5月の晴れ
おっさん
第1話
「おかえりなさい」
「うん…」
「食事は?」
「もらおうかな」
調度、食べかけだったサラダを半分取り分けて、小皿にのせた。
「ごめんね、ビール、飲んでる」
肉や魚はお歳暮で届いた冷凍済みを適当に焼いて、大皿に流して、菜箸を置く。
「けっこう、新鮮」
手の込んだ夕食なんて、作ってられない。
子供たちは去年、そろって家を出た。
長男は一浪、次男は現役でそれぞれ他府県の大学へ入学。
入試は家族の一大イベント。
進路相談、塾の送迎、受験当日の緊張、ストレスの連続だった。
幸い、二人とも学費のそこそこ安い国立大学へ入学してくれた。
仕送りは負担だが、ダブルインカムの家計に打撃を与えるほどではない。
夫婦が会話するのは時間のずれた夕食時だけだった。
「明日は?」
「早く帰れる…はず」
結婚記念日と誕生日とクリスマスとバレンタインデイは忘れてほしくない。
男にとってはどうでもいいことが、女にとってはそれぞれが必要な行事ごと、である。
明日はなかでも最も大事な「結婚記念日」だった。
長井武は妻、泉の気持ちにしっかり答えるから、空の巣症候群は他人事だと思っている。
もちろん、プレゼントも忘れてはいない。
毎年、パティシエが豪奢なケーキを自宅まで届ける。そうした贅沢の一方で、残り半分のローンが頭をよぎることはあるが、まだまだ働ける自信はあるし、夜勤のキツさも乗り越えられると思っている。
泉はお産前後に休みをとったくらいで、基本的に常勤の枠を外したことはない。多くの同級生が子育てに没頭し、非常勤に変わるのを
間近にみながら専業主婦の母親を反面教師として、働き続けてきた。
両親の手はなるべく借りたくない。
親であっても家に入りこまれるのは嫌だ。仕事に穴を開けられない時、子供を預かってもらうのにさんざん利用させてもらったが、お泊りはほんの数回だった。
「おばあちゃんの料理って変」
二人ともそういって泊まるのをいやがったし、古臭い家庭料理が口に合わないのは、泉の料理が適当すぎて味覚が添加物で障害されたかも、と反省している。
泉の母親は典型的な昭和の専業主婦だった。
男の評価を学歴と収入で決める、世間知らずの女だった。
医者の夫と大学病院で知り合い、開業とともに看護師を辞め、3人の子供たちを医者にするため、ひたすら家事、育児に専念した。
世間からみれば、平和で裕福で幸せな一家だった。泉を長女に、下は長男、次男といずれも希望通り、医者になってそれぞれ家庭を築いてる。
孫は合計7人。
うっすら暑苦しい気もしていたが、その母の誇りのなかで泉もまた医者の夫と結婚し母の目論む家庭を営んでいた。
夫、武の実家は豪農を先祖にもつ、いわゆる地元の名士の類に属しており、大抵そういう人間は村や町の議員に推せられ、実際、彼の父親も村議会議長職に20年近く携わっていた。
男二人の兄弟で、実家はすでに長男が継いでいた。次男の気楽さと自頭の良さで、武は実家の縛りから離れ、都会に行くことができた。
「泉さん、旦那とやってないの?」
「なにを?」
「いや、だから、これ」
三高墺はシーツをめくって、下半身を目で指した。
息使いが消えて10分程寝落ちした後、余韻に浸り泉はそのまま目を開かなかった。
「ないよ」
「そうなんだ」
墺は微かに笑って、シーツをかぶった。
「次、どうすんの」
「次?」
ふと来週、会う男の顔が浮かんだ。若いこいつとは違った、それなりに円熟した男だった。
「そうね…」
「明日でもいいよ、オレ」
「こんなおばさんと、しょっちゅう会ってもしょうがないでしょ」
墺はまた笑った。しかしすぐに嘆息した。
「おカネ、足りてる?」
「うん、良いバイトみつかったから」
「ほんとは足りてないでしょ、5万にしようか」
「いらない」
語気が強い。
私は起き上がって、床に散らかった下着を集め、軽く首を屈伸させると、
「時間ないよ」
と彼の膝をゆすった。
武は当直で、家は空いたままになっている。
今日は検査業務だから、そんなに忙しくはないし、もう少しここにいてもいいのだが、それより家でゆっくりコーヒーを飲みたい。
「じゃ、これ」
私は財布から3万円を取り出し、床のジーンズを拾い、折りたたみながら、折り目におカネを入れた。
墺はありがとうとはいったが、どことなくそっけなかった。
「そろそろ就職活動だね」
企業面接が解禁になったとこの前いっていた。体育会系で明るい性格だから面接の印象も悪くはないだろう。それなりの企業に就職してくれると思ってる。
相変わらず、機嫌を悪くしたのか、黙っている。
母子家庭に生まれ、中学卒業後、高校には進学せず、5年間土建業で生計を立てていたが、親方に説得されて大検を受け直し、なぜか勉強に目覚めて法学部に入った。
生活保護世帯とそう変わらない、ぎりぎりの家庭で、奨学金を含め、いろんな免除は受けられたが、それでもお金は足りず、退学の二文字がよぎったところに、バイト先のコンビニで泉と出会った。
当時、墺には彼女がいたが、何度もそのコンビニを利用するうちに、飲みに誘われ、そのまま暗闇に着いていき、ホテルに入ってしまったのだった。いまでも、そんなこと、あるか、と我を疑っている。
それが1年前。
子供たちを大学に送り出してすぐだった。
武と出会う前に関係した男は二人だ。
男慣れも何も、特別な罪悪感もなく、夫以外の男と関係をもってしまった自分を振り返ってみたがよくわからない。
咀嚼できていないが、かといって不安もない。
それどころか、もう二人、身体を預けている男がいる。
