山に入る

尾八原ジュージ

さわちゃんのこと

 初恋の相手だったさわちゃんが、神隠しにあって突然いなくなったのは十歳のとき、そして突然帰ってきたのはその六年後だった。

 まだ十六歳のはずなのにさわちゃんの髪は真っ白になっていて、無駄な肉なんかちっともないみたいにきれいに痩せていた。おまけに頭の左側がべこっとへこんでいて、そのせいかやけにぼーっとしていた。

 さわちゃんが帰ってきたその日は、さわちゃんのお母さんの葬式だった。神隠しに遭って以来ずっと山で暮らしていたさわちゃんは、お母さんを見送るために山から下りてきたらしい。葬式が終わって帰ろうとするのを、さわちゃんのおやじさんやおばあちゃんなんかが引き留めた。それでさわちゃんは山に帰るのをやめて、こっちに住むことにしたらしい。


 山から帰ってきたさわちゃんは、まるっきり変わってしまっていた。昔はてきぱきしてておしゃべりで、いっそうるさいくらいの子だったのに、今はいつも影みたいにぼーっとしている。薄めた絵の具で書いた絵みたいに実体が薄くって、一日中空なんか見ている。それで心配した近所のだれかが、さわちゃんに田んぼを手伝ってくれと頼んだ。働いてほしいというより、何かやることがあったほうがいいだろう、という気遣いだったらしい。さわちゃんは「ええよ」って答えて、にこにこ笑った。

 で、さわちゃんはその日一日、本当にぶっ倒れるまで働いた。どうやら頼まれごとをされると、体が勝手に動いちゃうみたいだった。それでもずっとにこにこしているさわちゃんは、もう健気とかじゃなくて異様としか言いようがなかった。何度かそういうことが起こって、そのうちだれかが気づいた。さわちゃんは「いやだ」と言わなくなった。というか、何かを拒否するということがなくなったのだ、と。

 それでどうなったかっていうと、さわちゃんに面白半分で「やらせてよ」って言う奴らが出てきた。で、さわちゃんもにこにこしながら「ええよ」って服を脱いでしまう。

 もちろんそんなことやってたら揉め事の原因になる。さわちゃんとやった男と付き合ってた女がさわちゃんにキレて、ぽーっとしてるさわちゃんを小突き回して田んぼの中に落としたことがあった。さわちゃんは半裸なうえ、泥でぐちゃぐちゃになって座り込んでいるところを見つかった。今度はさわちゃんのおやじさんが怒り狂い、村中を怒鳴りながら回って犯人さがしをしたりした。でも肝心のさわちゃんはにこにこしていて、やっぱりなんにも気にしてないって感じだった。


 こういったさわちゃんのあれこれを、おれは母から散々に聞かされた。さわちゃんが何をしてたとか、だれとやっただとか、そういうことがきっと井戸端会議で取りざたされているのだろう。でもさわちゃんは、そういうこともちっとも気にならないらしかった。で、母はあえておれにそういう情報を流してくるのだ。

 確かにさわちゃんはおれの初恋の女の子だ。そのことを見抜いているので、母はおれに色々言ってくるわけだ。これこれこういうわけだから、今のさわちゃんにはあんまり関わるな、という意図がある。

 それを無視して、おれは毎日のようにさわちゃんに会いに行った。

 だってさわちゃんはおれの初恋の女の子なのだ。初めて出会ったときのことをまだ覚えている。小学校の入学式の日、満開の桜の下で写真を撮っていたさわちゃんを見たとき、急に世界の色が変わったような気がした。今思えばそれが恋に落ちるってやつで、その日からさわちゃんはおれの世界の太陽になったのだ。


 初めて様子を見に行ったとき、さわちゃんは縁側でちくちく何かを縫っていた。婦人会が保育園に寄贈するのをやらされてるらしいが、どうにもへたくそで、お手玉には血がついていた。でもさわちゃんは顔色ひとつ変えずにお手玉を縫っている。その横顔を見て、おれはまださわちゃんへの恋が自分の中に生きていることを確かめた。白髪頭でも頭が凹んでても、さわちゃんはおれの好きなさわちゃんのままだった。

「ひさしぶり、さわちゃん」

 思いきって声をかけると、さわちゃんはこっちを向いて無言でにこにこ笑った。

「さわちゃん、おれのこと覚えてる?」

「みとくんでしょ。そろばん一緒に習ってたよね」

 さわちゃんはそう言った。おれは嬉しくて、急に泣きそうになってしまった。

「あのさ、今話せん?」

「ええよ」

 おれはさわちゃんの隣に腰かけた。六年間会わなかったことへのためらいだとか、気恥ずかしさなんか、どこかに消えてしまったみたいだった。

「さわちゃんどこ行ってたん?」

「山」

「山で何してたん?」

 さわちゃんは答えない。にこにこ。

「おれ、さわちゃんのこと好きじゃったけぇ、さびしかった」

 おれがそう言うと、さわちゃんは「しってる、ありがと」と言って、またにこにこした。それは照れるでもなんでもない、ただの「ありがと」だった。

 ちょっと憎らしいなと思った。それと同時に考えた。さわちゃんは本当になんでも「ええよ」ってやってくれるんだろうか。それがどんな頼みでも、本当に聞いてくれるんだろうか。さわちゃんなんかただの穴だと思ってるやつの頼みでも、おれの頼みでも、平等に「ええよ」って言ってしまうのだろうか。

