阿呆たちが集う夏

朝田さやか

手遅れになる前に

 ぞめきの音が夏の始まりを運ぶ。鉦、小太鼓、大太鼓、横笛、三味線、そして踊り手たちの陽気な声。胸を浮き立たせるその音は日に日に大きく、長く、あちこちから聞こえ始めるようになる。八月十二日から十五日の四日間に焦点を当てて、暑さとともに夏が加速していく。


「踊る阿呆に見る阿呆。同じ阿呆なら踊らにゃ損々」


 幼い頃から毎年家族に連れられて見た無料演舞場。午後六時ちょうどに着くように家から歩いて向かい、席を取るのが毎年の流れだった。十分ほど経てば、飽きるほどに浴びた、けれど決して耳障りではない和楽器の音とともに女踊りや男踊りが列をなして過ぎていく。次第に目が、耳が、踊りと祭りのおおらかな雰囲気に呑まれていく。


 子どもにとったら退屈なもので、二十分も経たないうちに漢字の読めない連がまた一つ過ぎた空気団と空気団の間のような空間を迎えると、辺りを見回す方に俄然興味が湧いた。家族連れ、中高生の友達グループ、外国人観光客、そして、カップル。


 屋台に向かう人混みの中で手を繋ぐお兄さん、お姉さんを見つけては、目を逸らしたくなるような、ずっと見ていたいような感情に囚われて、胸の中から光が溢れ出すような気がしていた。毎年毎年ぞめきの音と同じように刷り込まれていく光景が私を掴んだ。


 きょろきょろするうち、隣のお母さんの一つ横に座る幼なじみと不意に目が合って、すぐに目を逸らした。反射的に自分から逸らしたくせに、同時にずっと目を合わせていたいという、相反するよく分からない感情を持て余しながら。


 年月は積み重なって、想いは強くなっていく。そうして好きな人と二人きりで歩くその夜に、ずっと焦がれていた。大きくなったら好きな人と浴衣を着て、そんな、阿呆たちが集う夏に紛れたい、と。




「この道の奥にはしまきあるかも、買うてもいい?」


 騒々しさに掻き消されないように出した声は、思っていたよりも大きくなった。ほとんど叫んだに近い音量に、振り返った潮音しおんは煩わしそうに眉を寄せた。


「ええけど」


 今日は何も上手くいかない。


 履き慣れないサンダルのせいでできた靴擦れが存在を主張する。潮音は川沿いの屋台の方へ行きかけていた足を、公園の奥の方まで進む方向へと戻してずんずん歩き出した。立ち止まることもできずに、全ての痛みには気づかないふりをして付いていく。潮音のリュックの横ポケットを掴む指により力を入れた。


 相変わらず見回す限りの人、人、人。皆グループかカップルで、一人でいるような猛者はいない。ここら辺一体がスクランブル交差点になったみたいに、身動きがスムーズに取れないほどの人の海に揉まれる。一体こんな田舎のどこにこんなに人がいたんだろう。どこかからリスポーンしているのではと疑うほどに、道中に人が溢れている。普段着も浴衣も色とりどりに、夜空の下を映えさせる。この手が外れたら、私はあっという間に一人ぼっちだ。



「私、潮音と屋台回るけん」


 新夏わかな湊斗みなとに強めの口調でそう言ったのはもう三十分も前のこと。時計の針が午後六時を指して、夏の盛りを知らせたちょうどその頃。後で合流しようという言葉は建前で、事前に一緒に企てをした新夏も乗っかった。


「こっちらは阿波踊り観に行こ」


 いつも通り、デフォルトで高くて明るい声を出しながら湊斗の方を見て、微妙な感触になりかけた四人の空気を引っ張った。私は湊斗の反応を見る間もなく、有無を言わさず潮音のリュックを引っ張って抜け出した。勢いよく歩き出したくせに、すぐ道が分からなくなって結局先導してもらっている。



「可愛いなぁ」


 低めの声が聞こえた気がして反射的に顔を上げると、それは斜め前から歩いてくる中学生カップルの男の子が発したものだった。欲しくて欲しくてたまらないその言葉を、耳は必要以上に拾ってしまっているらしい。女の子が照れたようにそっぽを向いた。二、三個下の二人の会話は初々しくて、同時に羨ましい。


