万年筆

あべせい

万年筆



 秋のある休日。

 住宅街の幅6メートルほどの道路で、老婦人が長いリードを手に、2匹の小型犬を散歩させている。

 その老婦人の前を、今西雄太(22)と知多百合(21)が通りかかる。2人はともに東都大仏文科の学生。

 久しぶりのデートなのだが、デート気分を満喫しているのは雄太だけ。百合は、ただ星空が見たくて、雄太の誘いに応じたに過ぎなかった。百合が雄太をどう思っているのか。それはだれにもわからない。

 と、百合が、思わず後ずさりして、雄太を盾に動かなくなった。

「どうしたの、百合さん」

 百合は、雄太の体の陰から老婦人を見ながら、

「わたし、イヌはダメなの……」

「エッ」

 雄太はようやく、百合がおびえているようすに気がついた。

「百合さん、ごめん。気がつかなくて……」

 雄太はそう言うと、民家の玄関前の石段に腰をおろし、ゆったりと煙草を吸っている老婦人に近寄った。

「お婆さん。イヌのリードをもう少し短くしていただけませんか?」

 しかし、老婦人は雄太の問い掛けに一切応えず、煙草を吸い続けている。ただ、見ず知らずの若者が近寄ってきたため、老婦人は警戒して、リードを握っている左手を素早く懐の中に隠した。

 イヌは2匹とも、顔がよく似たビーグルだ。ビーグルは赤と黒2本のリードで老婦人とつながっているが、赤いリードは5メートルほど、黒いリードは6メートル以上もある。

 雄太は、老婦人の目の前に立った。2人の距離は、50センチと離れていない。

「お婆さん、聞こえますか?」

 雄太は、老婦人は耳が遠いのだと考えた。すると、

「よく、聞こえちょるよ」

 老婦人はムッとした顔を雄太に突き出した。

「それだったら、お願いしますよ。彼女が……」

 雄太は、百合を目で示して、

「昔、イヌに噛まれたことがあって、イヌが近くにいると歩けないンです」

「そうかい」

 老婦人は、続けて「そんなこと知っちゃこっちゃないね」と言いたげに、咥えた煙草を空に向け、煙を吐いた。

 雄太はさすがにカチンときた。こんな年寄りをのさばらせておいては世のタメ、人のタメにならない。

 雄太は、地面に垂れている赤と黒のリードを両足で踏み、老婦人の前に仁王立ちした。そして、「オイ、ババア。ひとが下手に出ていたら、つけあがりやがって。年を食っているからって、容赦はしねえゾ!」と啖呵を切ろうした、そのときだった。

 老婦人は急に、煙草を携帯灰皿にもみ消し、淡いピンク色のブラウスの襟元をかき合わせ、スカートの裾を両手で払って立ちあがると、雄太の後ろに向かってペコリとお辞儀をした。

 雄太は後ろを振り返り、同時にリードを踏みつけていた両足を移動させた。すると、老婦人はすっくと立ち、リードを縮め、2匹のビーグルを引き寄せると、雄太とすれ違うように進み出た。

 老婦人を動かしたのは、55、6の男性だった。アイロンの効いたYシャツ、真っ白な綿のズボン、白いスニーカーを履き、短めのリードで繋がった1頭のフレンチ・ブルドッグを連れている。

 老婦人は、キビキビした動きで男性の前に行き、これ以上はないという愛想笑いを浮かべ、話しかけている。

 よォく見ると、老婦人と思ったのは、雄太の大きな勘違い。年齢は、男性と同じくらい。鍔広の帽子から出ている髪の毛に白髪が目立っていたため、実際以上に年老いた女性に感じられたのだ。

