むさしの空に咲く恋は
涼月
強がりな先輩と一途な後輩の物語
一面に広がる光の園。
その昔、水辺と荻の原で覆われていたであろう地に、今は色とりどりの光の花が煌めいている。それを
あの花一つ一つに、ドラマが宿っているに違いない。喜怒哀楽のエネルギーが大地を、空気を熱していく。
そして……私の胸にも。
『くっそぉ、アホ上司。なーにが後はよろしくよ。面倒事ばかり引き受けて来るくせに、全部こちらに丸投げ。そのくせ私はちゃんと適材適所、人材育成してますって顔していて。あー! 腹立つ!』
心の中で悪口雑言を叫んだら、少しだけすっきりした。
この、高いところで叫ぶのがいいのよね。声は出してないけど。
深呼吸をしてから、改めて大きなガラス窓に顔を近づけた。
タワーの高さ
その殆どはカップル。燈子のような女性一人は少ない。でも、気にしない。
だって、これが私のストレス発散方法だから。
地上で瞬く星を心ゆくまで眺めているうちに、自分の悩みがちっぽけに見えてくる。
それに救われるのだ。
お腹も空いたし、この後は立ち呑みでも行きますか。
そう思って一歩引き下がった瞬間、ポスっと後ろの人物の胸に収まった。
あ、後ろに人がいたのね。気づいていなかった! 謝らないと。
慌てて振り向いた燈子の目に、バツが悪そうに微笑んでいる見知った顔が映り込んだ。
同じフロアで働いている、三歳年下の
最近、やたらよく会う。というより、纏わりついてくる。
色白でヒョロリと背が高くて綺麗な顔立ち。入社以来、女性社員の視線を集めている。さぞ男性社員から嫉妬されるかと思いきや、素直で卒無く仕事をこなしているので、重宝されて可愛がられていた。
対する
あーあ、こんな姿見られちゃったのか。
ショック!
それにしても、なんでこんなに気配を殺しているのよ。こいつは忍者か!
「奇遇ですね。こんなところで会うなんて」
白々しく言ってくる風早は、案外図太い神経を持っているようだ。燈子はちらりと疑いの目を向けてから、ほうっと息を吐いた。
「せっかく一人で楽しんでいたのに」
「邪魔してすみません」
「風早君も、もっと近づいて見たら?」
「そうさせていただきます」
隣へ促せば、パアっと嬉しそうに目を輝かせた。並んでもう一度、美しい夜景に見入る。
「ねえ、知ってた?」
「何をですか?」
「この目の前を流れる隅田川、大昔は利根川に繋がっていたんだってこと」
「へぇ、知りませんでした。利根川って大きな川ですよね」
「そうよ。だからこの辺りは直ぐ洪水が起こって暮らすのにはちょっと危険な場所だったのね。でも、江戸に入ってから人々が少しずつ川筋を変えて、長い年月をかけて住みやすい地へと変えてきたのよ」
「すごいなぁ」
感動したように呟いてから、食い入るように隅田川河畔を眺めている。
「自分たちの手で住みよくしてきたんですね。何にもしないで手に入れられる物なんて無くて、努力の賜物だってことですね。俺もここでがんばらないと」
その時、燈子は風早の実家が遠いことを思い出した。今はいつでもスマホで顔を見ながら会話ができる時代。隅田川を渡りながら、愛しい人の安否を都鳥に問うた在原業平の時とは違う。
それでも、いやだからこそ、時に無性に人肌が恋しくなるのだ。
「大丈夫だよ。風早君はもう、自分の居場所を手に入れているよ」
「そう……でしょうか?」
「うん。会社の人たちから信頼されているの、見ていたらわかるよ。だから大丈夫」
「やっぱり、石橋さんは優しいです」
風早が幸せそうな笑顔を向けてきた。
そんな無邪気に喜ばれたら、年下には手を出さないって決めている私だってドキッとしちゃうじゃないのよ。もう、無自覚イケメンはこれだから困る。
慌てて目を逸らした燈子に、さり気ない風を装った風早の声が追いかけてきた。
「何かあったんですか?」
「え?」
「なんとなく、辛いことがあったのかなって。だからここへ来たのかなって思ったんです」
なんでそんなこと、気付くのよ。顔に出さないように気を付けているのに。
何故か彼だけは誤魔化せない。
動揺を必死に押し隠しながら、適当な言い訳を口にした。
「……別に。たまには早帰りして綺麗な景色を見たいと思っただけよ。そう言うあなたは、ちゃんと仕事終わらせてきたの?」
「もちろんですよ。速攻で終わらせてきました」
「そう、お疲れ様」
そう言って労うと、風早が急に情けない顔になった。
「嘘です。仕事途中で放って来ちゃいました」