 私は去年まで、夜に出歩くことを許されていなかったから。高校生になって、ようやく友達同士だけで行ってきてもいいよと許可が出た。浴衣は買ってもらえなかったけど、とびきり可愛いと思える私服を着て来た。白いタンクトップの上に重ねたグレーのシアーシャツは、ところどこにビーズが付いていて、マネキンが着ていたのに一目惚れして買ったものだった。普段はロングスカートしか履かない私が、思い切って白のデニム生地の膝上丈のミニスカートを履いて、靴はおねだりして買ってもらった黒のサンダル。今日のために伸ばしていた髪の毛も上げてきた。普段よりも高い位置で結んだ髪が、歩くたびに左右に揺れる感覚がする。


 駅前のスタバ前の待ち合わせ、全員が合流してすぐ「浴衣なんじゃ、似合っとる」と服装に言及してもらっていたのは新夏だけで、私には何もなし。混む前に先に駅前でプリクラを撮ったときも、盛れてるねと笑い合っただけで何も心は満たされなかった。一番欲しい「可愛い」の言葉はまだ、もらえていない。


 カップルとすれ違うときに手を繋いでいるのが見えて、思わず想像してしまった。幼い頃は何も気にせずに繋いでいた手。幼なじみ以上の感情に気づいた頃に、振り解いてしまった手。妄想の中の手はずっと小さいまま、最後に意識した熱ささえももう、今となっては朧げだ。


「あっ」


 右手が幼き日に想いを馳せた一瞬、指先に込めた力が緩む。ちょうど強引に人を掻き分けようとしたグループにぶつかり、指がリュックの布地を滑って離れてしまった。


「潮音」


 声は届かない。私が離したことに気づかないまま、潮音は先に行く。私の前で流れができてしまって、追いかけようにもすぐ動けない。ものの十数秒で、色とりどりの行き交う人々に遮られて見えなくなる。こんなとき、百五十センチしかない身長が忌々しい。ヒールで数センチ高くなったところで何の役にも立たなくて、こんなことならスニーカーで来ればよかったとさえ思ってしまう。


 痛いと一度自覚すれば、それ以外は考えられなくなって足が止まる。前から来る浴衣のグループも、後ろから抜こうとする子供連れの家族も、横を歩く腕を組むカップルも、皆が私に邪魔そうな視線をよこす。街全体にはじかれて空気に馴染めない。異物になってしまった、と立ちぼうけているとき、ポケットの中が震えた。


『@帆南 どこ?』

『はしまきの屋台で待っとるわ』


 ロック画面に表示される、潮音からのメッセージ。わざわざ四人のグループで言ったせいで、私がはぐれたことが二人にも丸分かりだ。


 どうにか足を動かして前へ進む途中、またポケットの中が震えてスマホを取り出すと、続いて現れたのは湊斗のメッセージだった。


『ほなみ、またはぐれたん? いけるん?』


 痛い。胸の奥がぎゅっと縮こまって、息をするたびに鋭く痛む。


『向かいよるけんいける』


 「また」なんて、毎年毎年はぐれているみたいな言い方をする。湊斗の身長が一気に伸びた中一からは、はぐれていないのに。百八十センチの幼なじみを目印に歩くから見失うことなんてない。そうでなくたって、どんな人混みの中にいても湊斗を見つけることなんて容易い。


「潮音、ごめん」


 屋台の横、人の流れを端に避けてスマホを見ていた潮音に声をかける。近づけば流石に気づいて顔を上げたが、相変わらずの無表情だった。


「背、でかくないけんやな、気づかなんだわ。買おう」


 またスマホが震える感触がして、今度は取り出す気力さえも起きなかった。


「湊斗が『良かった』って。優しいよな、わざわざ」


 潮音がスマホを私に向ける。横にいる新夏に集中すればいいのに、中途半端に気にかけてくる優しさが嫌い。


「うん。あの、ごめんやけどやっぱりかき氷食べたい。安いとこ、どこやっけ」


 痛くて痛くて、熱いものよりも冷たい氷で身体中を冷やしてしまいたかった。


「知らんけど、商店街の方とかちゃん」

「ほうじゃ、商店街のあそこじゃ」


 いつ見つけたかはもう定かではないけれど、毎年足を運んでいるかき氷の屋台がある。忘れているはずもないのに、私の脳は無理やり記憶の中に閉じ込めたかったみたいだった。


「移動せん?」

「ええけど、商店街の方行ったらわんちゃんあいつらと会うくない? 俺はええけど」


 全部分かっているのだ、と思った。人に興味がなさそうに見えるのに実はそうでもなくて、友達になれば気にかけてくれる人。誰彼構わず優しさを振りまく誰かよりも、余程いい。


