芥川

秋月

芥川

 むかし、女がいた。


 わたしは小さいころから屋敷に住んでおりました。外に出掛けるのも詣でのときぐらいで、屋敷の中で変わらない景色を見ながら育ちました。お香に文に季節ごとの催しと、姉さまは楽しそうにしていらっしゃいますが、毎日、毎年が同じことの繰り返しで、面白いのははじめの二、三回だけ。とっくに飽きてしまいました。それに姉さまは噂話が好きで、わたしにもよく話をしてくださいました。姉さまは楽しそうにお話しするのですが、どれも同じ話のように聞こえて、一日経つと忘れていました。


 楽しいこと、胸を躍らせるようななにかをいつも待ち望んでいました。それこそまさに恋愛のことではないか。そうおっしゃる方もいるかもしれません。たしかに恋愛は、はじめのうちはわたしの胸を躍らせてくれるものでした。けれど長くは続きません。はじめて男にあうときが最も楽しいときで、二回、三回と重ねていくうちに、わたしの心は少しも男に動かされないようになっていきます。送られてくる文も、共寝のときに口にする言葉も、いつも同じで、飽きずにはいられましょうか。

 文も返さず、御簾の中に入ることも許さないでいると、男は他の女のもとに行きます。きっと誰でもよかったのでしょう。それはわたしも同じことで、しばらくするとわたしのもとには別の男が通ってきて、しばらくするとわたしは男に飽きました。その繰り返しです。


 わたしは思いました。ここにはわたしの胸を躍らすようなことが一つとしてない。この屋敷にいては、同じような日々を送っていくばかり。退屈な日々の中でわたしは老いて、皺だらけの老婆となって、死んでいくだけ。そんなことを考えておりますと、気がおかしくなりそうでした。どうにかしてこの退屈な日々から抜け出したい。

 そう思っていたとき、ふと日の光が目に飛び込んできました。それは山の奥から、わたしの目を射抜かんばかりの強い光を発していました。このままでは目の力を失ってしまう。それなのに強い力に引きよせられているようで、どうしても目を逸らすことができません。視界がぼやけ、どこまでが屋敷の中でどこからが外の世界なのか、分からなくなりました。ただ日の光だけが感じられるようになったとき、わたしは悟りました。あの光のもとにわたしが求めるものがあるのだと。そこにはきっと色鮮やかな世界が広がっていて、なにもかもがわたしの目に鮮明にうつります。そこでわたしはわたしが生きている意味を知ることができるのです。

 あの光のもとに行きたい。

 そんなことを思って過ごしていると、男が目の前に現れて、叫び声をあげる暇もなく、わたしを屋敷の外に連れ出してしまいました。



 びゅうびゅう、頬に風が吹きつけます。男はわたしを担いだまま、どんどん屋敷から離れていきました。外は暗くてなにも見えません。男が勢いよく走るので、わたしは何度も男の背中から振り落とされそうになりました。こんな場所で振り落とされたら、屋敷に連れ戻されてしまう。同じことの繰り返しで、時間だけが過ぎていく日々。そこだけは戻りたくありませんでした。屋敷からわたしを連れ出してくれた男に必死でしがみつきました。

 どれほどそうしていたのでしょう。しだいにあたりが明るくなってきて、まわりのものが見えるようになってきました。首を上げると、真正面から光が差していました。強い光が目に飛び込んできて、心臓の鼓動が激しくなりました。やはりわたしが目指すべきものはあの光なのです。

 川にやってきました。実際に目にするとこんなにも清々しい気分になるのですね。水飛沫が勢いよくあがり、水の音が心地いいです。ふと草の上の光るものが目に入りました。玉よりも強い光を放つそれは、目を凝らしてみると、こっちの草の上にも、あっちの草の上にも、至るところに散りばめられていました。

「あれは、なに」

 男にたずねてみました。けれど、男は進むことに一生懸命で息も切れ切れでしたから、答えは返ってきません。

 男はときどき後ろを振り返って、誰もいないことを確認すると、前を向いて歩き出しました。休むことなく進んでいると、ふたたび夜がやってきました。暗闇の中で、男の息遣いと身体の熱だけを感じていました。

 荒れ果てた蔵がありました。夜が更け、さすがにこの闇の中を進むことはできないのでしょう。男はわたしを蔵の中に押し込めると、そこでわたしを抱きました。蔵の中はあまりにも冷たく、身が凍えると思うほどでした。わたしは男にしがみつきました。先ほどまで歩き通しだった男の身体は熱く、この男とくっついている限り、凍えることはないと思いました。

 蔵の中できつく抱き合っておりますと、男はわたしから離れて立ち上がりました。

「追手が来ていないか、確かめてくるから、ここで待っていてください」

 そう言って、弓と胡簶を持って出ていこうとする男の腕をわたしは掴みました。

「こんな冷たいところにわたしを置き去りにするのですか。一緒にいて、わたしのことを温めてください。このままだと凍えてしまいます」

「すぐに帰ってきます。これもあなたと一緒にいたいがためなのです。あなたと離れることは、私にとっても身を切り裂かれるような思いです。必ず、戻ってきます。だから待っていてください」

