第42話 こっち来て

 「こっち来て」

と、結生子ゆきこ瑠姫るきをその小さい森の奥に連れて行った。

 山のほうから入っているので、奥というのは海に近い側だ。漁港を見下ろせるところに石の柵があり、その手前にベンチがある。

 漁港の水面には穏やかな波がのんびりと揺れている。

 あいかわらず人気ひとけはない。船が出て行ったり、帰って来たりという動きもない。

 さっき、幸織さちおがボートを着けてから、何の動きもないのかも知れない。

 幸織がボートを着けた浮き桟橋さんばしはここからは見えないようだった。

 石の柵には自転車が立てかけてあった。レース用というのか、普通の自転車とは違う、タイヤの幅の狭い、いかにも空気抵抗の少なそうな自転車だ。

 「はい」

 結生子は、姿は変わっていなかったけれど、声は昔よりも低く、落ちついた声に変わっていた。

 スプレー缶を差し出している。何だろう?

 「そんな格好でこんなところにいたら、全身、蚊に食われちゃうよ」

 ああ、そうか。

 クラゲの次は蚊か。自然が豊かだ。

 いや、蚊ぐらい、東京にも湘南台しょうなんだいにもいるか……。

 「ありがとう」

 瑠姫は受け取る。

 「じゃ、遠慮なく」

 吹きつけようとして、その缶が手になじんでいる感じがして、あれっ、と思った。

 それは瑠姫の職場に置いてあるのと同じ、どこかのドラッグストアで売っていた安物だ。

 結生子のようなお嬢様でも、そういう品物を使うのか、と思う。

 足は露出していなかったので、手と顔と首筋だけスプレーしたのだが、結生子が

「足首もやっといたほうがいいよ」

と言うので、言われたとおりにする。それであらためて

「ありがとう」

と言ってスプレーを返した。

 二人で、海に向かって、暗い森のなかでベンチに腰かけている。ベンチには、結生子のものらしい鞄とヘルメットが置いてあった。そのヘルメットも、瑠姫の職場にあるようなもっさりした作業用のヘルメットではなく、やっぱりスポーツ用のものらしい。

 自転車やヘルメットは高級で、蚊よけスプレーだけが安っぽい。

 ここも、上に何重にも木の葉が生い茂り、暗い。ベンチに置かれた結生子の持ちものが鈍く海からの明かりを反射している。

 木の葉のざわめきと、海の波が寄せたり引いたりする音と。

 「ユキちゃんもやっぱり甲峰こうみねに住んでたんだね」

 瑠姫が言った。結生子は唇を結ぶ。

 軽く笑顔になったように見える。

 首を振った。

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