 彼女は、雄太から、「お婆さん」と呼びかけられたことが、よほど腹に据えかねたようだ。

「雄太。行きましょう」

 百合が、いまのうちに、と雄太を促す。

 雄太と百合が、親しげに話しているビーグルの婦人とフレンチ・ブルドッグの男性の脇を、通り過ぎようとしたそのとき、男性が百合を見て呼び止めた。

「お嬢さん」

「エッ」

 百合が振り返る。

 しかし、百合は首を傾げ、

「ごめんなさい。どちらさまでしたでしょうか?」

 と、聞き返す。

 男性は、ビーグルの婦人に、「ちょっとすいません」と断りを入れてから、

「私です。5年ほど前に、勤め先でお父さまから、貴重な万年筆をいただいた皆見堅三です……」

「はァ……」

 しかし、百合には思い出せない。雄太が脇から、

「5年前というと、百合さんは高校、確か白鳩学園だったよね」

「そうだけど……」

 皆見は、戸惑っている百合にお構いなく、

「あれ以来、私には不幸が続いています」

 と、切り出した。

 一瞬にして、辺りは妙な空気に包まれる。

 ビーグルの婦人も、皆見から一歩体を引いた。

 百合はどう返していいのかわからず、棒立ちだ。

 雄太が見かねて、

「皆見さん、ですか。あなた、いったい、何をおっしゃりたいのですか。ぼくたち、これから……いいえ、先を急いでいるンです」

「こんなところでお会いできるとは思ってもいなかったものですから……」

 そう答えた皆見の顔は、青ざめている。

「突然、失礼なことを申しまして……どうか、お許しください」

 雄太と百合は、急に元の紳士的な態度に戻った皆見をいぶかるとともに、ホッとした。

「でも、これは事実です。自宅が全焼、20年連れ添った妻とは離別、課長をしていた職場もやめざるを得なくなりました」

 皆見の言った「離別」という言葉に、ビーグルの婦人は敏感に反応した。

「それがすべて、父が差し上げた万年筆からだと……」

 百合が問い掛けた。

「そうとしか考えられないのです。始まりは、お父さまから万年筆をいただいた年の暮れに、自宅が火災で全焼しました。さらに、翌年には妻が娘を連れて家を出ました。結局、2年の別居を経て離婚。そして、昨年、20年勤めた職場を去るハメに陥った次第です……」

 すると、百合が大胆なことを言った。

「その万年筆、お預かりできますか?」

 皆見には、予想していた問いなのだろう。

「お疑いになるのは、当然です。拙宅はすぐ近くです。お立ち寄りいただけますか?」

 百合は一瞬、ためらったが、

「雄太、一緒に行ってくれる?」

「勿論だよ」

 すると皆見は、フレンチ・ブルドッグとじゃれあうビーグルをうらやましげに見ている婦人に対しても、

「よろしければ、奥さんもご一緒にいかがですか。お近付きになっていただければ幸いです」

 と誘った。

 婦人に拒否する理由はなかった。

 皆見の自宅は、百合たちと出会った場所から、徒歩10分ほどのアパートにあった。

 2階建て10室の2階角部屋の1DK。

 2階への外階段を昇る際、彼はフレンチ・ブルドッグを、1階の自転車置き場のポールにリードで結わえた。すると婦人も、彼に倣って2匹のビーグルを同じように固定した。

 アパートの室内は整然としていた。家具類はベッドと、縦長のロッカー箪笥のほか、ベランダに面した窓際に置かれた木製の机だけ。が、昼間なのになぜか、窓にはカーテンが引かれている。

 皆見は、大きな机の抽斗から、ハンカチにくるまれた万年筆を取り出した。

 万年筆は古さを感じさせる黒のエボナイト製で、長さは普通だが、とにかく握りが太い。通常の倍以上あると思われる。

 その握りの部分に、鳥の装飾が施されている。鳥は空を舞っている2羽の鶴。番いだろう。丹頂鶴に見えるが、判然としない。薄い銅板に彫金し、万年筆の握りとキャップに貼りつけてある。鶴は見事な出来映えで、よほどの技術をもった職人が彫金したと思われる。

