死神 下
四
少し埃の匂いがする八畳間に父は横になっていた。私の来たのに気付くや、ゆっくりと体を起こした。
「おお、久しぶりだな」
少し掠れた細い声だった。
その枕の方向には黒い和服の男が鎮座していた。つまりは本物の、死神。
「ネイミーガニーシー」
死神は目を見開きこちらを睨んだ。それでも消える様子はない。
「ネイミーガニーシー」
死神は苦痛に顔をゆがめるが消える様子はなかった。
「ネイミーガニーシー」
何度唱えても、死神は苦しげな表情でこちらを睨むばかりで動かなかった。
「なあ、何か変な宗教にでも嵌ったのか?」
さすがに謎の言葉を連呼する息子を見かねたのだろう。父が困ったように眉を下げて言った。ようにではなく、本当に困っている。
「病気に効くおまじないだって、子供のころ流行ったんだ」
苦しい言い訳をした。
「ははは、なるほどなぁ。でもさすがにそんな子供だましじゃ治らないなぁ」
父はにこりと笑った。昔と変わらない優しい笑顔だった。
ネイミーガニーシー。私は一つの思い付きを得た。
「……ネシミーガニーシー」
私は死神を指さし、先ほどと似たような、それでも違う言葉を口から零すように言った。父の枕元に鎮座していた死神は霧のようになって消えた。
死神と共に私の意識は消えた。
五
無数の蝋燭が立てられた部屋に私はいた。長いの短いの太いの細いの。小さな炎が揺らめいて、不安定な明かりで部屋を照らしている。
「お前さん。やってくれたな」
いつの間に隣にいたのだろう。老紳士は静かに言った。やはりあれは外法だったか。
「これを見ろ」
老紳士は近くに配置された蝋燭を示した。四本。
これもまたてんでばらばらだった。長めのが二本、その半部くらいのが一本。今にも消えそうなのが一本。
「この一番長いのが、お前の姉。その半分くらいのが母だ」
では、短いのは病気の父なのだろう。そして残っているのが私の蝋燭だろうか。
「これは、ここにある蝋燭はすべて人間の寿命なのさ」
「じゃあこれは私のかい?」
姉のより少し短い蝋燭を私は指さした。
「いんや、これはお前の父のものさ。つまりこの短いのが、お前さ」
なんで、とは思ったが声には出さなかった。
父を死に至らしめようとした死神を消した。それなら父の寿命が長いのに納得がいった。それでも、私の寿命が短いことの理由はわからない。
「外法を犯したからさ。お前と父親の寿命が入れ替わった」
「それならそれでいい。私はもともと死ぬつもりだった。最後に父に恩返しできてよかったよ」
もうすぐ死ぬ。そう聞いても私の心は動かなかった。ようやく親孝行ができたという思いで心は満たされていった。
「それが本当に親孝行だとでも思っているのか?」
死神は言った。私はその真意を図りかねていた。
「私の顔を、目をよく見ろ」
詰め寄ってくる死神。私はその顔を初めてまともに見た。誰かに似ていた。
父だった。今の父より老いているが父だ。思考が追い付かない。
「……父さん?」
「そうさ。よく気が付かなったな」
床に臥せっていたのが嘘のようだった。顔は老いているが、あの父よりも健康的だ。
「お前が死にそうになっていると、枕もとの死神が教えてくれた。なのでわたしはそいつに縋り、一つの契約をした」
語り始めた父の言葉を私は黙って待った。
「その結果がこれだ。お前はまだ死を簡単に受け入れようとしている」
「だってそれは」
自分でもこの言い草は子供のようだと思った。確かに失業し食住に困り、橋の下で野垂れ死にしそうになったが。家族を頼ればきっと時間はかかっても復帰できただろう。私は自らその道から逃げた。
「死神を消せると知って病気の父親のところに来るようなのがお前だ。そんな息子に助けを乞われればわたしも母さんも捨て置くはずないだろ」
ただ単に私の自尊心が邪魔をしただけだった。誰かを頼るくらいなら死んでしまえと。そんな気概があれば何かしらできると私は昔思っていた。それを忘れ、あの最期を受け入れようとしていた。
「わたしの寿命もせっかく延びたんだ。なあ、生きてくれないか?」
父は私から顔を背けていった。その頬が濡れていたように私には見えた。
私は生きることも死ぬことも望んでいなかった。でもその生を望む存在がいることを今知った。今の私にはそれだけで十分に思える。さっき言ったように何の孝行もできていなかったのだから。一つの疑問が頭に浮かんだ。
「……生きられる?」
だって私の蝋燭は――。
「そう、もう終わりが近い。だから、お前が生きるために、一つやることがある。あそこに一本、灯っていない蝋燭があるだろう」
私は父が示したその方向に蝋燭を確認すると一度頷いた。
「あれに短くなったお前の蝋燭の火を移せ。それだけだ」
「本当にそれだけ?」
「ああ、だがじきに消える。急げ、だが慌てるな。消えればお前は戻れない」
息を呑んだ。その音は父に届いていただろう。暑くもないのに玉の汗が頬を伝った。
震える手で燭台を待つ。炎は頼りなく揺れた。おそるおそる歩き始める。足が床を踏むたび炎は揺れ、蝋は蕩けた。
一歩、また一歩。短くなっていく手元の蝋燭に焦燥が募る。
いつの間にか呼吸は短くなっていた。確かに消えた蝋燭に近付いている。
あと半分、もう少し。気持ちは急く。手元の蝋燭を見るのはやめた。
たどり着いた。私の手には確かな光があった。どうやら間に合ったらしい。あとはこれを――。
「――」
炎は灯った。その瞬間、老紳士――父は私の名を呼びにこりと笑う、劇場の急な幕引きのようにすべての光が消えた。
「ほら、消えた」
死神 西東惟助 @NHS
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