ふしだらとか淫乱とか、そういう罵声が頭の中によぎっても、なぜか聞き流せる。
考えるより自然なのだ。
静まり返った家の中で、お湯を回して入れたコーヒーをゆっくり嗜む。カフェイン中毒はわかっているが、仕事前の一杯を止めるわけにもいかず、ごまかしたようにマグカップのフチが満ちるまでお湯を注いで薄めの液体を作った。
それでも頭がすっきりしない時はトイレを覚悟に2杯目に突入する。もう、子供たちも巣立ったのだから、塾の送迎も金輪際することはないのだから、依存性物質の力を借りずとも生活を立て直すべきなのだが、休日にカフェインレスを実行した翌日の頭痛に耐えられず、やはりフィルターを洗って豆をミルしお湯を注いでしまう。
一度飲めば、次の日も止められない。
そんな私をみて、武はしょっちゅう苦笑している。
いや彼も同じ、カフェイン中毒なのだ。しかも彼にはカフェインレスの休日がない。気にもせず毎日、コーヒーを飲んでいる。
薬理学で習ったはるか昔の知識を蒸返すまでもなく、それが身体に悪いとわかっていても、諦めたように、自ら進んで中毒になっている。
やっと1日が終わった。
この年になると、雑務をこなすのは手際がよくなるが、電子カルテのせいで目の疲れがなかなかとれない。
同級生の眼科医から習ったマッサージ法を試してみたものの、効果は微妙だ。痛みは眼精疲労じゃなくて、ひょっとしてカフェインの離脱かもしれないと頭に浮かべつつ、めんどくさいくらい離れた駐車場まで速足にて向かう。
武は当直明けで、すでに帰って、ぐうすか寝ているはずだ。
機嫌がよければ食事の準備をしているかもしれない。昼の弁当が思いのほか不味かったから、半分も口にはいらず、夕食のワインが待ち遠しかった。
「おかえり」
「ただいま」
「生ハムあるよ」
「マジ!うれしい」
ということはワインも仕入れているはずだ。
「ワインキッチンに行ったんだ」
「珍しく、寝当直」
よく行くワインショップには時折、イタリア直輸入の生ハムが置いてある。
「フルボディーは重いから、ピノにしたよ」
「2杯で我慢できたらいいけどなぁ」
ふたりともそのつもりなのだが、結局、1本空けてしまう。
ベビーリーフにカテッジチーズを散らして、新鮮なオリーブオイルをかける。生ハムは大皿にのせて、何列も横に並べてちょっとだけ粗びきの黒コショウを振る。ミニトマトはヘタをとって面倒だから洗ってそのまま、小皿にとりわける。
子供がいた時は、こんなメニュじゃ、自分にも、他人にも、叱られていた。
私にはこんな幸せがあるのに、なぜかほかの男に抱かれている。
そして後悔も、謝罪もない。
彼のことは頼もしく思っているし、良い旦那だ。
子供が巣立って後は、財布は別にしているし、ローンは彼が払ってるから、日常の雑費、税金を除けば後は私の自由に使えた。それで文句もいわれない。
「明日、飲みに行っていいかな」
「どうぞ」
誰と?なんて野暮さもない。
私に興味がない、無視、とかではなく、自信と余裕が妻への詮索を押しとどめているようだった。
「大雨になるらしいから、気をつけて」
もう、おわりか、と、ワインボトルの底の澱がぐるりと1回転したのを見て、武は大きなあくびをした。
「じゃ、お休み」
最後の一杯を喉に流し込み、武はシャワーに向かった。
ゴロゴロと、うがいの音がなる。歯磨き粉をペッと落とし、それを流す水道水の音が扉を越えて届く。
後片付けは私の役だ。とはいえ私も眠いので適当に洗って、あとは週2度やってくるヘルパーさんに任せよう。
待ち合わせは街はずれの、居酒屋だった。男の名前は佐々木紘一、年齢は私より2歳下の43歳。ウチと同じ、子二人の4人家族だ。つまり互いに不倫モノ同士である。知り合った場所も、実はここで、結局それがいまだに待ち合わせ場所に固定されている。
彼は役所勤めのいわゆる、小役人だが、もともと司法試験を目指していたとのことで、K大学法学部と高い学歴、のようだ。なるほど話していると教養を感じる。が、弁護士になれなかったルサンチマンが強いのか、法曹界の暗部を事細かにののしる時があって、やはり小役人の性が染みついている。
私と話していると、「同じレベル」だから楽しいのだという。役所の臨時職員だった奥さんとは、世間話以上の高尚さは望めないそうだ。別にうれしくもないが、価値基準がその方向にいくのもなんとなく違和感を感じる。
うちの旦那に比べたら、あんたなんて…
なのに、今晩はコイツに抱かれることになっている。
「大将、この日本酒、僕でも飲めますね」
酒はめっぽう弱い。弱いくせに私に合わせているのか、ようやく好きになったのか、日本酒を一杯だけ飲む。その他、ビール、焼酎の類はまったく飲めない。
私は何でも屋なので、大抵ここではビールを3杯くらい流し込む。
会計はいつも割り勘。役所の給料じゃあ、贅沢もできないとこぼし、悲しそうな目で男の不甲斐なさを表現する。
年収でいったら、そりゃ私の方が3倍近くもらっているかもしれない。だがそういう気遣いはさせないように、割り勘。それでも彼にとっては痛いはず。
知り合って、4か月、会うのは月に1回程度。
カウンター5席、テーブル二つのこじんまりした居酒屋で、あくまで友達同士が時々飲みに来る、設定で店の主人には軽い演技を施して、それがバカバカしいけど、不倫同士の免罪符になっているかもしれない。
「学生運動ってあったじゃない」
突然、話が飛ぶ。
あまり吸ってほしくないのだが、小役人はたばこを吸う。
私に遠慮して、行為が終わった後、一本だけ吸う。
