死神
西東惟助
制約なし
死神 上
一
もう何日も食べていなかった。私は橋の下で一人、柔らかな土の上に重さを預け横たわっていた。自分の命が消える瞬間を待つ。残された楽しみといえばそれしかない。もはやそんなことを考えるまでに追い詰められていた。
天涯孤独、ではない。両親と姉がいる。親の顔を思い浮かべながら、結局親孝行なんてものはできなかったな、と私は少なからず悔やんだ。
轟音。地面が少し揺れ、河川敷に雷が落ちるのを私は見た。背の低い青草が雷と共に散り、風に舞いあげられていく。眩い光だった。あれに打たれて死ねば派手な死にざまになったのにとぼんやり考えた。
雷の落ちたところから、誰かが歩いてくる。
その背後の暗闇に混ざってしまいそうなくらい、黒い男だった。黒いハットに黒いジャケット、黒いパンツ、黒いステッキ。そして真っ白い顔だった。しわの刻まれた、眼光鋭い老紳士だ。
死神のようだと、迎えが来たのかと私は思った。
「迎えに来たわけではない。予定に反して尽きる命の管理も仕事でな」
偶然だろうか。思考に応えるように老紳士は言った。
「要するに、貴様が生きるためのテコ入れに来たわけだ。まあ報酬は貰えるがな」
いきなり現れ、死神を名乗る男をすぐに受け入れるほど私は素直な人間ではなかった。素直な人間ならばこの場所で死を待たずにまともな人生を送っていたはずだ。この老人は何者だろう。見当もつかなかった。
「まあいいさ。付いてきなさい」
老人は歩き出す。私をどこかへ
「ほれ、早く来んか。別にお主の想像通りでもいいだろう? もう死んでしまう気だったのならば、どうなってもよいはずだろうに」
再び、思考を見透かしたように老人は言った。やはり、考えを読まれているようにしか思えなかった。
「その通り、私は君の思ったことが分かる」
この男は何者なのだろうか。
「死神だよ」
「死神? お前のせいでこんなネガティブに……」
「いんや、それは関係ねえよ?」
関係あると言われた方がまだ気が楽だった。何かの所為にするというのは人間の一種の防衛機能である。
「それで付いてくるのかい?」
「……話を聞こう」
この場合憑くのはあなただろうと私は言いたかったが、黙って体を起こし立ち上がった。飢える寸前で動けないと思っていた体は思いのほか軽かった。まさか幽体離脱でもしたのだろうかと自分の座っていたところを見るが、体だけ置いてあるなんてことはない。
「お前には偽死神を駆除してもらいたい」
老紳士は歩きながら唐突に言った。偽死神の駆除、そんなことが自分にできるとは想像もつかない。
「人間にしかできねえ。あいつらはなぜか人間が指をさし、呪文を唱えると消えてなくなっちまう」
「その呪文は?」
「ネイミーガニーシー」
「名前みたいだな。……それと偽死神の見分け方は?」
すんなり死神と名乗る老人の話を受け入れてることをおかしく思いながら私は質問を重ねた。厭な雰囲気を感じない。それはむしろ――。
「偽死神は人様の足元から魂を奪う。足元を
随分と簡単な見分け方だった。そして呪文を唱えるだけ。私はいつしか、この作業に対して前向きな心持になっていた。
ゴーストバスターズ、いや幽霊ではなく死神か、リーパーバスターズか。
「偽物だからそれも違うぞ」
死神のそんな言葉を聞きながら橋の下から出る。雷が落ちたが、雨の気配はなかった。
二
「うわ」
私は思わず声を上げた。死神に付いて歩き、たどり着いたこの病院。そのエントランスに漂う消毒液のにおいがきつかったからではない。
ロビーには真っ黒い装束の人間が、診察を待っているであろう患者よりも多く
「見えないふりをしろ。まあ見えているのが分かったからって何かされるわけじゃないけどな」
「これ全部」
「そう、死神さ」
私の目にはいつの間にか死神が映るようになっていたらしい。見えなくてもこんな光景が広がっていると思うと、私は病院に行きたくない心持になった。
「適当な病室へ向かうぞ」
死神は受付を通ることなく、エレベーターホールへ向かった。自分でボタンを押している。よく聞く幽霊とは違い、物に触れることができるらしい。
私と死神のほかに待っている者はいなかった。ほんの数秒で到着した箱は人間を三人吐き出した。一人は黒装束。乗り込む。中には誰もいない。
「あの中にももちろん偽物はいる」
「あの場であの呪文を――」
「それはやめとけ。即死するのは偽物だけだけど、本物にもダメージが入るからな。そんなことになったら俺が恨みを買ってしまう」
片っ端から指さして、呪文を唱えればいいと思ったが、そう簡単にはいかない。先ほど教えられた見分け方で地道に潰していくしかないようだった。
階を告げるアナウンスが流れる。扉が開くと同時にけたたましいアラームが聞こえた。心電図モニターのものだろうか。
「早速見てみようぜ」
そう促され音の出どころたる病室へ向かう。
スライドドアを開け、中に入ると医師と看護師と思しき二人の女性が点滴をいじっているのが見えた。
ベッドの上には四十代前半くらいの男性。蒼白な顔面の目を見開き、歯を食いしばっている。傍らにいる女性はその妻だろうか。
「すみません! 今救命中ですので話はあとに……」
医師が私に向けた言葉を、私は聞き流していた。男性の足元には黒い作業着の男――死神がいた。
「こいつが偽物だ」
老紳士が言った。
「て、てめえ人間なんか連れてきやがって」
作業着姿の死神はその場から動かずこちらを睨む。
「早く唱えるんだ」
「ネイミー……ガニーシー」
老紳士の囁きに導かれるように死神を指さし、私は静かに呪文を
作業着の死神は苦悶の表情を浮かべると黒い霧になり、どこかへ消えた。
たちまち心電図のアラームは消え、男性の顔色は健康な人間のそれに戻った。
室内の人々の驚きの声を背に、私は静かに立ち去った。
「あとは病室を一個一個廻ればいい」
「なあ、どうしてこれが、私の人生のテコ入れになるんだ?」
特に体の変化は感じない。方便、なのだろうか。
「嘘だと思われるかもしれないが、これをやるとお前の幸運を呼び寄せる力が少しずつ強くなる」
「はあ、なら一回だけじゃ実感がなくて当たり前だと?」
「そう解釈してくれると助かる」
この老紳士の言葉を額面通りに受け取ったわけではなかった。もとより死ぬしかなかったあの橋の下から、確かに私は抜け出していた。少なくともそれは幸運だろう。
三
父は父だった。なので偉大かどうか聞かれると答えに
平凡な男というのがぴったりだろう。普通の会社勤めだった。父と母、共働きの家庭だったからこそ、姉と私、両名は大学卒業まで至ることができたのかもしれない。
優しい人だった。誰かと言い争いをしているところを見たことがない。かといってなよなよとして弱いわけではなかった。大木のように確固たる自分を持っていたのだろう。
そんな父もすでに定年、年金暮らしだった。母も同様だ。定年退職してから急激に老いたように感じられる。
父は最近病床に
私はすでにすべての指に余るほどの数の偽死神を消した。この病院でできることはない。
本物の死神がいた人間を見ると悲しくなった。それが年若い子供の時もあったのはやるせない。
何とかならないのか、と老紳士の死神に訊いたが、「それは外法だよ」と話を打ち切られてしまった。「できない」とは言わなかった。正直な死神なのだろう。
「なあ」
「なんだ?」
「行きたいところがある」
私は死神が頷くのを見ると病院を後にした。
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