第22話 このへんにしよう

 浜の隅のほうに、薄汚れどころか大いに汚れた「貸ボート」の看板があった。見覚えがある。その見覚えが錯覚でないとしたら、十年以上前から同じ看板だ。でも、そのころは、貸しボートはきちんとロープでつないで、番をする人もそこに座っていたのだが、いまは五そうほどがただ浜に引き上げてあるだけだ。

 幸織さちおは、その普通のボートの奥に置いてあった、もう少し大きいボートのところに行った。一軒だけ残った海の家のほうに向かって大きく手を上げる。そうすると、そこから男の人が姿を見せて、幸織のほうに手を振り返した。それでボートを使う了解になったらしい。

 幸織は鞄をそのボートの上に乗せると、ボートの後ろに手を添えて押した。動かない。ちらっと瑠姫るきを見たので、瑠姫もバスタオルをボートの中に入れると、いっしょに押した。

 「悪いね」

 幸織が瑠姫を見て笑う。ボートは、しばらく湿って重い砂の抵抗を受けていたが、寄せてきた波に浮き上がったのを利用して、幸織はボートを水に浮かべ、自分も器用にその上に乗ってしまった。得意そうに笑う。

 何が「海、行かない」だと思って、瑠姫もボートに乗った。

 幸織のほかの服装はともかく、手袋をしてきたのはもっともだとわかった。

 幸織は、その白い薄手の手袋の上に、さらに鞄のなかに入れて持ってきた軍手をはめて、両方のオールを取る。

 そのボートは、ほかのボートより少し幅が広く、乗る場所に余裕があった。普通のボートは三人乗ればいっぱいになってしまうが、このボートはそれぞれの席にもう一人くらい乗れそうだ。ほんとうは右のオール一人と左のオール一人で二人がかりでぐものなのかも知れない。

 「さ、岩とか岸辺にがりがりってやらないかどうか、瑠姫、見ててねぇ!」

 幸織が力をこめて言う。

 ああ、そうか。幸織はボートを漕ぐために後ろを向いているので、前が見えないのだ。

 「オッケー!」

と瑠姫が言うと、幸織は、力いっぱいにボートを漕ぎ出した。

 水漏れはしなかった。幸織はボートを漕ぐのには慣れていたようで、ボートはどんどんと海岸から離れていく。岸からしばらくは底は砂だったが、そのうち暗い色になり、どこが底かわからなくなる。岩に「がりがりってやる」ことはなさそうだ。岸辺からもちょうどいい距離を取って進む。

 幸織はこのボートを漕ぐのには慣れていそうだ。ボートの舳先から水が両側に勢いよく波を立てて分かれていた。

 いまもあいかわらず浮かんでいる旗の立ったブイの外に出る。中学生の遊泳区域を抜けたのだ。幸織の漕ぐボートはさらに進む。

 あのころ沖に設置してあったいかだは見あたらなかった。浜で泳ぐ人が減り、しかもその多くがあのブイから沖には出られない小中学生となると、沖に筏を置いておく意味もなくなったのだろう。瑠姫はある筏で遊ぶチャンスを失った。永遠に、だ。そんなたいしたことでもないか、とは思うけれど。

 崖の上から日が射してきた。

 海は深い。ボートの影が海に映っているのだが、その影はそのまま濃い青色の水の深いところに消えて行く。

 底が見えない。

 振り返って見ると、もうブイに立った旗が小さくしか見えない。幸織は海の上でボートを一周させ、そこでボートを漕ぐのをやめた。

 「このへんから先行くと海流速くて危ないから、このへんにしよう」

と言う。瑠姫にはよくわからないから、任せることにした。

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