そしてすぐ歯を磨いて、ニオイを消す。
「うちの親父世代くらいかな、団塊の世代っていうの。この前、おまえ、二十歳の原点って本、知ってるかと」
私はうつらうつらしながら、さっきの居酒屋の酔いがとっくに冷めているのにもう年なのか、異様なだるさを背負いながら、どうにか話を聞いてあげる。
二十歳の原点、聞いたことない。
「あの時代、自殺が美化された感じでさぁ、三島由紀夫とかもそうでしょ」
それからも色々話してはいたが、うーんと聞くふりをしながら脳を休めているずうずうしい自分。
話題には事欠かない。確かにね。でも私、もう眠い。
「…でやっぱりボクが思うに、左翼の過激化って…」
お腹が張ってきた、トイレに行かねば。
私はシーツをめくり、まだ臭いの立ち込める灰皿の置かれた安っぽい応接セットのテーブルを避け、トイレの扉を開けた。
便座に座りつつ、もしもこの男が、互いのパートナーを捨てて、一緒になろうと言い出したら…ふとそういう考えが頭をよぎった。
私がおごっているわけでもないけれど、女心を察知できないから、そういうことをいいかねないとも考える。特に別れ話を持ち出した時とか、泣いてしがみつきそうな気がする。
「左翼って、日本赤軍とかの」
「そうそう、あの立てこもり事件、どんどん過激化して世間を震撼させたらしいね」
その関連書籍を数冊読んだらしい、にわか仕込みの知識を佐々木は30分程開陳し、私もない知識をしぼって相手にしてあげた。
なんでこんな退屈な男に抱かれるのだろう。
途中で胸をまさぐって、ビクッと身体を震わせた私にもう一度挑むのかと思わせる、軽率な笑いを佐々木はみせた。
「そろそろ…わるいけど」
12時を過ぎていた。
ここからタクシーを拾って帰るのに30分かかる。
1時過ぎに寝て、と翌日のスケジュールを頭の中で確認し、外来患者が50人を越える日なのに、なんで今日会ってしまったのかと後悔する。
佐々木が今日しか開いてないとかいうから。
「泉さん、次はいつ会えるの」
「確認してからね」
その時、小学生が買ってもらえなかったおもちゃを、ねだるようないつもの目つきをして私の肩をゆする。
「必ず、メールちょうだいよ」
今日で3回目、なんとなく重苦しい関係になってきた。
べつに別れをいう必要もないだろう。会いたくなければ無視する。
午後2時前、ようやく外来が終わり、お昼の時間だ。
朝は眠くなるからコーヒーのみ。
お腹がすいた時、用に、チョコレートをポケットに忍ばせてあった。
よせばいいのに、4つも食べたから、今頃になってさほどお腹は減ってないことに気づく。
「先生、お隣、いいかしら」
売店や駐車場前の弁当屋はすでに売り切れていたから、しょうがないとデスク奥の、賞味期限間近のカップラーメンを取り出して、ネズミのように啜っていた時だった。
仲の良い看護師、鈴木春奈がいつもの丸っこい笑顔で背後に立っていた。
「どうぞ」
「どこもかしこも老人だらけで…」
まだ子供が小さい3人の子育て中の彼女は、自分がその仕事に就いているくせに、「老人医療反対派」だ。
老年期外来なる、ようは認知症や介護保険、はたまたライフプランなどの相談窓口があって、今日はその担当医師についていたのだ。
「医者のくせにこんなもの食ってと思ってるでしょ」
「お手伝いさんいるなら、弁当、作ってもらったらいいのに」
「そうもいかないんだよね」
パワフルな彼女は同じく看護師として働く、旦那の分まで弁当を作っている。
さすがに、溺愛パパが娘につくるようなキャラ弁みたいなのは見たことがないが、たんぱく質、糖質、野菜とバランスよくいつも感心する。
「春奈はすごいよね、尊敬する」
「先生は子育て終わったんだったら、自由でしょ、お金もあってうらやましい」
「春奈もあと少し頑張れば、子育て終了だよ。私は好きにしてるよ」
「へぇ、どんな、テニスとか、エステとか。そういえば最近、綺麗になった感じだよね」
家庭の雑事に忙殺されて、爪のささぐれや洗剤のあかぎれが手に跡を残す彼女は、もとは皺もなく、たいそうなアイドルだったはずなのに、と、ちょっと同情した。
さすがに鋭い頭脳の彼女は、私が変わってきたことをさっと見抜く。
「旦那さんも素敵だし、いうことないね」
いくらわざとらしくても、ここで肯定したら、嫉妬を招く。外来課長の彼女は看護部長のお気に入りだし、看護師を敵に回しては仕事ができない。
仲がいいようにみえて、嫉妬の世界は後々気まずい雰囲気を作るから、
「子供がいなくなると、ただのお荷物よ、お互いに」
と夫を卑下し、さも家庭生活は退屈だと思わせるように、ため息をついた。
「ふーん、そんなもんなんだ。お金持ちにも色々悩みがあるんだね」
残り汁を一口だけ飲んで、割りばしをカップに突っ込み、私は席を立った。
「先生、午後もがんばってね、今度飲みに行こう」
「そうね、是非」
子育ての悩みを聞くのは、もう遠慮したい…本音はそうおもいつつ、私はしっかり笑顔を作った。
第3の男、これは強烈で、すごいお金持ち。
とある企業の会長さん。
どこで知り合ったかって?出会い系ではない。
本人がSNSで発信しているところに、ダイレクトメールを出してみたのである。
もちろん、無視されると思っていた。
そこそこ有名人だったし、芸能界の知り合いも多くて、ネットの画像には、有名俳優、歌手、はたまた、スポーツ選手まで誰もが知っている御仁たちがゾクッと並んでいた。
(42歳、女医です。貴方、さびしそうなのでメールしてみました)
(お、これ、つり?)