 男がいなくなると、蔵の中も急に冷え込んだようでした。蔵の入り口はかたく閉ざされていて、しばらくは男も戻ってきそうにはありません。がらんとした蔵で一人、寒さに震えておりますと、おい、おい、と後ろから声が聞こえてきました。物の怪でしょうか。それにしては声に親しみが込められているような気がします。おそろしいと感じながらも振り返ってみると、そこには一年前に死んだ従兄がおりました。兄さまが言うには、私は一年前に病によって死んでしまったが、一つだけやり残したことがある。それはお前と契りを結ぶことだ。それが叶えられないために、私の魂は浄土に行くこともできず、今日までここにとどまっている。何度もお前の前に姿を現わそうとしたが、屋敷にはなかなか近づけなかった。しかし、時はついにやってきた。男に連れられてお前は屋敷の外に出た。私はお前の前に姿を見せる機会を今か、今かと待っていたのだよ。

——さあ、私と一緒にくるのだ。


 蔵の入り口が強い風でも吹いたように勢いよく開き、兄さまはわたしの腕をとって走り出しました。外はひどく雨が降っていて、雷まで鳴っていました。兄さまと手を繋いでいると、まるでなにかに吸いよせられるみたいに、ものすごい速さで走ることができました。木にぶつかることも地面につまずくこともありませんでした。脚は鹿のように力強く地面を蹴り、このままどこまでも進んでいけそうでした。

 兄さまと一緒に走っていると日がのぼりはじめました。今度もわたしの進む先に光がありました。兄さまが立ち止まったのは、藁で作られた家の前でした。そこは日の光が少しも入らない家で、中に入ると兄さまはわたしを抱きしめました。

——ああ、わたしの長年の願いはようやく叶った。

 死人だからでしょうか、兄さまの身体は氷のように冷たいものでした。大きな氷を抱き締めているようだと思っていると、不思議なことに熱を感じました。兄さまの身体の奥にある熱い炎のようなものが、兄さまの冷たい身体を通してもなお冷めることなく、わたしの身体に伝わってくるのです。

——長いことお前のことだけを想っていた。これからもお前のことだけを想い続けるよ。

「わたしも兄さまのことだけを想います」

 身体中が熱くなりました。兄さまの熱によってわたしの身体が温められていると思ったのですが、どうも違うようです。熱はわたしの内側から兄さまの熱に反応するようにして生まれていたのです。

 兄さま、兄さま。名前を呼んでおりますと、わたしの内側の熱も兄さまの熱もどんどん熱くなっていきました。いっそ、このまま二人で焼け果ててしまいたい。そんな思いにとりつかれました。


 数日が経ちました。わたしは草や木の実を食べて飢えをしのいでいたのですが、そろそろ限界でした。一日に何回か、鬼につねられたようにお腹が痛むのです。いたい、いたい。お腹をさすりながら、わたしはうったえました。

——私は腹が減ることはないが、お前は腹が空いてしまっただろう。村に行ってどこかの家から食べ物を持ってくるから、待っているんだよ。

 兄さまはそう言って家を出ていきました。

 兄さまがいなくなると、わたしは激しい痛みを感じました。今度の痛みはお腹の中のあらゆる部分を針で突き刺されながら、火であぶられているようでした。

 いたい、いたい。叫んでおりますと、おい、と表から声が聞こえました。戸を開けると、頭に笠をかぶった男が立っていました。

「これはどうしたのです」

「お腹が、お腹がいたむのです」

 男は小さな瓶をとり出すと、瓶の中に入った液体をわたしに飲ませました。液体を飲むと、先ほどまでの痛みは嘘のように消えてなくなりました。あれほどの痛みが一瞬にして。この男はいったいなにものなのでしょう。

 たずねてみると、男は浄土を目指す僧でした。三日前、男は夢で浄土に行ったそうです。そこは息をのむほどの美しい景色が広がるところのようで、川はせせらぎ、鳥はさえずり、木々はそよそよと揺れる。どの建物もみな豪華で、金銀や玉はそこかしこに散りばめられているようです。男は夢の中で浄土への行き方を授かり、目を覚ますとすぐに浄土に向けて出発したとのことです。

「わたしも一緒に連れて行ってもらえませんか。浄土という場所を見てみたいのです」

「浄土への道はけっして楽なものではない。いくつもの険しい道を進み、ときには海だって超えるのですよ。それがあなたに耐えられますか。浄土に辿りつく前に、魑魅魍魎がはびこる地で命を落とすことだってあるのです。そこまでして、あなたは浄土に行きたいと思いますか」

