鹿

 その鹿は、森と海辺の切れ目に立っていた。茶色のひとみを型取る長い睫毛が瞬く。陽光を受け止めた背がしなやかな白を纏っていた。すらりと伸びた焦げ茶の脚。


 もう八畳間にひとの姿はなく、居間の大テーブルには軽い朝食が並べられたところだった。枕元から掘り出したメガネを付けて立ち上がり、おみくじのように詰まった箸立てから入念にひと揃いを探し出す。居間の奥にある台所から立ち上る湯気が、汁物の香りを立たせている。

「おはようございます」

 遅寝が板についてからは口に出すこともなくなった挨拶の発音は声と馴染まず、ゆらつきながら飛び出していく。大酒飲みの割に早寝早起きのこの家へ泊まる時はいつも、朝早くに起き出す彼らに合わせて朝食をとる。眠そうな眼をじっとテーブルに落とすひとびとは、あの起き抜けの表情をまちまちの顔に付けていた。大皿に盛られたフルーツや野菜、スープの鍋が置かれ、順々に器にわけてゆく。おのおの、黙々と口を動かし、齧り、咀嚼し、コップを傾け、しばらくしたおりに、ひとりがぽつりと放った。

「さすがに五人は違ったよね」

 はたと間が空いたあとに、異口同音に同意の声および文句がのぼる。

「暑かった」

「狭かった」

 一方かたはじできっちりとスペースを確保していた者ばかりは、

「快眠だった」

 と腹の立つような感想を述べている。ぼそぼそと会話が始まり、力の抜けた笑いが起こる。窓からの光を受けて、向かい側に座るひとびとの目は淡い茶に光っていて、鹿みたいだ、と思った。


 朝食を終えたひとびとは、再び間の抜けた表情で歯ブラシを片手にシャコシャコやりつつ、空いた方の手で次の予定までの時間をしらべては、バラバラに散ってゆく。よれたシャツとくしゃけた髪のまま、プラットフォームで電車を待つ。うつらうつらとしながら、車窓の住宅街を視界に挟み、ふと大きな駅に着くと乗り込んでくる通勤通学のサラリーマン、学生が現実味を空気に混ぜ込んでゆく。

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