(確かめてみれば?)
(マジ?)
子供相手のつたないやり取りが現実になった。
待ち合わせは貧相なビジネスホテルのラウンジだった。
おそらく、ネットでつったカネ目当ての、性別もわからないアホな輩とでも思っていたのだろう。
私は時間通り着いたが、彼はなかなか現れなかった。
赤いショールが私の目印だった。
あと5分待って、来なければ席を立とうとした時、
「お待たせぇ、すいません」
58歳だときいていたが、見た目も素肌も、40代にしかみえない。
ほつれの目立つソファーを引いて、その男は息粗く座った。
多分、遠くから、あるいは先にきて、私のことを見張っていたと見える。ひょっとしたら子分かなんかに指示して、怪しいヤツがいないか確認したかもしれない。
名前は鳥飼剛、芸能人みたいな名前だが、本名らしい。
私自身も彼が本物か、当初はわからなかった。SNSの写真よりずっと若かったし、なにをもって本人か確認することができなかったが、ホテル内の人気のない和食屋で会話をするうち、どうやら、ニセモノ、ではないらしいことを認識?した。
会計時の、ブラックカードがとりあえずの決定打だった。
「泉さん、何科のお医者さん?」
「糖尿病内科です、鳥飼さん、芸能人のお知り合い多いんですね」
「ああ、あいつら?勝手に寄ってくるだけよ、お金でしょ、結局」
「結婚?もちろんしてるよね」
「してます、最近まで子育てして、今はゆったりです、あ、仕事は忙しいですけどね、鳥飼さんは?」
「ネットに出てると思うけど、3年前に離婚して、今はさびしいおっさんですよ」
あらかじめ、情報は仕入れていた。
というか有名人を調べるのは簡単だった。
もとの奥さんはモデルで、20も下の人、子供は4人いて、今はアメリカに住んでいるらしい。当時は週刊誌でわりと話題になったようだ。で、この人、3回の離婚歴。
最初の奥さんとは子なしですぐ離婚、前の前の奥さんとは二人の子供で、最近の離婚で合計6人、養っていることになる。
「どっか、もっといい所に行きたいけど、ゴメンね。週刊誌がおっかけてきたら、泉さんに迷惑かかると思うから」
私の年齢からして、パパ活ではないし、ただの友達と思われて、問題にはならないと思うけど、どうやら散々、マスコミにいじめに会って警戒心が強い。
客はまばらで受付のおじさんは萎れていて、滅多にでてこない。
「コーヒーでも飲みましょう」
朝食会場を兼ねた1階のレストランのおばさんが安っぽいコーヒーを運んでくれた。
で、その後、どうなったか。
いきなり彼のセカンドハウスに行くことに…
それもだいぶ遠方の、こんなとこ、絶対だれもこない、って所。
彼の、安っぽい国産車で地下の駐車場に入ると、裏のエレベーターに乗って、10階のおそらく最上階の部屋へ行きつく。
「酒、まだあるかなぁ、つまみはっと」
ようするに連れ込み部屋だね、私はそんな扱いかぁ。
段々、気持ち悪くなる。
が、不安もつかの間、鉄さびのついたドアを開けると、中は綺麗に掃除されていてゴミ一つない。しかもだだっ広い。
「あ、あの気にしないで、襲わないから」
世間ではパワーカップルと呼ばれるドクター同士のウチでさえ、年に1回も飲まないような凄いシャンパン、ワインがこれでもかぁと出てきた。
ちょっと待ってよ、これ。
大金持ちは違う…
「前は芸能事務所、やってからさ。今は子分に任せてるけどね。ツマミがないから注文するね、何が食べたい?」
「いえ、私は…とくに」
「じゃ、肉くおうか、夜から重いかなぁ」
「あ、ぜひ、それで」
鵜飼は頬に皺のよったいやらしい笑いを浮かべた。
こいついろんな意味で飢えているな、的な…
気持ち悪いから逃げちゃおうかな。
が、思いのほか話は弾んだ。
知らない世界は面白かった。時に、虚栄心を交え、会長さんは饒舌に語る。
「…でね、芸能人って作り物なのね。素はダサい。
どう作りこんでいくかが事務所の役割。
成形は当たり前だよ。歯の矯正、後は目かな。
韓国でやってもらうことも多い。あっちは伝統文化。
……つうかぁ、最近、ほら、コンプライアンスってうるさいでしょ、とくに公共放送とかね、だから薬とかギャンブルとか身体検査は細かくやるよ。事務所が守るにも限界はあるからね、辞めてもらう場合、ほらぁ、あったでしょ、アイツ、ホント、アイツには…困ったもんだよ」
声の調子が中学生と変わりない。
時折裏返って、つうか、とか、ッつうんだよ、みたいなやんちゃ少年の言葉使いが差し込む。
彼はテレビ、その解雇した某芸能人の名前を繰り返して、テーブルを叩いてリズムを立て、ガバッとワインを飲みほし、「あのやろう」といった。
売春か、なんかで、逮捕されたとかいう、あの俳優か。
