きれいな電車

友未 哲俊

   きれいな電車 ━ 「ふららちゃんの失敗」より

 私が五才だった半世紀以上も昔のこと、山陽電車の板宿いたやど駅のすぐ南側は市電の大田町おおたちょう終点になっていて、いつも路面電車が発着していました。五月のみなと祭りの日が来ると、白やピンクでふっくりとかざりたてられた花電車の上から、ミス神戸のおねえさんが夢から抜け出てきたような真っ白なドレス姿でやさしく笑って手を振ってくれたり、夜ともなると、電車全体がいっぱいの電球に包まれて、別の世界から来た乗り物ように輝いていたのをよく覚えています。また、夏になると、路面の道端で、行商のおばさんが、たっぷりと太ったおいしそうなイチジクをてんびんばかりで目方売りしていたものでした。

 私たちの家は、その山陽電車の板宿駅から少し南側に下った寺田町てらだちょうというところにありました。それは私の人生では二度目の家でしたが、まだ幼かった最初の家の記憶のほとんどない私にとっては、一番遠くてなつかしい思い出の始まる故郷ふるさとなのです。

 当時の寺田町には、下町らしいご近所どうしのつながりや楽しみが当たり前に生きていました。

 毎週「月光仮面」の時間になると、私は、弟や、家にまだテレビのなかったご近所の子供たちと一緒に、お隣の「やっちゃん」の家に見せてもらいに行くのでした。月光仮面は空飛ぶ白バイに乗って来てサタンのつめという悪者をやっつけてくれるのです。放送の合間合間には、よその子たちが思い思いに持ち寄って来る横綱よこづな朝潮あさしおや野球の投手や映画俳優はいゆうなどのえがかれたブロマイド、それに落書き帳のぬり絵などを、私は少し離れた所から熱心にながめておりました。中でも、二丁拳銃けんじゅう早撃はやうちガンマンの小さな一枚のカードの姿が、今でもくっきりと心に焼き付いていて忘れられないのが不思議です。たった一度見たきりでしたのに …

 やっちゃんは私と多分同い年だった男の子で、年中、青ばなをたらしていて、着ている服の袖口そでぐちがいつもテカテカ光っていました。呼び方は関西風に「やっ」を低く、「ちゃ」を高く、「ん」をまた下げて呼ぶのです。私たちと同じような家に住んでいましたから、テレビがあるからといって、それほどお金持ちという訳でもなかったはずです。私とやっちゃんはテレビだけのおつきあいで、二人だけで遊んだ記憶はありません。きっと、私の母がやっちゃんのことを「きたない子だ」と少しいやがっていたせいだったのかもしれません。それでも、年上の子供たちが道ばたで「ぺったん」(メンコのことをそう言いました)をするのはよく並んで見ていた気がします。ぺったんにはいろんな種類があって、特に熱心に遊んでいたふたり組のお兄さんたちは「油メン」という見るからに頑丈がんじょうそうなぶ厚い札を大切にしていました。大きなビニール袋から何百枚もの、ありとあらゆる絵柄えがらの札が取り出されて行く様子はそれは見事なもので、やっちゃんと私は、ほかの子供たちの中に混じって、大してわかりもしないくせに年上の腕白たちの真剣勝負をながめておりました。そんなやっちゃんの横には時々、頭ひとつ分小さなおかっぱ頭の妹らしい子が、ただ何となくだまって立っていたように覚えています。

 近所の子供たちのなかでは年下の方だった私のふだんの遊び相手は、もっぱら二才ちがいの弟でした。弟は私などよりずっとな性格で、どこかで見つけてきた死んだドブネズミのしっぽをつまんで、「ママ、これ」と戦利品のようにぶら下げて来て、始終、母をなやませるようなことばかりしていました。私たちは、ひもで腰に結わえ付けた磁石をひきずったまま近所中を歩き回り、クギや鉄くずを集めてみたり、地べたにしゃがみ込んで道路の上にろう石で落書きしたりするような遊びももちろん大好きでしたが、何よりの楽しみは宝さがしでした。私たちの家は、もう一方のとなり側が、申し訳ばかりの細いドブをはさんだ町のゴム工場になっていて、すぐ先の表通りの道ぞいに、ふたのない大きなコンクリートのゴミ捨て場が設けられていたのです。私と弟は年上の子供たちの真似をして、そのゴミの山の中に勇敢にも分け入ると、不思議な形のゴムがたや、色々な種類の牛乳の紙ぶたや、わけのわからないプラスチックのいれもののかけらなどを発掘し、その戦利品でいろいろな遊びを工夫しておりました。そのなかでも私たちチビ兄弟の一番のお気に入りだったのが切腹ごっこです。と言いますのは、いつでしたか、板宿駅の北側の商店すじの一角にあった映画館へ家族みんなでチャンバラ映画を見に行った帰り道でのこと、「どこがおもしろかった?」と母にきかれた私が、「切腹するところ」と答えたところ、「いやだわ … 」とつぶやいた母の言い方や困ったような顔つきから、切腹というのはとても恥ずかしい、エッチなことなのだろうという気がして、それ以来、すっかり、私たちふたりの秘めごとの一つになってしまっていたからでした。私たちはまわりにだれもいないのを確かめてから、路地のものかげへもぐり込み、掘り出してきたばかりの細長いゴムきれの刀で、かわりばんこにお腹を切って死ぬまねをして見せます。そして、だれかの足音が近づいて来るのが聞こえると、大あわてでおヘソをズボンの下にもどすのでした。

