細く振る雨
街道のうなりが届く。雨が降っているのか。カーテンを薄く開いて空をのぞく。あまり雨を見定めることは得意でない。細く降る雨はうす青い雲と重なって判別などつきはしない。立ち上がって上着を羽織る、木製のドアを開く、安っぽい蝶番がわずかにキイと軋む、砂利道の先へ踏み込むと、くさはらに付いた水気が跳ねて足を濡らした。手のひらを空にかざして測る。わずかに落とされる雨粒は天気の変わり目を示していた。
居間には世話係りが暖炉に火を起こして待っていた。ここには女がひとり、暮らしている、渡りびとの世話をする役目を持っていた。幼い頃から、それはいつも女だった、みな、美しい肌をしていた、言葉を習った女は緑の瞳を持っていた、口を大きく開いて、ゆっくりとこの世界の言葉を唱えてみせた。口のひらき具合があまりに異なって、顎の筋肉の動かし方がわからなくなる。舌をつきだし、口腔をすぼめ、音を絞り出す、それらを適切な高低と繋げる、繋げているつもりでも女は不安そうな表情で首を少し傾げてもう一度、同じ言葉を切り分けて与えてくる、ばらばらに崩された破片をコピーして、彼女の表情がパッと明るくなって、大きく頷いてくるまでそれを繰り返した。眠りにつく時は、必ず何か物語を読んでくれていた、よくわからない音の響きが一個のかたまりとなっては流れてゆく、その振幅を追っているうちにいつも眠りについていた。
渡りびと、と呼ばれている。この世界の言葉では発することのできない音だから、名を変えなくてはならなかった。
〈渡りびと、久しぶりだね〉
〈外までは来たけど、一度〉
〈何か食べる?〉
〈もらう〉
空腹だった。小さい頃から渡り続けて、すっかり馴染んだ。けれど食事だけはどうにも好きになれない。発声器官が母語のために凝り固まるように、舌の細胞も親しい味を記録して変化してゆくのだろうか。
〈作ってくれてありがとう〉
〈食べてくれてありがとう〉
味付けのせいなのか、あまり連続して食べると飽きが来る。それでも彼女の作る食事は旨かった。
どのくらい〈往き先〉に馴染むか、というのもまたひとそれぞれだった。幾度となく渡り続けては、そちらに家族を作る者も居るという、子どもの頃は庭同然に行き来していても、いつのまにやら渡り方を失う者もいる、ほんの一度きり渡って二度とは渡らない者もある、古本屋で見つけた「ワタリを捉えた写真集」と帯にゴシック体で書かれた作品、なんとなく手元に買っておいてある、にはそう書いてあった。
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