「つか、旦那さんとはうまくいってるの、泉ちゃんは」
酔いもまわってきた。いつの間にか私は泉ちゃんになっていた。
酒はそんなに強くないようだが、この男、顔全体がもともと赤ん坊のようなピンクで、酔ってるのかわからない。
しかし年には勝てないのか、やたらとトイレが近い。そこから帰るたびに口臭スプレーのミントが漂うのが、変に期待しているようでちょっと笑う。
「あ、もうこんな時間、ヤバくない?」
何がヤバいのよ。ヤバいのはアンタでしょ。
そろそろ帰らねばと思っていた矢先、金ピカのたいそうな腕時計をわざとらしく振りかぶって、彼は時間を見た。
「もうすぐ12時だから、明日も仕事でしょ、泉ちゃん。タクシー呼ぶからさぁ」
確かに襲われなかった。
高いお酒を自らサーブしてくれて、気遣いも良かった。
「俺の周り、チャラい女ばかりで、この年になると、つまんねぇからさぁ。泉ちゃんみたいな人と会話できてとっても楽しかったよ。また会ってよ」
コーヒーテーブルを前に床にあぐらをかいて、随分、食べ散らかしたなと反省したが、
「あ、大丈夫、明日、掃除の人くるから。そのままにしておいて」
と彼は私の手を止めた。
「送るね」
食べ散らかした、テーブルの上を線をひくようになぞってグラスを引き寄せ、最後のカンパイをした。
玄関に迎い、ヒールの止めボタンのために屈もうと、足を曲げた時、ふらついて思わず、彼の胸元に寄りかかってしまった。
「オッと」
抱きかかえ、立たせようと彼の手が私の胸に触れたが、何も起こらなかった。
警戒はゼロにみえた。
しかしその瞬間、彼は首を軽くねじるようにして、くちびるを近づけてきた。
少しだけ触れた。ミントの臭いがきつかった。
しかしそれ以上進むことはなかった。
確かに約束通り、彼は私を凌辱することなく、
「またね」
と手を振った。
3人の浮気相手。不倫、淫乱、なんとでも。
子育てが終わり、夫と二人の生活。
仕事もそれなりでカネに困っているわけでもなく、なのに、男を追い求めている。
突然、(多分)性欲に目覚めたわけでもなく、知り合った男達に身体を預け、後悔はゼロ。
これをどう解釈するのだろう、生活に飽きたから?
それはわかりやす過ぎる。
哲学はいらない。脳みその無駄使い。
「学会、行ってくるね」
九州のある地方に、体よく、学会が開催されていた。
この業界では学会は気晴らしで、知見を仕入れるというよりは小旅行の意味合いが強い。特に他府県に行くときはなおさらそうだ。
3泊4日、木曜日から日曜日にかけて、家を空けることになる。
「お土産とか、いらないからね」
酒に合うかと思って、2年前に買った、シジミの佃煮は醤油がきつすぎてゴムに止められて冷蔵庫へ放置、ほどなくゴミ箱行きになった。
空港で買うような安易な土産ものは、学会で地方に行き慣れている者にとってはたいしてうれしい物ではない。保存用の塩っ気や着色料がどうしても目に付いてしまう。それでもめずらしくて時々、勢いで買ってしまうが、口にしてみるとやっぱりハズレが多い。
職場宛てには宅急便で、甘い物、せんべいの詰め合わせを3個くらい送れば十分だ。
旅行に連れていく男、都合が付きやすいのは学生の彼。
二つ返事で承諾。
新幹線で待ち合わせた。
駅で焦って、手をつながないように指定席でそれとなく、横に座る。
ニッコリ笑った、三高君の頬をちょっとつねってあげる。
やっぱり旅行は誰かと行く方が楽しい。
昼の観光も1日、空けてある。
知り合いに会わないように、誰もいきそうにない、「日本胃カメラ検診学会」を選んだ。
テレビ中継や雑誌によくのっている、お城や街並みでも、若い子はきゃっきゃと喜んでくれる。
「近くでみると、案外小さいかぁ」
改修中と立て看板のある、桝形門の前で二人で写真をとった。
親子、には見えないが、姉と弟というにもずうずうしい。
「予習したんだ」
と、杯を重ねるごとに旅行先の、小歴史を披露してくれた。
私はなるほど、と感心しながら、彼の笑顔をみるにつけ、来てよかったと気持ちは弾む。
毎晩、盛りの付いた動物のように、シャワーも浴びずにベッドでもみ合い、貪った。2回も3回も、愛し合った。まるで陰獣だった。恥ずかしげもなく肉体をいじめ合う、けだものだった。
日曜の午後、自宅に戻る。武はいなかった。どこかに昼飲みに行った、あるいは最近また復活したゴルフか。
荷物を置いて、ソファーに深く背をもたれ、バックからスマホを取り出す。
{着いた?}
すぐに返事がきた。
{ありがとう、一生、楽しかった}
と例の写真が添付されていた。
あぶない、あぶない。
寂しいけど、すぐ消す。
なんでこんなおばさんに夢中に?なるの。結末はわかってるのに。