「とりあえずはしまき買おだ」

「え? なんて?」


 ぼーっと意識が飛んでいて、さらにあちらこちらから、かけ声やら和楽器の音やらの音がひっきりなしに流れ込んでくる。そうでなくても今の私は人と会話したいような心境じゃない。ことさら大きい声を張り上げてもらえないと、声を聞き取れそうもなかった。


「チーズ二つ」


 私の問いを無視して、屋台のおばちゃんに二本の指を立てる。私がチーズ好きなのを知ってか知らでか、潮音は何も聞かずに私の分まで注文した。


 潮音もチーズが好きなんだと思いを巡らせかけて、頭をぶんぶんと横に振る。ふとした意識に差し込まれるのが湊斗という存在だから、何か他のことを考えて、そのふとした瞬間を減らすしか心を守る術がない。


「はい、熱いけん気ぃつけて食べなよ」


 元気な笑顔のおばちゃんから湯気の立った熱々のはしまきを受け取る。その流れで、ん、と潮音が私に一つを差し出した。


 渡されるままに受け取って、屋台の裏側のスペースに移動する。そこまでの一連の流れがスムーズ過ぎて、私はお金を払っていないことに気づいて焦った。


「潮音、お金」

「いらん」


 潮音は私の方に目もくれず、ふーふー、と息を吹きかけて大きな一口ではしまきに食いついた。


「ほなけど」


 続ける私の言葉を無視して、潮音は目の前のはしまきにかぶりつく。とろとろのチーズが伸びて、落とさないように舌を出して絡めとった。


 聞こうとも動こうともしない潮音に少しだけ腹が立つ。人に、しかも同級生に奢られるのはなんだか気持ち悪い。むしゃくしゃした気分はそれまでの上手くいかない気持ちと混ざり合って、互いに増長させていく。


「し、お、ん」


 耳元で、大声で、名前を当てつける。そういえば、出席番号順で隣になって「素敵な名前やなぁ」と声をかけた四月の日も、早々に無視されたんだっけ。


 ごくり、と潮音の喉仏が動く。三分の一ほど残ったはしまきをタッパーに置いて、やっと潮音が声を発した。


「俺、自分の名前嫌いだってな、女の子みたいやけん」


 不思議とその小さな声は、聞き漏らすことなく耳に落ちてきた。唐突な話題に困惑しながら、余韻が残るような話し方に耳を傾ける。


「クラス分けの紙に書いてあった名前見て褒めてきたやつがおって、俺それがなんかめっちゃ嬉しかったんよ」


 潮音の目線はチーズを見ているようで、たぶん見ていないんだと思う。私の話かと思って一秒だけ鼓動が大きく鳴いたけれど、すぐに違うと気づく。


「帆南もチーズ、好き?」


 潮音の顔が私を見つめる。目の奥が仄暗くて、その瞳に映る上に装飾として吊るされた赤い提灯の光が揺れていた。「も」の意味を、考えても答えは出なくて、黙ってしまう。


「帆南は、ほんまにええん」


 辺りに漂う夏の蒸し暑さみたいに、重たい声だった。振り払おうとしても、じとりと肌に貼り付いて離れない。


「なにが?」

「湊斗とおりたいだろ、分かる」


 潮音の声はいつも漣みたいに心地よい綺麗な声で、だけど今は一瞬にして命を奪う海の、暗い部分が見え隠れする声だった。


「湊斗は別に、幼なじみやけん何回もまわったことあるし」

「なんやし。ほれでええんかよ」


 鋭い眼差しで見つめられると、また胸が苦しくなって息が上手く吸えない。周りの騒音が一度に耳に流れ込んで来て、それぞれが別々に音を主張する。ばらばらになったBGMに体内をぐちゃぐちゃにされて、音酔いしそうだ。