「これが不幸の始まりですか?」

 百合は、万年筆を手に持ち、懐かしむように鶴を眺めている。

「百合さん、見覚えがあるの?」

 雄太が尋ねる。

 そのとき雄太は、万年筆から漂う、形容の仕様が無い香りを感じ取った。柑橘類の臭い……いや、不快とも言える妙な香りだ。

 百合は、雄太の心の動きに気がつかず、

「小さい頃、父が手紙を書くのに使っていたのを見た記憶があるわ」

 すると、皆見はいちばん下の抽斗から小さなガラスの壷を取り出し、机の上に置いた。

「これは、この万年筆に使っていたインクです。わたしはもう使いませんから、お持ちください」

「ありがとうございます」

 百合はインク壷を受け取り、万年筆と一緒に手提げバッグに入れた。雄太は念のために、皆見の家が火事に遭った正確な日付を聞いてメモした。

 万年筆に関するやりとりはこれで終わった。百合は皆見の電話番号を聞き取り、「父がお電話を差し上げるかも知れません」と言い、雄太と玄関に向かった。

 後ろで、皆見がビーグルの婦人と話している。

「あのフレンチ・ブルドッグは私が飼っているイヌじゃありません。事情があって、散歩の代行をしているのです」

「そうだったンですか。でしたら、わたしのビーグルもお願いできますか?」

「それはもう、喜んで……」

 雄太と百合が玄関を出てアパートの外階段を降りると、繋がれている3匹の小型犬が百合を見て、一斉にうなりだした。

 イヌまでは3メートルほど。雄太は百合の前に立ち、かばうようにして通りに出た。

 途中、もう一つ異変があった。百合が肩から下げていたバッグが、突然地面に落ちたのだ。インク壷は無事だった。

 バッグが落ちたのは、革紐が切れたのかと思われたが、そうではない。革紐とバッグを繋ぐナスカンが、なぜか外れたのだ。

「こんなこと、これまでなかったわ……」

 百合は不思議がる。ナスカンはもう一度、バッグの金属環に元通り嵌めたが、百合は納得がいかないようす。

「たまたま、だよ。何かの拍子にナスカンの口が開いただけ。そうに決まっている……」

 雄太はそう言って百合を慰めたが、2人の頭にはともに、丹頂の万年筆のことが浮かんでいた。

 

 雄太と百合は、科学博物館の大ホールにいた。

 最近、導入されて話題になっているプラネタリウムを楽しむためだ。

 150度まで倒れるリクライニングシートに体を預けて天井を見上げ、そこに展開する宇宙の大パノラマに陶酔する。

 この日のテーマは、「宇宙の成り立ち」。どのようにして宇宙が生まれ、これから宇宙はどのように進化していくのか。137億年に渡る壮大なドラマが、迫力ある映像とナレーションによって綴られていく。

 雄太は宇宙のことを思うとき、いつもわからなくなる。人間は宇宙の一部と言われるが、この地球上で、人間社会で暮らしているこのオレと、無数の星を生み出した宇宙とどう繋がるのか。

 人間のような知的生命体がいる星は、地球以外にも存在するというが、日々、寝て起きて、食べて排泄するこのオレが、ここにいることに、どんな意味があるのだろうか。ただ百合さんが好きで、一緒にいたいオレは、本当に存在しているのか。単に、そうだと認識しているだけで、「我想う、故に……」。

 そのとき突然、雄太に向かって、猛スピードで降り注いできていた隕石の大群が、消えた!

 代わりに、真っ白な天井が現れ、白々とした空気が漂う。すると、直後にアナウンスが流れた。

「申し訳ございません。プラネタリウムの電源がショートいたしました。復旧には、半日ほど要しますので、本日の観賞はここで中止させていただきます。ご迷惑をおかけいたしまして、まことに……」

 雄太と百合は、ぼんやりした気分のまま、外に出た。

 偶然は重なるものなのか。駅に向かう途中の喫茶室に入り、2人は重苦しい雰囲気のまま、コーヒーをオーダーした。

「雄太。わたしたち、ここにいるのは偶然なの?」

「エッ?」

 運ばれて来たブラックコーヒーを一口飲んだ雄太は、驚いてカップを元に戻す。

「百合さん、どういうこと?」

「だから、わたしと雄太が、ここでこうしてコーヒーを飲んでいる、って偶然なの?」

「偶然じゃないよ。ぼくが百合さんを誘って、百合さんが承知してくれたから、ここにいるンだよ」

「だったら、プラネタリウムが故障したのは?」

「そ、それは……」

 偶然と言いたいが、するとこの喫茶室にいることも偶然になってしまう。プラネタリウムが故障しなければ、90分の上映時間を終えて外に出るから、この喫茶室ではなくて、2人がよく買い物に訪れるI駅近くの輸入雑貨店にいるはずだ。