かの小役人、佐々木…段々、疲れてくる。
会う前から決めてはいたが、自分の躊躇より、相手の出方が怖かった。しかしもう決心はかわらない。
「上の子が高校を卒業したら、僕と一緒になってくれないか」
といつものタバコの後、彼がポツリといった瞬間、終わりって言葉が胸の内に湧いた。
つまらない男だと蔑む気持ちが心のどこかにあって、本当は前から決めていたことなのに、無理に気づかないふりをしていただけだ。
同情、惰性…でも女はいったん嫌になると、もうダメだ。
役人の興味は第一に人事らしく、口を開けば2年に1回移動になる部署の人間関係である。
医療界の私にとってはわからない世界だし、なんでそんな小さなことで気力を無駄にするのか不思議に思う。
「同期で先に課長になったヤツなんかね…」
出世に一歩遅れた愚痴が始まった時だった。
「あの…そろそろ」
「ゴメンゴメン、こんな時間」
「それと…」
「え、何?」
今の妻と別れて、一緒になる、ことを承諾するとでも思ったのか、佐々木は随分余裕をもって、隙間の開いた黄色い歯をみせていた。
どこまでも鈍感なヤツ…
「今日で終わりにしたいんだけど」
「ん?」
「今日で終わりたい」
「終わるって…」
は、もうメンドクサイ。
「出よう、とりあえず」
私の冷めた声にも、未だ事情が呑み込めていないようだった。
タクシーに乗り込む時、佐々木は相変わらず、
「またね」
と手を握ろうとした。私は急いでそれを引っ込め、
「本当にさよならなの、わかって」
と運転手が手際よくドアをしめてくれたのに合わせて、ガラス向こうの佐々木に思いっきり、はっきりわかるように手をふった。
暗闇でテールランプに照らされた佐々木が、本当に小さくなっていった。
つまらないヤツ…
スマホのアドレスをすぐに消去した。
2度と会うまい。
「今日、職場に変なヤツがきてたよ。佐々木とかいうやつ。名刺もらったけど…」
背筋が凍りつく。
「昼寝タイムが始まる時に呼び出されたから、ぼーっとしてちゃんと聞いてなかったけどさ。キミをください、奥さんと私は相思相愛なんです、とか訳の分かんないこといってた。顔を真っ赤にして酒臭いし、大声で騒ぎだすものだから、病院の警備を呼んで。多分、今、警察に居るんじゃないかな」
「ごめんなさい」
明日は忙しいのでと、二人とも酒のない夕食をすまし、映画でもみようかとくつろいでいた時だった。
「なんなの、そいつ。いや、別にいいんだけどさ」
妙に達観した言い方がかえって怖かった。
全部知ってるような、この年になって、浮気がどうのと咎めるつもりもない、とでもいいたげな。
(実はね、俺も)
武がそういうのではないかと、勝手に表情を読んでいた。
しかし彼は気にせず、リモコンのボタンを押して、「アットフリックス」の中の、オリジナル番組を選択していた。
3人の男と遊んでいる私、覚悟をきめていたわけでもないし、子育てから離れた解放感でもなし、もともとそういう、好きモノだったのかもわからず。しかし夫に気づかれて、ようやく罪悪感が芽生えた。
「話があるの」
武はとぼけたように振り向いた。
「みたいのがあるなら、ほれ」
と彼はリモコンを手渡そうとしたが、
「違うの、私…ごめんなさい」
「いいよ、いいよ、なんで泣くのさ」
おもいきり、怒りをぶつけられた方がラクになるのに。武は、あくまで事態を把握していない、またいつもの更年期障害か、とも、考えたように、普段使いの声を変えなかった。
「俺にも秘密はあるから。もういいじゃない、それでいいじゃない」
泣きだそうにも泣けなかった。似た者夫婦ということか。
どこまで知ってるの。
私の「遊び」をとっくに知っている素振りだった。
「おやすみなさい」
子供たちが中学に上がってから寝室は別である。
2階部屋の朝日の入る、6畳のベッドルームに私は戻る。彼は1階の和室か、そのままテレビのソファーにタオルケットをかぶって、寝る。
罪悪感がようやく顔を出したのに、なぜか寂しい夜になった。
「泉ちゃんって、だんなとはどこで?やっぱり職場、だよね。そりゃあ、そうだ。お医者さんだから、そうだよね」
鵜飼は先日の秘密のマンションで、今度は周到に準備したのか、食材を買い込んで壮大な準備を施していた。
「冷蔵庫にカルパッチョ、あるでしょ」
バジルの緑、ピンクペッパーの赤が、幾何学模様を描いて薄切りの鯛の上に散っていた。
「ワサビは作るから」
彼はおろし板を使って、こぎみよく擦っていた。
おっさん、料理できるのか。
「タレは、えっと…」
誰かが下準備はしてくれたのか、あらかじめ分量を取り分けた小皿を鍋にいれて、酒と味りんを大匙で追加し、軽く火をかける。
「ローストビーフにはこれでしょ」