「……」
「心配で。石橋さん、またどっかで倒れているんじゃないかと思って」
「……ごめんね。あの時はびっくりさせちゃったよね」
三か月ほど前のこと、残業中に貧血で倒れかけたことがあった。運よく通りかかった風早が体を支えてくれたおかげで、大事に至らずに済んだのだ。以来、彼が燈子の体調を気遣ってくれていることは気づいている。
それこそ、過保護な親のようなレベルで。
と言うことは、この男、会社からずーっと私の後をつけてきたな。まるでストーカーのように。ああ、だから、忍びのように気配を消していたんだ。
そこまでしてくれる風早のことが愛おしくなる。
もう、呆れて笑ってしまった。
「もう、若いくせに心配性なんだから」
風早があきらかにほっとしたように力を抜いた。怒られると思っていたらしい。でも、燈子が笑ったことで安心したようだ。
意を決したように言い返してきた。
「石橋さんは頑張り過ぎです。自分の限界を超えてやり過ぎ。だから、俺が見張ってないと」
「世話が焼ける先輩だよね。ごめん、ごめん」
「茶化さないでください。俺は事実を言っているんです。そうやって直ぐに大丈夫って自分に言い聞かせちゃうから、体が悲鳴を上げるんですよ。もっと、自分を大切にしてください!」
いつの間にか腕を掴まれ、瞳を覗き込まれていた。その真剣な眼差しに吸い込まれそうになる。
だめよ。深入りしちゃ。
必死で自分に言い聞かせた。
社内で人気の風早だが、中身は素朴で真面目な青年。そんなことは見ていればわかる。そんな彼がこんな風に隠さずにぶつけてくれる好意は、本当は泣きたくなるくらい嬉しかった。
それでも、社内恋愛と言うのはとても難しいのだ。
もし、上手くいかなくなったら……互いに傷つく。
燈子は必死で感情を抑えた。
「ありがとう。心配かけてごめんね」
その声音に滲む距離感に、風早の表情が歪んだ。
自分で拒絶しておきながら、燈子も切なくなる。
二人で下を向いてしばらく佇んでいた。
風早が二回首を左右に振った。何かを吹っ切ったかのように顔を上げると、もう一度燈子の瞳を捉えてきた。
「石橋さん。この後、俺の部屋に来ませんか? 温かい手料理ご馳走します」
燈子の心臓がトクンと鳴った。
手料理……
貧血で倒れた次の日、風早がそうっと残業用の手作り弁当を差し入れてくれた。
『ちゃんと食べないとまた倒れますよ。俺、結構料理するの好きなんで。良かったら食べてみてください』
それはとても優しい味がした。
一人暮らしの彼が、節約と節制のために編み出したアイデア料理は、彩にも栄養にも配慮してあって、本当に美味しかった。
心からの礼を言いつつも、やんわりと、これ以上はいらないと断りを付け加えた時の、彼の悲し気な顔が思い出された。
風早の気持ちに気づいていながら、踏み出せない燈子。
「……ありがとう。風早君の料理、スッゴク美味しいけど……行けない」
いつも明瞭明快な燈子の声が、小さくすぼんでいった。
「……わかりました。無理を言ってすみません」
ほうっと息を静かに吐いてから、取り繕ったようにふにゃっと笑った風早。
ペコリと頭を下げて、背を向けた。
その肩が、捨て犬のように震えている。
このまま行かせてしまっていいの?
本当に後悔しない?
いつでも会える現代だって、一歩踏み間違えたら永遠に横たわる大河に阻まれてしまうのだ。
二度と彼と笑い合えなくなっても、私は耐えられるの?
そう己に問いかけたところで、体が先に動いた。
遠のく背に手を伸ばす。
会社の後輩だからとか、何かあったら周りに気を使わせるとか。
そんなこと、もうどうでもいい!
本当は、私も風早君のことが好きなんだから!
「風早君!」
ピクリとして歩みが止まる。
「やっぱり、行く!」
震えの止まった背は、それでも直ぐには振り向かなかった。
彼女の声を、言葉を噛みしめてから、ゆっくりと向き直る。
驚きと安堵と喜びの混ざった美しい顔が、泣きそうになる。
「はい! 是非。俺、頑張るから……」
燈子の頬にも雫が一筋。
「頑張らなくていいよ。そのままでいい」
どちらからともなく駆け寄り、温もりを与え合った。
もう、逃げない。もう、迷わない。
素直になろう……
大都会に聳える塔の上。
古から続く地より少しだけ
完
むさしの空に咲く恋は 涼月 @piyotama
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