 ご近所のおとなのなかでは、しんさんという、顔なじみのひとりのおばあさんのことが思い出されます。わが家から数けん先の角を曲ったそのまた数けん奥に住んでいた初老のおばあさんでした。ある時、そのしんさんが、家の中からふと出て来て、私に長細い岩のかたまりのような物をくれました。にぎったこぶしから両端りょうはしがはみ出すほど大きな、見たこともないかたまりです。いくら考えても訳が分らず、しばらくなやんだ末、私はためしにはみ出したその先っぽでしんさんの家の木のかべをゴリゴリと何度も強く引っかいてみました。ろう石のお化けかもしれないと思ったからです。すると出て来たしんさんがとても驚いて「あかんよ。それお菓子やで」と教えてくれました。言われるままになめてみると、何だか甘い味がするではありませんか。あとで母からそれは「黒砂糖」というものだったとはじめて聞かされました。

 はじめてと言えば、いつもおつかいに行っていた近所のパン屋さんのことも思い出します。眼鏡をかけたおだやかなおばさんのお店でしたが、ある時、パンを幾つか買って帰ったお釣りの中に ━ ちなみに、当時、あんパンやジャムパンやクリームパンは、どれもみな一つ10円でした ━ 見なれないおさつが一枚まざっていました。母と父に渡したところ、1円札というものだということで、ふたりとも珍し気に「まだ使えるんやろか」と首を傾げていました。このおばさんのお店以外では、時々ろばのパン屋さん ━ ロバが屋台をいて売りに来てくれていたのです ━ でも、白くてフワフワしただ円形の表に小さな細長い穴がななめに二つ並んだあんパン(母は「老犬マント」と呼んでいましたが)を買うのが楽しみでした。

 寺田町の思い出の中のおとなたちはみな優し人ばかりです。怖かった人など一人も思い出せません。おねえさんたちは特に優しくて、斜め向かいのメッキ工場のおねえさんには夏にドラム缶のお風呂に入れてもらったことがありますし、冬には、あまり体の強くなかった私のために母の注文してくれたホットミルクを、近所の喫茶店のおねえさんが歩いて持って来てくれるのでした。おねえさんたちのことはもう名前も面影もすっかり忘れてしまいましたが、ドラム缶のお風呂のような、ホットミルクのような温かさは体の底に今も優しく続けています。  

 一方、母は母で、口では「やっちゃんは汚い」とか何とかぼやいていても、本当の所は大の子供好きでしたので、よく当のやっちゃんや近所の子供たちを招いては幻燈げんとう会を開いていたものです。出しものは人魚姫や不思議の国のアリスです。幻燈機げんとうきを父が動かし、声のないフィルムの絵に合わせて、母がそれは上手にナレーションを付けて行きました。十八番おはこは間違いなく人魚姫だったようです。そんなわが家が一年中で一番盛り上がったのが、節分の豆まきでした。その日が来ると、カーテンを閉じて真っ暗にした二階の子供部屋に近所中の子供たちが集まって、いり豆と一緒にお菓子のかれる号令を待ち構えます。