「新夏と湊斗、どうせ仲良くやっとるだろ」


 それはほぼ答えのようなものだった。隠そうとして空回りした気持ちの答え。今頃二人は私にとっての不協和音に包まれて、二人で座って、連の踊りを仲睦まじく眺めているんだろう。昔から慣れ親しみ過ぎて飽きさえしている夏の音も踊りも、寄り添って観ればきっと特別に変わる。


「どうか分からんでぇ、行って来ぃって」


 友達想いの部分が表れる。無視されたところから始まったけれど、潮音の優しい部分を知ったのも、仲良くなったきっかけも、全部湊斗だった。湊斗は潮音の横にいて、みんなに誤解されがちな潮音の良さを伝えてまわっていた。


「もう手遅れなんじゃ」


 諦めさせたかった。自分も、まだ望みを持たせようとする潮音にも。かき氷が食べたいと駄々をこねる子供の頃に戻ったように、声が滲むくらい叫んでいた。



「私、湊斗のこと、好きかもしれん」


 高校に入って一番仲良くなった親友の震える声がよみがえる。初恋だと、湊斗のことが好きだと打ち明けられたときは、自分のこの気持ちに気づいていなかった。幼稚園の頃から仲が良くて、ずっと隣にいるのが当たり前だったから。


 手遅れだった。湊斗のことが好きだと気づいたときにはもう。完全にキューピッド役になってしまっていた。



「ほんなんまだ分からんやん、みんなあいつのこと好きになっても、選ぶんはあいつやで。俺らが思い込むもんとちゃう」

「分かるんじゃって、お似合いやん。しかも新夏今日告白するって言よったもん」


 手で触れていたはしまきから温度が逃げていく。既にチーズはとろとろではなくなっているはずだ。変なところで時間を食って、一番美味しいときに食べられない。


「ほれならいっそのことはよ行きなだ。湊斗が新夏のこと好きって言よん聞いたんかよ。幼なじみが好きな人の親友なんだったら、相談するはずだろ」


 迷いない真っ直ぐな視線が私を射抜く。その視線は私の心をざわつかせた。


 やめて欲しい。少しでも淡い期待を持たせないで欲しい。私が、湊斗が隣にいるのが当たり前だと思うように、湊斗も思っていてくれたら、なんて。思うだけ無駄だ。結局手遅れで、届かなくて、そうなったときに立ち直れないほど傷つくのは私なんだから。


「ほんなん」

「逃げられん。俺だったら今すぐ駆け出すけどな」


 一度渡されたはしまきを取り上げられる。手のひらに残る僅かな温かさ。完全に冷え切る前ならそれはまだ、美味しいのかもしれない。きっと潮音なら、さっきと同じスピードで二個目を平らげるんだろう。その姿を想像したら、僅かな希望が見えてくる。


 もし、もしもまだ手遅れなんかじゃないんだとしたら。


「ごめん、行ってくる。ありがとう」


 潮音の言葉に背中を押されて、全速力で駆け出した。人が多すぎて、足止めをくらったり、流されて前に進めなかったり、中々思うように進めないのがもどかしい。気持ちだけが急いて、人と何度もぶつかっては謝りながら、必死に足を前に出す。昔から何度も通った道、できるだけ人通りの少ない場所を選ぶ。少し強引に人の間に割り込みながら、商店街の方へ向かう。


 道は分かる。珍しく分かっている。毎年、ほんの少し親と離れて二人でまわるのが商店街の屋台だから。湊斗を想えば、自ずと思い出せた。


 頼むけん、まだ手遅れにならんとって。


 息を上げながらひたすら走った。たった数センチのヒールは踏み出すたびに足元をぐらつかせる。本当にこいつは役に立たない。途中で何度もバランスを崩して足首を捻った。そうでなくても靴擦れが酷いのに、その痛みすら構う暇もないほどに全力を出す。