 しかし、機械が故障したことが必然なンて、言えない。必然だとしたら、だれかが故意に故障させたことになってしまう。そんなことはありえない。

 雄太は返答に困った。すると、百合は、バッグから、丹頂鶴の万年筆を取り出した。

「この万年筆が原因かしら……」

 百合は不安そうな顔をする。

 そのとき、雄太の嗅覚を刺激する香りが、再び万年筆から漂ってきた。

 しかし、雄太は気のせいだと思い直す。

「百合さん。そういう考えはよくないよ。あの皆見さんに会ったのは、全くの偶然だから……」

 と言ってから、雄太は果たしてそうなのか、と考える。皆見にとっては、必然だったとしたら……。

 皆見は、万年筆を元の持ち主に返したがっていた。そこに百合が現れた。

 おれたちがあの道を通ることを、皆見が予め知っていたとしたら。そんなことはないと思うが……。

「百合さん。きょう、科学博物館に行くことをだれかに話した?」

「だれにも話してはいない……待って。父には話したわ。きょうは祝日だけど、父が出張先から帰って来るの。そのとき、わたしがいなくて心配するといけないから、雄太と科学館に行って、帰りは食事をしてきます、って……」

「教授がそのことを、皆見さんに話していないか……」

「エッ」

 百合の顔色が変化した。百合の父は東都大文学部の教授だ。週に一度、九州の大学でも講義をしている。

「いま教授はどこにおられるか、わかる?」

 百合は腕時計を見て、

「この時刻だと、恐らく空港近くじゃないかしら」

「電話して、皆見さんに話したか、聞いてみたら?」

「でも……」

 百合は一瞬ためらったが、

「いいわ。案ずるより、よね」

 スマホを取りだし、アドレス張から「父上」とあるアドレスを開いて、掛ける。幸い、電話はすぐに繋がった。

「お父さん。百合です……ええ、ちょっと聞きたいのだけれど……」

 百合は、きょう雄太と科学博物館に行くことをだれかに話さなかったかと尋ねた。その返事は、意外なものだった。

 昨日、ホテルに皆見という元大学職員から電話があり、百合は午後、友人と科学博物館に行く予定にしていると教えたという。

 皆見は大学の元職員だが、教授の教え子でもあり、10年以上前から親しくしていた。5年前に、勤続20年を迎えた皆見に、デパートで求めた万年筆を贈ったことも事実だと言う。娘の行動についても、「お嬢さんは、お元気になさっておられますか?」と尋ねられた際、深く考えずに教えたようだ。

 百合は納得して電話を切った。

「百合さん。これでわかった。皆見さんは、教授のお屋敷から科学館までのルートを調べて、あの道を歩くことを計算したンだ。それで、待ち伏せして百合さんには偶然を装って近付いた。

「どうして、偶然を装う必要があるの?」

「それは……、いただいたものを返すことは、後ろめたいと思ったのじゃないかな」

「そォ……」

 百合は釈然としない。雄太も同じだ。

 偶然と必然の違いって、何だろう。雄太は考える。本当の偶然というものはあるのだろうか。たまたま起きたことだと思っていても、仕組まれたものだったら、必然だ。

 不幸が、たまたま重なって起きる。しかし、最初の不幸が必然的に起きたことだったら、その不幸はその不幸に繋がる次の不幸を呼び込み、さらにその不幸に繋がる次の次の不幸を呼び込むということになるのかも知れない。

 この世の出来事は、すべて巨大な歯車に組み込まれているとしたら。一つの不幸によって、予めその不幸の歯車に組み込まれた不幸が生じ、思いがけない不幸が次々に出現してくるということがあるかも知れない……。

 しかし、そんなことがあってたまるものか。

 雄太は、百合の目の前に置かれている丹頂の万年筆を見つめた。握りが太く、鶴の装飾が施されているが、万年筆に変わりはない。皆見はこの万年筆によって、家と家族と仕事を失った、と言った。