「福は内」

 赤や緑の銀紙に包まれた半球がたのチョコレートや、あめやヌガーや水羊かんや、風船ガムや細長いクリームビスケット 。

「福は内」

 わたしたちは四つんいになって夢中でたたみの上を隅から隅まで手探りし、きゃっきゃと宝物を奪い合うのでした。

 他にも書いておきたい思い出は山ほどあります。いつもかよっていたお風呂屋さんの脱衣所にはられていた「旗本退屈男はたもとたいくつおとこ」の映画のポスターのおでこにあった三日月の話、湯船でコチコチ音を立てて泳ぐブリキの金魚や、お風呂帰りにお豆腐とうふ屋さんでいつも飲んでいたよく冷えたビン入りの「ソップ」という豆乳の話、映画館で宇宙の怪人から人々を救うためにスーパージャイアンツが空を飛んで駆けつけて行く姿に、大人も子供も一斉いっせいに拍手して応援おうえんしたこと、浴衣着ゆかたぎで出かけた長田神社のお祭りで、赤鬼が自分の持っていた松明たいまつの火で火傷やけどしかけていたこと、飼い犬の「デベン」が赤いゴム風船を食べてしまってみんなで大騒ぎした事件、須磨すま水族館の芝生に寝そべって眺めていた金色の打ち上げ花火のこと … 、数えあげて行ったらきりがありません。

 ですが、いくらちいさくても、私も、もちろん遊んでばかりいた訳ではないのです。最初にお話した大田町の市電通りを、私は、毎朝、母と二人で山陽電車の板宿駅まで歩いて幼稚園へかよっていました。駅のホームまでは母と一緒に行き、そこからはひとりで電車に乗って三つほど先の須磨寺すまでら駅でおりて、そこからまた迎えの先生や友だちといっしょに幼稚園まで歩いて行きました。

 さて、その日は、駅に着いたのが少し早すぎて、いつもより一台早い電車がもうすぐ来る頃でした。

「あら?」

 誰かを見つけた母がうれしそうに声を上げます。

 永井先生でした。受け持ちのおねえさん先生です。

 私は優しい永井先生が大好きでした。先生は駅のすぐ裏側の線路沿いの貸家かしやにひとりで住んでいて、一度遊びに呼んで下さったことがあったのです。私が生まれて初めてヨーグルトというおいしいおやつを知ったのもその時でした。

 なのに、私は恥ずかしくて、母が先生とあいさつするのをただ黙って眺めていたような気がします。

 電車が来ました。私のきらいなみすぼらしいこげ茶いろの電車です。次に来る電車が黄色いクリーム色とこん色のツートンカラーにぬり分けられていることは母も私も知っていました。

「先生と一緒に乗る?」

 母が私に聞きます。

「きれいな電車で行く」

 私はそう言いました。

 母が先生にちょっとおじぎします。

 先生もおじぎして電車に乗りました。

 とびらがしまった向うから、先生の笑顔は私を見つめたまま遠ざかって行きました  …

 そうそう、同じ年長組の筑路つきじさっちゃんとは大の仲良しでした。きちんと呼ぶと筑路つきじ幸子さちこです。顔も目も満月みたいに愛くるしい明るい女の子で、いつの間にか大好きになっていました。好きといってもまだちいさかったので、女の子として好きだったのかどうかはよくわかりませんが、でも時々、弟なんかとは全然違う甘いにおいがしていたのは確かです。来る日も来る日も、私たちはふたりで鬼ごっこばかりしていたのですが、それには約束事があって、さっちゃんが「焼き豚!」と叫びながらそこら辺を逃げ回り(私はその頃から焼き豚が大好物でした)、私が「こら!」と片手を振りかざしてあとを追いかけるというきまりです。ただそれだけのことなのに、今ふり返ると、あれほど楽しい遊びにはもう二度と出会えないのかもしれません。

 やがて、わたしたち年長組は六才になって卒園を迎えることになりました。卒園の音楽会の練習中、指導がかりの先生が、「もっとそろえましょう。ちゃんとできているのはトモミくんとツキジさんだけですよ」と注意されたので、自分のことよりさっちゃんのことが得意になりました。その時、自分の楽器が何だったのかはちっとも覚えていませんが、さっちゃんが大だいこをたたいていた真剣な姿ははきり思い出せます。なのに卒園式の当日は、風ぐるまを持って歌いながらみんなと運動場を行進するわたしの頭からはさっちゃんのことなどなぜかすっかりぬけ落ちていて、少しも寂しくなかったような気がします。


 小学校に上ったその年の暮れ、となりのゴム工場が火事になりました。さいわい、わが家は無事でしたが、わたしたちはもっと安全なところをさがして、学期の途中から、わたしにとっては人生で三番目になる垂水たるみの家に引っ越して行くことになりました。

 ですが、それはまた別のお話です。

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