すでに赤ワインを1杯飲み干していた私は、
「すいません」
といいながら、
「いくらでも飲んでよ」
という彼の言葉に甘え、図々しく手酌で高級ワインをついでいた。
「さて、できあがり」
これじゃ、女は落ちるなぁ。
この前、佐々木の件があったばかりなのに。
鵜飼のメールに遠慮なく、応じた。
「若い頃はねぇ、さんざん遊んでねぇ、だけどほら、50過ぎると、落ち着くじゃない。なのに、子供たちと疎遠になっちゃって。自分勝手でどうしようもないんだけど、この年になって子供たちに無視されるってやっぱ、つらいよ。みんなママの味方だからなぁ」
「今からでも、遅くないと思いますよ」
「そ、そ、かなぁ」
おっさん、もうすぐ60なのに、言葉使いが中学生だ。ちゃん、付け、も正直、ムズかゆい。
これも長年芸能界に身を置いて、若い子たちと遊んできた慣習だろう。
子供から尊敬されないのは自業自得だて。
が、ワインがあまりに美味しいのでゴマをする。
「泉ちゃんとこは?」
「うちは…二人とも、医学部で…」
「あー、やっぱ、そーなんだ。偉いなぁ、凄いなぁ、賢いなぁ」
「でも鵜飼さんみたいにおカネ…ないですから」
「そんなこと、俺なんて、はぁあ、離婚しなきゃよかった。さんざん遊んだのに、今頃、さびしいってね。勝手なもんだ。慰謝料たんまりとられてるけど、子供たちは会ってくれない」
鵜飼は胸の奥から吐き出すようにため息をついた。
「泉ちゃん、俺のことどう思う」
いや、あの、なんていうか。
そんなキツネみたいな目つきでいわれても、ちょっと怖いし。
ま、でも。
しょうがないので、私は…唇を寄せた。
鵜飼は黙っていた。
唇を寄せた後も、深く考えたように中々目を開けなかった。
「オレ、泉ちゃん、好きになっちゃったよ」
「アリガと」
こうして第三の男と、寝た。
「ママは?」
「ママは今日も遅い、何してんだか」
長男の和が夏休みの帰省で、遅くに自宅に着いた時だった。
「学校はどうよ」
「どうって、忙しいよ」
「ま、医学部なんてどこもいっしょだから、早く免許とりな」
和は、腹減った、と胃のあたりを押さえ、荷物を放り出し、冷蔵庫へ向かった。
「なーんも、ないね」
「ママ、さぼり気味だからね。パパもママも子育て一段落で、ダラダラしてんの」
「コンビニいってくる。車の鍵、貸して。あと、カネ」
夜から食えるのは代謝の良い若者の特典だ。
大量のコンビニおかず、ビール、缶酎ハイを買い込み、和は武がくつろぐダイニングの後ろでようやく一息ついた。
「薬理学って、めんど」
「え、もう薬理、やってんの、最近は専門に入るのがはやいね」
相変わらず、アットフリックスの動画をぽちぽちいわせながら武は息子のよもやま話に耳を傾けていた。
「ねぇ、パパさぁ、愛人とかいるの」
「え?なんだって?」
「だから愛人」
「いきなりナニ?」
「だってさぁ、病院持ってる友達の親父なんて、愛人、たくさんいるらしいよ」
「雇われ身分じゃ、女を囲うカネなんてない」
「セフレとかさぁ」
小さなころから、なんでもかんでも親に報告してきては、笑い飛ばして、あっけらかんとしてる、超楽観性格。
付き合った女の子とか、ママには内緒で、「今日、女、知った」とか童貞喪失のメールをくれる。
次男とは正反対の性格。派閥を作っているわけじゃないが、長男はパパ派、次男はママ派である。
それぞれが互いにしらない秘密を、持ち合って、コソコソしてる。
「おまえこそ、彼女、どうしたよ」
「あ、あれ、別れた。こっちがふられた」
「随分、かわいい子だったじゃないか」
「だから、おれよりもっとカッコいい奴んとこいった」
こそばゆい感情が武の胸のうちに湧いてくる。
真由の姿がふと脳裏に浮かんだ。愛人といういい方はしたくないが、大事な女であることに変わりはない。もう10年になる、付き合いだして。
3年前についに彼女は職場を去り、関係も終わるかと思ったが、顔を合わさなくなって、かえって互いに求めあうようになって…ありがちなメロドラマパターンを二人で演じ…
で、今がある。会うのは月1の時もあるし、2、3日連続するときもあるし。場所は大抵彼女のマンションだった。
都合の良い女、の話で何度も別れ話は出たが、ここまで長いと、もはや妻、とかわりない。
武は勝手にそう思っている。
二人の女を好きになれる、のが男だと。
「はぁ、食った、じゃ寝る」
「お休み、いつまでいるの」
「日曜には帰るよ」
「もう少し、いたらいいのに。ママ、寂しがるよ」
「それ、パパの役目でしょ」
「子供に君のこと、聞かれたよ」
「どんな?」
「女、いるかって」
「いるって、いえばよかったのに」