「さわちゃんさ――ちょっと、おれの頼み聞いてくれる?」

「ええよ」

 さわちゃんはその「頼み」っていうのが何かも知らず、笑ったままそう言った。


 おれはその日の夜、さっそくさわちゃんを呼び出した。無免許で持ち出した軽トラックの助手席に乗せて、「とりあえず隣で見ててくれたらええよ」と告げ、アクセルを踏んだ。

 さわちゃんとやったことがあるやつなら、正直誰でもよかった。たまたまひとりで夜道をふらついていた酒屋の三男坊を見つけたおれは、そいつを軽トラで撥ねた。ブルーシートでくるんで荷台に乗せ、人気のない海辺に連れて行った。そのときもさわちゃんはにこにこしていた。ブルーシートの上から包丁でざくざく刺したときも、おれはかーっと頭が熱くなったのに、さわちゃんはやっぱりにこにこしていた。

 誰もいない埠頭で真夜中の真っ黒な海を見下ろしながら、おれはさわちゃんに「おれのこと好き?」と尋ねてみた。

「うん」

「うそやん」

「ほんとだよ」

 さわちゃんの顔はデコボコになっていた。おやじさんに殴られたのだ。誰かに「家から金持ってこい」って言われて、やっぱりすぐに「ええよ」って答えたらしい。で、やっぱりにこにこしながら、家にあったお金をありったけ持っていったらしい。

「さわちゃんはさぁ、なんでそんなに、ひとのいうこと全部聞いちゃうわけ?」

 おれの質問に、さわちゃんは「うーん、わかんない」と答えた。

「みんなのこと、すきだからかなぁ。だから役に立ちたいのかも」

「おれのことも好き?」

「うん」

「酒屋の三男は?」

「すきだよ」

「じゃあ、なんで殺すの手伝ってくれたの?」

「みとくんがそうしたいって言ったから」

 にこにこ笑うさわちゃんは、こんなときだけどすごくかわいいと思った。それと同時に、やっぱり人間じゃないもののルールで生きてるんだなって感じがした。神隠しにあうと、人間ってみんなこんな風になってしまうんだろうか。

 おれはびくびく震えている瀕死の男を、ビニールシートごと海に落とした。ぼちゃんと音がして、その音が可笑しかったらしく、さわちゃんはくすくす笑った。


 さわちゃんのお腹が大きくなってきた。まぁだれかれ構わず言われるままにやらせていたのだから、いずれはそうなるだろうと皆が内心思っていた。もちろん誰の子どもかわからない。酒浸りになったおやじさんが例のごとく怒鳴りながら村中を練り歩いたけれど、結局お腹の子どもの父親はわからなかった。

 みんなが気づいて噂になったときには、さわちゃんのお腹の子どもはもう堕ろせないくらい大きくなっていた。産まれたら誰の子かわかるじゃろ、なんて皆が言っている。ああ厭なとこに産まれてしまうんだな、と俺は思った。きっと祝福なんかされないに違いない。もしもその赤ん坊を棄てろと言われたら、さわちゃんは「ええよ」と答えて、にこにこ笑いながら放り出すんだろう。

 そんな想像をするとたまらなくなって、おれはさわちゃんの家に急いだ。玄関にふわふわ出てきた彼女に「それ、おれの子じゃけえ。結婚しよ」と言った。

「ええよって言いたいけど、うちらまだ結婚できなくない?」さわちゃんは珍しく即答しなかった。「それにお腹の子、みとくんの子じゃないし」

 それはその通りだった。さわちゃんとやった奴らと同じところに堕ちるのが嫌で、おれはまださわちゃんと一度もセックスをしたことがなかった。だからおれの子であるはずはないのだが、そんなことははなからわかっている。

「ほいでもおれの子じゃって言うたらええがな」

「なんで?」

「なんでもよ」

「みとくんは、わたしのことすきなん?」

「そんなん、好きじゃろ普通。好きでなかったらあんなことやれんのよ」

 おれの頭の中に、海に沈んでいった酒屋の三男坊の白目をむいた死体が、ぷかぷかと浮かんできた。さわちゃんはやっぱりにこにこ笑っていた。


 それからまもなく、さわちゃんは大きな腹を抱えたままいなくなった。

「やまにかえります」という置手紙があったらしい。消防団が山狩りをやったけれど、結局見つからなかった。

「あれでさわ子も里の女じゃけえ、山の男との子供がでけんから、子種だけもらいに来たのとちがうか」

 いなくなったさわちゃんのことを、皆はそんなふうに噂した。でもそのうち下火になった。何年か経つうちにはさわちゃんのおやじさんも死んでしまい、余計にみんなさわちゃんのことを口に出さなくなった。

 おれは高校を卒業して就職して、もう何年も経った。相変わらずこのクソみたいな田舎が嫌いで、大人になって仕事を持って、その気になればいつでもここから逃げ出せるようになった。でもまだおれはこの村に住んでいる。山があるからだ。おれは時々ひとりで山に入る。山の中を歩き回りながら、さわちゃん、さわちゃんって呼んで探す。会えたことはまだ一度もない。

 山を歩き回った後は必ず夢を見る。おれに「わたしのことそんなに好きなの?」って言って、にこにこ笑うさわちゃんの夢だ。

 好きだよ。大好きだよ。子供のままごとじゃなくて、本当にものすごい、人生を変えちゃう初恋で一目惚れだったんだよ。そうじゃなきゃ、おれだってとっくにさわちゃんとやってたし、酒屋の三男坊を殺したりしなかったし、故郷なんかとっくに捨てて、山になんか一生入らない。

 おれが今もこうやって山に来るのは、こうやって何度も何度も来れば、いつかさわちゃんはおれの葬式くらいは来てくれるんじゃないかって、そう思うからなんだよ。

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