 男の目がわたしの顔を真正面からとらえました。わたしは羨まずにはいられませんでした。ああ、この目がうらやましい。たとえ夢であっても、浄土を見たという目が。わたしは浄土に行って、この目でその場所を見てみたい。

「連れて行ってください」


 わたしは男と一緒に浄土を目指すことになりました。自分の足で一歩ずつ浄土に向かって進んでいきました。しだいに足のうらが腫れ、足を動かすたびに痺れるような痛みがはしるようになりました。痛みに耐えながら歩いていると、徐々に足の感覚がなくなっていきます。痛みもなにも感じなくなったころ、ふと足の裏を見てみると、皮膚はめくれあがり、血の色なのか肉の色なのかは分かりませんが、足の裏全体が真っ赤になっていました。野をこえ、山をこえ、川を渡り、海をも渡りました。気の休まるときは一秒たりともありません。恐ろしくなって、諦めようと思ったことも一度ではありません。そんなとき、わたしの目には必ず光が飛び込んできました。いつも行きたいと願っている光のもとにある世界、その世界こそが浄土なのです。やはりわたしはなんとしてでも、行かなくてはならない。

 来る日も来る日も浄土に向かって進んでいると、いきなり日の光が強くなって、視界にうつっていたものは全て光の中に消えました。とても目が開けられる状況ではなく、わたしは目を固く閉ざしました。


「着いたぞ」

 男に言われて目を開けてみると、わたしは浄土にいました。足の下に続くのは先ほどまで進んできた地とはまるで違って、玉のようにまばゆい光を放っています。目の前には光を放つ楼閣がそびえたっております。

 楼閣に入りますと、わたしの身の丈の二倍もある大きな人が、果たしてそれは本当に人なのでしょうか、待ち構えていました。男は大きな人のもとに進むと、平伏をし、奥へと進んでいきました。

 わたしも同じように前へ進むと、大きな人が語りかけてきました。

——お前をこの先に通すわけにはいかぬ。お前はあの男と違って、ここに呼ばれていない。お前はここに来るまで、どれほどの罪をなした。

 語りかけられて、考えようとしました。けれど、まわりにあるまばゆいものに目を奪われて、過去を振りかえることができませんでした。

——まさか、生涯をかけてお前を愛そうとした男のことを忘れたとは言うまい。その男を裏切ったばかりではなく、お前は自分の心にまかせてあらゆる男に身をゆだねた。その罪の重さはどれほどか。やはりこの先に通すことはできない。

「お願いです。屋敷の中にいるときから、わたしはこの先の世界に行くことだけを考えていました。お願いです。そこを通して」

 奥へ進もうとしましたが、身体が動きません。いくら力を込めても、足は少しも動きませんでした。

——お前は地獄に行って、罪を償わなくてはならない。お前の心は一所にとどまることを知らない。そんなお前の心には太い釘を打ちこむことにしよう。心に釘を打ちこまれたまま炎で焼かれるのだ。それがお前に見合う罰だ。すぐにその女を連れていけ。

 大きな人が命じるとわたしの身の丈と同じくらいの従者が出てきて、わたしを楼閣の外に連れ出しました。楼閣から遠ざかると、足の下に広がるのは玉のような光を放つものではなく、かたい岩のようなものに変わっていました。歩いていくうちに徐々に暑くなり、熱を含んだ空気に息がつまりそうでした。

 喉は干からび、汗はとめどなく流れていきます。この暑い中をあと一歩でも歩いたら、倒れてしまう。そう思っていたころに従者は足を止めました。従者の手には、わたしの腕と同じぐらいの長さの大きな釘とその釘を打ち込むための槌がありました。正面に目を向けると、炎がごうごうと燃えていました。音を立てながら、炎は勢いを増していきます。炎を前にして、わたしは魂を奪われたようにぼんやりとしていました。これほど激しくて、熱くて、美しいものに、わたしは出会ったことがありませんでした。やっと出会えた。わたしが探し求めていたのは光なんて生温かいものではなく、この強烈な炎だったのです。導かれるように炎に近づいていくと、後ろから釘を持った従者もついてきました。

 もうすぐわたしは心に釘を打たれて、炎に焼かれます。それはわたしの想像を絶する痛みでしょう。わたしはその痛みに一秒たりとも耐えることができないかもしれない。けれど、不思議なことに、わたしはその痛みを受けてみたいと思うのです。その痛みのことを考えると、わたしの心臓は暴れまわります。わたしの身体を突き破ってしまうのではないかと心配になるほどに。きっと釘に刺されてもわたしは、わたしの心は、一所にとどまることはないのです。いいえ、前にも増して激しく動き回ることでしょう。ああ、早くその炎を自分の身で感じてみたい。

 一歩踏み出すと、わたしの足を燃えさかる炎が焼ききりました。その瞬間に、わたしは生の叫び声を上げていました。

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芥川 秋月 @m-shion

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