前でも挙げてこうぜ。俺、麻婆豆腐」


 「松前漬けーっ!」


 「うお、いきなり通なモノ来た……」


 わいわいダラダラと話しながら、車輪が回る。

 運転とは疲れるもので、始めは一時間ごとに休憩を挟みつつ。空はいつの間にか暗く、星の海が天に広がっていく。


 「ああああ、ジンギスカン食べたーい!」


 「腹減ったな……。缶詰とかビスケットとかの食事、段々飽きてくるんだよな」


 「もう無理! 今日はここまでにしよ! 明日の朝からまた頑張りまーす」


 「オッケー。俺もここいらで一泊するわ」


 「寝袋万歳~。あ、でももうちょっとだけお話ししよ? 私が寝るまでね」


 「いいけど、何話す? 俺の面白い話のストックは、もう何もないんだが」


 「じゃあ……未来のこと。私と君と、出会って何する?」


 星を見ながら、明日の事を考える。

 まだ見ぬ世界への想像は自由だ。思い切り楽し気な空想を思い描く。


 「兼谷さんと美味しい物でも食べに行く。どう? 美味い飯屋知ってるんだ」


 「えー? ふふふ、どこにあるのよそれ」


 「東京。名物は缶詰とインスタント食品」


 「それ、伊遮那君の手作りじゃないの? あはははは」


 「君はどうする? 希望はある?」


 「なーんにも考えてません! あっそうだ! 私の手料理振舞ってあげる!」


 「メニューは?」


 「クジラの大和煮と水、炊いたご飯です!」


 「いいね。ご飯、炊けるんだ」


 「家庭科の授業ぐらい出来るよぉ! そういえば飯盒のやり方習ったなぁって、思い出したんだよね。白いご飯は美味しいぞー!」


 他愛もない話。今や日常となった一人の毎日は、笑い声と共に閉じていく。

 眠くなり、やがて向こうからも声が絶えて、俺は車内に横たわる。


 料理を片端から食べる彼女の夢を見る。

 久しぶりにいい夢だった。




 九月二十一日


 「あー、もうすぐ会えるってなると、緊張するなぁ~」


 朝から運転を始め、こまめな休みと長い昼休憩を挟み、苦節十時間。

 俺と彼女の距離は、これまでにないほどに縮まっていた。


 「兼谷さん。俺と合流したら、東京に行くってことでいいんだよね」


 「うん! 東京、初めてなんだ。修学旅行で京都とか行ったけど、東京って中々行く機会ないんだよねー。遠いし」


 「なんか期待してるかもだけど、別に君の住んでたとことそう変わりないと思うけどな」


 「でっかい塔があるんでしょ!? 私、それ登りたーい」


 「ううむ、エレベーターが動いてないだろうし、階段になるけど……。すごい高いぞ?」


 「へっへっへ、人類が滅びてこのかた、毎朝のトレーニングは欠かしてないよ~。どんな長い階段でも、登り切って見せましょう!」


 もしかして、俺も付き合わされるのか?

 恐怖の未来に少し怯えながら、月明かり照らす闇の中を飛ばす。


 もう市街地は無く、ひっそりとした田んぼだけが広がっていた。

 誰の手も入っていない農地は、今や野生動物の住処だ。


 開けっ放しの窓から鈴虫の風流な音が聞こえる。

 高周波はこの通信越しに聞くことは出来ないだろうが、彼女もきっと、同じように外の音楽祭に耳を傾けていることだろう。


 「星、見えるね。織姫と彦星の話を思い出すなぁ。一年に一度だけ会える、か」


 「どうした急に?」


 「男女二人が出会いに行くってまさにこんな感じじゃない?」


 「お前、自分のこと姫とか言うの?」


 「な、何よー! 駄目ですかー!?」


 駄目ではないが……。


 「そう重ねるなら、俺と兼谷さんは相思相愛ってことになるけど」


 「!!」


 黙ってしまった。もしもーし?


 「あ、いや、それは。とにかく、思ったことを言っただけー! 余計なところを突っ込まなくてよろしい!」


 「へいへい。……あ、遠くに車のヘッドライトが見える。あれ兼谷さん?」


 「おー、見える見える! あとちょっと! やったー!」


 ついに、互いの車が肉眼で視認できる距離まで来た。

 ようやく彼女と会えるのだ。


 「…………あ、あのさ」


 「ん?」


 「色々ありがとう。今まで話し相手になってくれて、すごく嬉しかった」


 「なんだ、これから会うんだし面と向かって言ってくれればいいのに」


 「目の前で言うのは恥ずかしくて無理だってぇ。だから今のうちに言っておいたのー。これ、最後の通信だから!」


 「そっか。じゃあ俺も最後に一つ言っていい?」


 「何?」


 「俺、やっぱ君のこと好きだ」


 「ぐううぅ~~~っ! 馬鹿ぁ!」


 通信終了。


 最後の通信ラストコールは一方的に打ち切られた。

 彼女の声が消えた車内で、一人笑う。


 もしかしたらこれが、地球最後の電波のやり取りかもしれないと考えると、面白くて仕方ない。

 さて、彼女を迎えに行こうか。





















 「────君が、伊遮那浩人君? ええと……私、兼谷七生。改めて、よろしくね。彦星君?」

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