 彼の不幸は、自宅が火災によって焼失したことから始まっている。その火災と万年筆に何か繋がりがあるとしたら、皆見の言い分にも理がある。

「百合さん。調べてみようよ」

「そうね」

 百合に雄太の考えが伝わったようだ。

 2人は、その足で区の図書館に向かった。

 皆見堅三の自宅が火災に遭ったことを確認するためだ。2人は、新聞閲覧室に入り、全国紙の縮刷版を手分けして見ていった。

 火事が起きた日時と被災した家の住所は、皆見から聞いている。全国ニュースではない。都内でも城北版の限られた地域のニュースだ。

「雄太。これ、そうじゃないかしら」

 百合が、5年前の師走の、ある記事を指差している。10行ほどのベタ記事だ。

「15日、午前2時42分頃、栄町5丁目3の皆見堅三さんの自宅から出火。火は折りからの北風に煽られて燃え広がり、皆見さん方は全焼。幸い、左右隣は建て替えのために解体されて更地になっており、背後は草地だっため、延焼は免れた。警察と消防が出火原因を調査中だが、火の気のない外壁部分が激しく燃焼していることから、放火も視野に入れて調べている。出火当時、家には、夫の皆見さんがひとりいたが、逸早く消防に通報するとともに、外に逃げて無事。また妻と娘さんは、親戚宅に出かけていたため、ともに被害を免れた……」

 とある。

「百合さん。こちらの新聞には、続報が出ているよ」

 それによると、皆見家の出火原因は、「ストーブの火の不始末」とある。

 万年筆には一言も触れてないが、皆見の供述として、

「書き物をしていて、給油のとき漏れていた油に気がつかず、それへ引火したと思う」とある。

 書き物の際、皆見は教授からもらった万年筆を使っていたのだろうか。

「百合さん。これで解決だよ。皆見さんは、奥さんの留守中、教授の万年筆で書き物をしていて自宅を焼失させた。それがもとで、離婚、家族を無くした。すると、仕事に対する情熱も薄れ、次第にミスが目立つようになって、職場に居づらくなって退職を余儀なくされた。そういうことじゃないのかな。不幸が重なったというのではなく、一つの不幸が原因で次の不幸が生まれ、さらに次の次の不幸が生まれて行く。不幸が重なったというのは、皆見さんの勝手な思い込み。火災がもとで、その後、不幸が続いたンだよ」

「そうよね。父の贈った万年筆が招いた不幸、ってことじゃないわよね」

 百合にようやく、笑顔が戻った。


 百合は、久しぶりに父・香震の書斎に入り、父の机の前のアームチェアに腰を落ち着けていた。

 香震は、出張講義している九州博多の大学の要請で、もう1日帰京が遅れることになった。

 百合は最初、皆見から戻された万年筆とインク壷を父の机の上に置くだけのつもりで父の書斎に入ったのだが、畳一枚分はある大きな机の前に腰掛けると、何か書きたくなった。

 そうだ。雄太に「残暑見舞い」でも書こう、という気持ちになり、自然と握りの太い鶴の万年筆を握っていた。

 香震の机の抽斗には、何かしらいつもハガキがあり、いつでも使っていいと言われている。

 百合は、一枚のハガキを机上に取りだし、万年筆を構えた。インクの色を見るため、ペン先を机上のメモ用紙に押し当てる。しかし、かすれて文字にならない。そうだろう。何年も使ってないのだから。

 インクが切れているのだ。一緒にいただいたインク壷に、万年筆の軸をねじってバラす。インクは吸引式らしい。

 ペン先をインク壷に差し入れ、軸の尻部分を引き、あとはゆっくり元に戻す。かすかに記憶している、父のやり方をまねたのだ。

 こんどは、メモ用紙に黒いインクが滲んだ。

 よしッ。これでいい。百合は満足して、ハガキに向かった。

「きょうは楽しかったわ。貴方には、たいへんな一日になったかも知れないけれど……。わたしには、プラネタリウムのアクシデント以降、これといった不幸は訪れていません。皆見さんの場合は、書き物に熱中したことが火災の原因になり、その火災が離婚の原因となり、家庭を無くしたことが仕事をなくすことに繋がったのでしょう。不幸が重なったというのではなく、一つの不幸が新たに第二、第三の不幸を生んでいったと見るべきだと思います。鶴の万年筆は、単に最初の不幸を作る引き金になったに過ぎません。

 わたしの場合は、もっと単純です。3匹の小型犬に一斉に睨まれたことや、プラネタリウムの故障は、不幸と呼ぶに値しません。わたしは皆見さんのことを意識し過ぎたため、あのときは、つい過敏に反応したのだと思っています。

 いま、わたしはこの手紙を、鶴の万年筆で書いています。最初は、「残暑見舞い」としてハガキに書き始めたのですが、万年筆の滑りがとてもよく、もっともっと書きたくなり、改めて便箋に書き直しています。

