時間の地図

みよしじゅんいち

時間の地図

もしかしたらぼくは死ななくてよかったのかもしれない。高架下の駐車場で雨垂れをよけたとき、あのとき車に轢かれてしまったのだ。それで一巻の終わり。もし雨垂れの落ちる位置がここじゃなかったら。もし歩行者通路の幅がこれよりもっと広かったら。もし車の速度がもっと遅かったら。もしヘッドホンをしていなかったら。もし振り向いていたら。もし、もしかしたら、もしも——。


自分の轢かれた事故現場の周りを、いつまでもうろついていたぼくに声を掛ける者があった。「時の流れにあるのは分岐点ばかりです」それは黒マントの男だった。

「ぼくが見えるんですか?」

「どうして合流点がないか分かりますか?」他に人影はない。明らかに彼はぼくに話しかけていた。

「あなたは一体?」

「申し遅れました。篠山郁郎しのやまいくろうと申します」

「名刺を貰うのは初めてです」名前だけが刷られた名刺だ。

「それは生まれてから? それとも死んでから?」

「両方でしょうか。生きているときにも名刺を貰ったことはありませんでした」名刺を裏返すとカラスの刻印があった。駐車場の天井からカラスが舞い降りて黒マントの肩にとまる。男はにっこりとほほえんで事故現場の方を指差す。

「ご存知ですか。すべての地図は設計図なのです」

「はい?」

「地図に山が描かれているから、かみさまは山をお創りになった。地図に海が描かれているから、かみさまは海をお創りになった」

「そうですか? 地図は山や海を測量して作るものだと思ってましたけど」

「たとえば、あなたがここにいる。ということは、どこかにあなたのことを描いた地図があるということです。そして、あの事故のことも——」

「無生物に限らないんですね。それってDNAとか、そういうもののことですか?」

「さあ、どうでしょう。——んむっ、ゲホゲホ」男は口を白いハンカチで押さえる。ハンカチが赤く染まっていく。男の肩のカラスがカアと鳴いて飛び立つ。

「大丈夫ですか?」

「大丈夫です」男は肩で息をしている。苦しそうな表情に見える。


「——そうだ。そういえば、もしかすると篠山さんは人の心が読めるんじゃないですか?」

「いいえ」

「さっき、あのときああしていたら、いまこうなってなかったかもしれない、って考えていたんです。そしたら、分岐点について話す篠山さんの声が聞こえて——」

「それは亡くなられた方、迷われる方は、みなさんそう思うものだからでしょう」

「そうですか。それで、その――合流点がないのはどうしてなんですか?」

「どうしてだと思います?」

「いや、分からないですけど、時の合流点とか初めて聞くので面白いなと思って」

「地図に載っていないからですよ」

「地図?」

「時間の地図ってご覧になったことありませんか?」

「時間の——地図? いいえ。見たことありません」

男は首をかしげる。それでは、ご覧に入れましょう。と、男はマントを広げぼくを包み込む。マントを開くと、そこはそこらじゅう時計だらけの部屋の中だった。


「ここは?」

「篠山時計店。わたしの店です」

巨大なゼンマイ式の柱時計がボーンボーンと音を立てる。仕掛け時計から鳩が出てくる。どこからかオルゴールの音色も聞こえる。男は引き出しから何か巻物のようなものを取り出して、僕に見せる。

「これは?」

「ご覧になったことありませんか。オルゴールの楽譜です」男が巻物を広げるとパンチ穴が調子よく並んでいる。「これこそ音楽の設計図、つまり時間の地図です」

「?」

「ひとつ鳴らしてみましょう」

ゼンマイを巻いて、オルゴールに楽譜を仕掛ける。聴いたことのない、けれどもどこか懐かしいような音楽が聴こえる。

「時の流れにあるのは分岐点ばかりです。——ひとつの曲が途中でふたつに分かれることを想像してみて下さい」

目を閉じて、僕はふたつに分かれてしまった曲のことを想像する。車に轢かれずに生きているぼくのことを想像する。ひとつのオルゴールが分裂して、別々のオルゴールが別々の曲を奏でていく。

「どうして合流点がないか分かりますか?」

「——地図に載ってないから?」ぼくは男の言っていた答えを繰り返す。

「そう。ふたつの曲が途中でひとつになる。そういう指示が書いてある楽譜が存在しないからです」

「なるほど。でも、それじゃあ——」

「そう。そういう指示を書き込んだらどうなるでしょう?」

「ふたつの曲が途中でひとつに混じり合う?」

「さあ、どうでしょうか。不協和音が曲を台無しにしてしまうかもしれませんね。——地図は、それぞれの人の心の中にあるものです。似ていますが、少しずつ違う。それが複雑に絡み合う」

「生き返ることはできないのでしょうか」

「あなたの人生は事故のとき、ふたつに分裂しました。雨垂れをよけて車に轢かれたあなたと、雨垂れをよけ損なって車に轢かれなかったあなたと。——もし生き返ることが出来たら、あなたは何がしたいですか?」

「けんか別れした兄に謝りたいと思います」

「そうですか。あなたともうひとりのあなたの地図がぴったり重なる場所——つまり、あの事故現場でふたりがぴったり重なれば、時の流れは合流するかもしれません。通学時間は覚えていますか?」

「はい。——あの、ひとつ質問があるんですが」

「はい? 何でしょう」

「ぼくが生き返ったとき、その、雨垂れをよけ損なって車に轢かれなかったぼくはどうなってしまうのでしょう?」

「あなたと混じり合うのか、入れ替わるのか、それっきり消えてしまうのか。よく分かりませんが、ひとつだけ分かることがあります。あなたが生き返るのなら、あなたは死ななかったのです」

「?」

「もうすぐ夜が明けます。もういちどマントの中に入ってください」男はぼくを包み込んだ。マントが開くとあの事故現場の駐車場だった。


死ななかったぼくが、走ってくる。駐車場を斜めに突っ切って。事故現場を通り過ぎるとき、ぼくはぼくの体をその通り道に滑り込ませた。つもりだった。そのとき、駐車場の天井の配管にとまっていたカラスがバサバサと羽音を響かせて、ぼくとぼくの間に滑り込んだ。

どういう因果がどう結びついたのか分からないが、そのときからぼくはカラスの中に入り込んで出ることができなくなった。黒マントの男は倒れて死んでいるように見えたが、もしかしたら、男は死ななかったぼくの中で生き続けているのかもしれない。ぼくはカアカアと鳴き続けた。

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