第35話 すみませんね、ばたばたした子で
これだとたしかに有能な会社員に見える。頬が赤いのは、さっき走ったからではなくて、チークを塗り直したのだろう。
「あっ
そう早口で言ってまたばたばたと駆け出す。見ていると、いちど門から表に出てから、離れのほうの入り口からその裏に入り直した。すぐに小さいスクーターを押して出てくる。そのスクーターの小さくて愛らしいのが幸織に似合っている。
やっぱりかわいらしい小さい白いヘルメットをかぶる。小気味よいエンジン音を残して、幸織のスクーターはあの馬塚と幽霊松の坂道のほうに向かって走り去っていった。あの坂を登るには、このくらいのスクーターがいちばんいい乗り物かも知れない。
さて。
幸織がいっしょでないのに、レモンイエローの水着にバスタオルを羽織っただけという姿で幸織の家に上がるのは気がひけたが、しかたがない。
玄関を入ってみると、今度は幸織のお母さんが電話をしているところだった。さっきから電話している人によく出会う。
場所はさっきのお茶の間を出たすぐのところだ。瑠姫の部屋に戻るには、その横を通らないといけない。黙って通り過ぎるわけにも行かないので、その電話が終わるまで瑠姫は待った。
「はい……はい、申しわけありません。ほんと申しわけない。……いえいえ。それじゃ、すみませんがあとはお願いして。はい。はい。はい。はい、失礼します」
言って、受話器を置くと、幸織のお母さんはすまなさそうな笑顔を浮かべた。
「すみませんね、ばたばたした子で」
「ああ、いえ」
ばたばたした子なのは確かだ。けれども。
「わたしも仕事してますから、幸織ちゃんのいまの状況はよくわかります」
と言う。
きちんと仕事をするには、ときどき、いや、しばしば、ばたばたしなければならないことがある。
そこに、あの幸織の「ばたばたした子」さ加減が、ちょうどはまったのだ。
「そうですか?」
言って、幸織のお母さんはさらに目尻を下げて笑う。そうするとますます幸織に似るのだけれど。
でも寂しそうな笑顔だと思った。
「今晩は、わたしと、おばあちゃんと、あなたとの三人きりの食卓になると思いますけど、ほんと、
幸織だけではなくて、幸織のお父さんも帰りは遅いのだろう。
幸織の立場もわかる。
でもこのお母さんがどれほどがっかりしたかもわかる。
もう少し幸織のお母さんと話をしたいところだったが、やっぱり、レモンイエローの水着を着たまま立ち話するのは気がひけた。それで
「いえ。ありがとうございます」
と言って頭を下げる。そのまま上がるとやっぱりつっけんどんかなと思ったので
「ちょっと上行って着替えてきます」
と言い残して足早に階段を上がる。幸織のお母さんがどんな顔でいるかは確かめなかった。
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