「どこにおるんだろ」


 ちょうど商店街に着いた頃にはもうへとへとになっていた。着いたのは良いとしても、問題はここからだ。私はこの数多の人の中から、湊斗を見つけ出さなければならない。


 見つけ出す自信も、偶然会える自信もなかった。湊斗と私は、そんな運命みたいなもので繋がっている関係じゃない。そんな奇跡を起こせるはずもない。


 闇雲に歩いても、やっぱり見つからない。身長が人の群れよりも頭一つ抜けているから、湊斗がいればすぐに分かるのに。



「ほなみ、みつけた」


 声を探していた。耳に馴染んだ低い声。昔、人の波に流されて親と、湊斗の家族とも離れ離れになったとき、私を探し当ててくれた声。


 未だ周りの音はばらばらで、そんな不協和音を積極的に耳に取り入れてまでも、湊斗の声を見つけたかった。足はほとんど引きずっていた。心が折れかけても、諦めたくはない。今動くのをやめたらきっと、私は私でいられなくなりそうで。


「かき氷」


 いなければ、諦めよう。確実に湊斗に会える自信なんてなかった。でも、気づけば私の足はそこへ向かっていた。見慣れた景色の中を進んでいく。懐かしくて色褪せない、ここは私の夏の思い出。


 近づくにつれ、鼓動が速くなっていく。屋台にたどり着いた瞬間に、思わず力が抜ける。


「帆南?」


 低い声が心に響く。慣れすぎた声で呼び方で、私の名前が聞こえた。たどり着いた二百五十円のかき氷屋の前に、一人でいたのは湊斗だった。ちょうど、その手には買ったばかりのいちご味のかき氷が一個、握られていた。


 目の前の存在を確かめるように、唇の震えを認識しながら名前を呼ぶ。


「湊斗」


 驚いたように目を丸くして私を見つめて、固まった湊斗に疑問を投げかける。


「一人なん?」

「ほうやけど、帆南もやん」


 なんで、どうして、聞きたいことは色々あるのに、本当に会えた嬉しさに、その言葉の全てがどこかに行った。それと同時に、言いようのない切なさが胸を満たす。


「新夏に告白されたんちゃん?」

「なん、知っとったんかよ」


 間に合わなかった。早口な口調に、噛む寸前の言葉列。ほんのりと赤くなる顔を隠すみたいに持っていく左腕が、全てを物語っていた。


 駆けた分だけ大きくなって、会えた喜びでさらに膨らんだ心の中のピンク色の風船が瞬く間に萎んでいく。足首と、踵や指の横の靴擦れがもう限界だと訴えて、真っ直ぐに立つことさえできそうにない。


「知っとったよ、ほなけん二人きりにしようとしたんやもん」


 痛い、足が、胸の奥が、体中が。必死に動いて忘れようとしていた痛みがぶり返す。視界に入った湊斗の部分が痛くて、俯いて目を逸らす。下を向いた反動で、滲んだ目元から涙を落とさないよう、口元に力を込める。ぎゅっとスカートを握って、「あ」の一音でも出せばこぼれそうになる痛みをこらえた。


「断ったんあほみたいやな」


 耳から入った言葉を理解するのに三秒かかった。そのタイムラグ後にえ、とも言うことさえできずに、呆然とその意味をさらに咀嚼する。その段階でようやく、湊斗の声が投げやりだったことに気づいて、どうしたらいいか分からなくなる。整理できない感情がぐちゃぐちゃになって、私の心をかき乱す。


「断ったん」


 どうにかこうにか震える声で出せたのはそれだけ。ゆっくりと顔を上げて、湊斗を視界に入れ直す。


「ほうじゃ」

「なん、で」


 目を合わせてもらえない。斜め下に投げ捨てられるその言葉を、不協和音の鳴り響く耳でなんとか拾い上げる。どきどきどき、と鼓動が早くなっていく。湊斗の持つかき氷の先端が、徐々に溶けて水になっていく。


「帆南が言わんとって」


 さっきの自分の表情を鏡に映したら、きっとこんな感じだったんだろうな、とふと思う。痛さで呼吸もままならい、苦悶の表情を見せないように努める顔。


「なんでよ」


 いつの間にか目元の熱さは引いていた。湊斗がこっちを見てくれるときを見逃さないように、声も表情も仕草も態度も、全てを拾う気持ちで立っている。


「なんでって、」


 続きがあることを匂わせて、そこで言い淀んだ。決心したように、徐に視線が私に戻ってくる。視線と視線がぶつかり合う。お互いにお互いしか見えないと言いたげな、熱を帯びた強い視線。目を逸らしてしまった方が負けだと感覚で分かった。