 待ってください。インクがかすれてきたので、インクを補充します。皆見さんからいただいたインクを使います。インクは万年筆を使う前に一応入れたのですが、慣れないため量が少なかったのでしょう。

 はい。これが新たに補充したインクで書いた文字です。黒といっても、少し青味がかった薄い黒のような気がしますが、どうでしょうか。

 わたしは、これまで貴方にとても失礼なことをしてきたのではありませんか。教授の娘という立場をいいことに、あなたの気持ちを弄ぶというような……。でも、わたしの心は、いつもいつも貴方に副っています。知らんぷりをするようなことがあったとしたら、それは、あなたにもっともっと積極的になって欲しいからです……」

 そこまで書いて、百合はハッとした。読み返してみる。こんなことまで、なぜ……。単なる残暑見舞いのつもりが、恋の告白のような手紙になってしまうのか。

 百合は、鶴の万年筆をじっくり、眺めた。

 書きやすい、書きいい。第一、書きたいことがどんどん湧いてくるのだ。こんなことはいままでになかったことだ。これなら、作家にでもなれるかもしれない。そんな気持ちにまで起きてしまう。

 万年筆を掌のうえに転がして行くと、番いの鶴が戯れながら、空を舞っているように見えてくる。鶴の舞いだ。

 百合は、明らかに尋常ではない状態に陥っていた。

 百合は、ふと万年筆のペン先を鼻に近づけた。

 すると、えも言われぬ芳しい香りが鼻孔を刺激する。これは、揮発成分をもつ液体だ。

 どうしたのだろう。インクは蒸発して、後に文字が残る。しかし、揮発と呼べるものではないはずだ。

 でも、気持ちが、気持ちが……、とても、とても、休まる……。

 百合はいつの間にか、万年筆を手に握ったまま、机の上に突っ伏していた。

「百合さん! 百合、百合ィ!」

 どこかでわたしの名前を呼んでいる。だれかしら?……雄太のような……、でも、そんなはずはない。彼とは、疲れたからといって、夕食もとらないで別れたのだから……。

 そのとき、香震の書斎が乱暴に開かれた。

 雄太だ。雄太は、机上にうつ伏せのまま、意識を失っている百合を見つけると、急いで抱き起こす。

「雄太ね。わたし、あなたのこと……好きよ」

「百合、百合さん、ホント!?」

「あなたのこと……、もっと、もっと知りたい……」

 百合は顔を伏せたまま、つぶやくように話している。

「いや、これは百合さんの本心じゃない。薬物が言わせているンだ」

 雄太は台所に走って氷水を作ると、書斎に取って返し、百合の口に含ませ、その頬をビシャリッと強く打った。

「キャッ!」

 百合がようやく目を覚ました。

「雄太、どうしたの?」

「百合、いや百合さん。あの皆見という男はとんでもないやつだったよ」

 雄太は、万年筆から、妙な香りがしたことが気になって、百合と別れたあと、クラブの先輩で現役の大学職員でもある人物に、電話をかけて皆見堅三という男について尋ねた。

 特に、退職した理由を中心にだ。すると、意外な事実が判明した。

 皆見は、2年前、自宅で大麻草を栽培していたことが大学関係者にバレ、事件を公けにしないことを条件に解雇されていた。

 皆見は大麻の常習者だった、ではなく、現在も常習者だとその先輩は言いきった。

 雄太は思い出した。そういえば、彼のアパートに行ったとき、ベランダに面する窓ガラスには、真っ昼間なのに、カーテンが引かれ、異常な感じがした。

 帰りがけに、外から、2階角の彼の部屋を見ると、ベランダの柵にも、外から見えないように、竹のすだれで厳重に目隠しがされていた。

 雄太は警察への通報よりも、百合のことが心配になった。万年筆に、大麻のエキスが仕込まれていたとしたら……。皆見のアパートを出たとき、3匹のビーグルたちが百合に対して、一斉にうなり声をあげたのは、万年筆から漂う大麻の香りが原因だったに違いない。