こういう冗談がうれしくないのはわかっているが、関係を保つためにも時折、辛子を混ぜたほうがいいと思って、耳もとでささやくことにしている。
「来月、37だよ」
前からいってた、子供がほしいってこと。
「認知、必要ないって、前からいってるじゃない」
性格はどちらかというと攻撃的だ。
アンタとは別れる、といって、別の男のもとに走ったこともある。
仕事が手に着かないくらい、不安になったが、どうすることもできなかった。しかし、結局、彼女は戻ってきた。
真由にあって、泉にないものはなんだろう。
若さ。まあ、5歳、違う。
顔?真由の方が美人かもしれない。
優しさ?ここは泉、だろうか。
性?これだけは…
「そうだな、約束だから。子供作ろう」
「ほんと、ありがとう」
ほんとかウソかわからないが、泉はまた「学会」で明後日までいない。
調度、日曜日の夜、今度は次男の叶が帰省する。
「朝ごはん、つくるね」
そう、真由は料理が抜群に上手い。
長いこと、オペ室にいたからか、いや、関係ないよね、もともとそういう才能があるのだろう。それとも若い頃つきあってた、外科の研修医に鍛えられたのか。
とにかく包丁さばきが秀逸で、刺身、三枚おろし、煮つけの飾り包丁、等々、玄人はだしだ。
シャワーの後、食卓に着いて、レモン水をコップに1杯飲んで、出汁巻卵とワカメの味噌汁を口に運ぶ。
料理に吸いつけられ、やっぱりこいつと一緒になろうかなと気迷いが頭をめぐる。
子供の将来はもう決まったのだから、次の人生を考えてもいい。
夫婦の期間なんて、20年もあれば十分だろう。
寿命が延びた分、人生を2回生きたっていい。誰にも咎められる筋合いはない。コメの最後の一粒を口に入れた時、家を出る決意をした。
「飛行機、遅れて大変だったよ」
叶がドアを開けた時、カマチは灯されておらず、リビングに至る廊下のソケットライトも暗いままだった。
日曜大工脳、ゼロの父親がめんどくさがって、切れたライトを取り換えていないのかと思い、首元にあるスイッチを二度押したがやはり、点灯しなかった。
「おーい、帰ったよ…ア!」
酒の臭いがしたから、明日が月曜の祝日なのをいいことに二人とも酔っているかもと、ガラス戸をコソリと開けると、やっぱりそうだった。
まったくどうしようもない、アル中、夫婦。
「おい、コラ。帰ったよ」
それでも、父親はソファーでいびきをかき、母親は食堂でつっぷしている。
「変な夢でもみやがれ。おまえら」
親父のいびきはうるさい。
母親のいびきは猫が恍惚にひたるあの音に似ている。
叶はわざとらしく、食堂の椅子にドサっとセカンドバックを置いた。
その振動に反応したのか、ついに母親は落ち切った目をゆっくり開けて、
「あ~お帰り…」
と口を開いた。
相変わらずダラシナイと言いたげな目で、叶は泉を一瞥すると、
「当分、離婚しそうにないね。これじゃ」
子育ては終わったら家をでるとかいってた、この母親。
なにを考えてんだか。
泉はちょっとまって、とむくッと起き上がり、台所で軽く顔を洗って、叶の目の前に腰かけた。
「それが変な夢みてね、パパには黙っといてよ」
泉は3人の男の話を包み隠さず話した。
「くっだらない。もうおばさん、でしょ。まったく、くっだらない」
そうか、もうおばさんかぁ。
年もサバよんでたなぁ、そういえば、私、今48だった。
「心理学で習ったけど、予知夢とか、共時性とか、きっと親父も同じ夢みてるよ」
「じゃ、夢の中では離婚してるんだっけ、だってパパにも彼女いるんだよ、私よりずっと若い…」
「ま、そうなるね…アー、腹減った。なんかないの」
「ン?あれ、いつ帰った?」
ついに親父も目を覚ました。
「つい、いま、さっき」
「あ、そう。どうだい、大学は」
しかし叶は父親とは目を合わそうとしない。
「別に…」
「そっか。とりあえずがんばれ、ママ、水頂戴…変な夢、みてさぁ」
「ひょっとして、ママに彼氏がいる夢じゃないの?」
「あれ、それで離婚…なんでおまえ知ってるの」
「やっぱりね、脳科学者になろうかな、俺。センスあるかも」
「パパ、酒臭いわよ、水…あんたにはこれ、大したものないけど」
いつの間にやら、レトルトの牛丼とミニトマトが叶の前についた。
「彼女、作ったら、女をこんなふうに扱うんじゃないよ」
叶は本当に空腹だったのか、箸もそろえず、いただきますもいわないで、がっつりタレのかかった白米を口に入れた。
「明日はちゃんと手料理、作るから」
叶は気にせず、ひたすら箸を進めた。
「なんだ、夢か…」
「共時性ねぇ~」
5月の晴れ おっさん @tz893cs2
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