「手遅れなんじゃって。俺は帆南のことが好きやのに。こんなに好きにさしといたくせに他の人とくっつけようとするとかやめてくれん?」


 不協和音が正しい音色を奏で出す。聞き飽きたはずのそれらの音がきらきらと輝きながら私の周りを踊り出す。


「湊斗」


 いっぱいいっぱいだった。隠していた想いが滲み出て、何度も呼びたくなる名前をゆっくりと紡ぐ。唇が熱くなって、まるで口づけをしたみたいな。


「潮音のこと好きなんだろ」


 名前しか呼べない私を見て、湊斗の表情が切なげに歪む。その表情は夏の夜空を映して、影が濃くなった。


「私が、私が好きなんは湊斗やけん」


 震えながら絞り出して、そっと告げる。胸の中で育てた、ときに目を逸らしたくなったり、反対の行動ばかり引き起こしたりする不安定な感情を確かなものにする作業だった。


「なんで、可愛いも言ってくれんかったでぇ」

「今年だけめっちゃ気合い入っとるけん、抜けたいとか言うし潮音が好きなんかなって思ったんじゃって。可愛いに決まっとるだろ」


 手に持つかき氷と同じように、湊斗の顔が崩れていく。


「ごめん、気づくんが遅うて」

「ううん、ありがとう」


 手遅れなんかじゃなかった。顔を見合わせて、赤く染まって涙でぐちゃぐちゃの顔を見つめ合いながら、照れ臭さでお互いに笑う。人の波に押されそうになって、差し出された手を握る。手の熱さと熱さがぶつかる。幼かった手は私よりも一回り大きくて、指が太くて、記憶が上書きされていく。


「かき氷、買おか」


 声が記憶の声と重なる。はぐれて一人ぼっちになって、人の流れに空間ができるほど、手もつけられないくらい泣きじゃくっていた私。かき氷が食べたい、と泣き喚いて、そんな私にかけてくれた声。


「ううん、ほれ溶けかけやけん一緒に食べよ」

「おん」


 戻った家族に繋いだ手を見られるのが恥ずかしくて、あの日振り解いてしまったけれど、やっと繋ぐことができた。


 ほおが熱い。心臓がうるさい。鳴り止まないぞめきの音が、この夏を弾けさせる。


 ブブ、とポケットの中が震える。スマホを取り出すと、新夏からメッセージが届いていた。


『振られた、帆南だったら私叶わんわ。初恋、応援してくれてありがとう。湊斗と合流してたら教えて』

『合流、したよ。ごめんね』


 既読が付いて罪悪感に胸が押しつぶされそうになって、三秒。送られてきたのは大きなハートのスタンプだった。ぽぽぽん、と五個ほど連投されて、おめでとうのスタンプが続く。ブロックされて、永遠に返ってこないんじゃないかという心配すら、吹き飛ばすほどの勢いだった。


 潮音探してみる、という新夏の返信に胸を撫で下ろして、湊斗の顔を見上げる。


「どしたの?」


 新夏とは明日話そう。画面の向こうはどんな顔をしているか分からないけれど、潮音に任せられるなら今日は安心だ。だから、今は親友にありがとうの気持ちを込めて、湊斗に浸っていよう。


「んーん、好き」


 満面の笑みを向けて言うと、提灯よりも真っ赤に湊斗の顔が染まっていく。耳まで真っ赤、と言おうとして口を開ける直前、湊斗が真顔になって私を見た。


「帆南、足いけるん?」

「実はもう歩けんぐらい痛いわ。てかよう気づいたなぁ」

「ほんなん気づくに決まっとるやん、いっつも帆南のことばっかり見とるんやけん」


 きっと、私も同じくらい赤くなっているんだろう。


 こうして私も、この夏の夜の阿呆たちの中に紛れた。

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阿呆たちが集う夏 朝田さやか @asada-sayaka

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