 そこで、雄太は夜間にもかかわらず、百合の自宅に駆けつけた。

 先輩によると、皆見は退職の際、教授を逆恨みしていたらしい。大麻の自宅栽培を密告したのは、教授だと思い込んで。

 これは後日判明したことだが、皆見が百合に万年筆を返したこの日は、皆見が妻と離婚した日でもあった。


 翌朝、所轄の警察は、皆見堅三を大麻所持の罪で逮捕するため、彼の自宅を急襲した。

 しかし、皆見は出かけていて、不在。警察は自宅を家宅捜索して、ベランダから数点の鉢に植えられ大麻草を発見、押収した。

 その頃、皆見は、ビーグルの婦人の家にいた。婦人は未亡人だが、夫と建てた小さな一戸建てのシャレた家に住んでいた。

 その居間で、皆見は婦人と話しこんでいた。居間には、テーブルなどの調度の上に、花の鉢植えが数点置かれている。

「皆見さん、ビーグルのこと、よろしくお願いします」

「こちらこそ、お仕事をいただけて感謝しております。では……」

 と言い、立ち上がった皆見は、花が植えられていない直径20センチほどの植木鉢を見つけると、

「奥さん、これは、もう花が終わったのですか?」

「はい。いまは土だけですので、花の種を買って来ようかなと思っています」

「それなら、いい花の種を持っています。待ってください」

 皆見はそう言って、ポケットから紙袋をとりだし、中から芥子粒大の種を掌に乗せる。

「奥さん、これは私の大好きな花の種です。きっと、きれいな花が咲きますよ」

 と言って、婦人がいいとも言っていないうちに、その種を鉢の土に播いた。

「これでいい。3ヵ月後が楽しみです」

 婦人は、あまり気乗りしないが、黙認した。

 皆見は種を播いた鉢の土をじっと見ている。顔色が青い。何かに取り付かれたように、鉢の一点を見つめている。


 1ヵ月後のある休日。

 雄太は百合と科学博物館に向かう道を歩いている。前回、故障したプラネタリウムを再度観賞するためだ。

 と、向かい側から、ビーグルを連れたあの婦人がやってくる。

 雄太と百合は、婦人と目が合い、思わず会釈した。

 婦人はリードを短くして、2匹のビーグルを体の脇にぴったりつけ、寄り添うようにしている。

「あのォ。この前、この道でお会いした方ですね」

 婦人が雄太に話しかける。

「そうです」

 百合は自然と雄太の陰になった。

「あのフレンチ・ブルドッグを散歩させていた方を、覚えておいでですか?」

「あの方が何か……」

「あの方、皆見さんとおっしゃいましたが、あの日の翌日、うちのこのビーグルの散歩をさせに来られて。それはいいのですが、わたしの家の植木鉢に、ある花の種を播かれたのです」

「花の種、ですか?」

「翌日、刑事さんが来られて、その種は大麻草の種なンですって。違法な薬草だから、もし芽を出して成長するようだったら、警察に連絡して欲しい、って。あの方、イヌの散歩の代行をされていたのですが、それは散歩の途中、あちこちに大麻草の種を播いて、大麻草をこっそり育てるのが目的だったらしいのです。刑事さんがそうおっしゃっておられました」

 雄太は、婦人がなぜ、そんな話をするのだろうかと怪しんだが。

「わたし、あの方はそんなに悪い方だとは思えないンです。それで、いまあの方がおられる拘置所に面会に行っています。もし、できましたら、あなた方に、嘆願書に署名していただければ……、いいえ、裁判で証言してくださっても……。これはいま思いついたことですが……」

 雄太は百合を見た。皆見が、万年筆を百合に返したことは警察には知らせていない。彼の目的が、教授や百合を大麻草で苦しめてやろうという意図があったとしたら……。

 実際、百合は、妙な気分に陥った。でも、あのとき、百合はつぶやいた。雄太についての気持ちを……。雄太はあのときの百合のことばを思い出し、急に胸が熱くなった。裁判では、そのことも証言しなければいけないのだろうか。百合が覚えていないのなら、百合を辱めることになりはしないか。氷水を百合に与えたとき、直接口から口へ、口移しで飲ませたことも、だ。

「百合さん。ぼくには、どう返事していいのか、わからない」

「雄太、あなたの好きにしたらいいわ」

 百合は、何もかも知っているとでも言いたげな、優しい笑みで雄太に応えた。

                 (了)

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万年筆 あべせい @abesei

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