第3話 密談
叶は我慢しきれずに、目の前の冷めた紅茶を口に含み、唇を湿らせた。そして、思わぬことを口にした。
「実は、私も知っているんです。そのクラスメイトの男児は
叶につられるようにティーカップを持ち上げていた犬飼は、思わずその手を止めた。
「どうして?」
「丸刈りで、なよなよしていて、モヤシみたいに背だけ高い病弱な子。何をされても、何を言われても、へらへらしていたから、貴方は気に食わなかった」
叶の目も唇も、半月状に歪む。犬飼は脂汗をかきながら、ティーカップをもとの位置に戻した。同い年で同郷出身者なら、江向を知っていてもおかしくはない。しかし、今の発言はそんなレベルの語り方ではない。犬飼は急に目の前の女が、得体のしれない不気味なモノに見えてきた。そんな犬飼の反応に、叶は哄笑した。その後、叶は笑みをたたえたまま、右手で自分の胸を示した。
「まだ、分からないの? 俺だよ」
「まさか」
犬飼は音を立てて、ソファーから立ち上がった。
「そう。俺が江向小那。芸名は叶紗江。簡単なアナグラムだよ。気付かなかった?」
叶はくっくっと、喉を鳴らして笑いながら、紅茶をすする。犬飼は青ざめた顔で、叶を呆然と見つめていた。
「まあ、性転換手術もしたから、分からなくても当然か」
「騙したのか?」
「騙す? 俺が詐欺師なら、そっちは窃盗犯じゃないか」
嘲笑する叶を、犬飼は睨みつけた。しかし叶は微笑するだけで、全く動じない。
「俺の事見下していたくせに、俺のネタで有名になった感想はどう?」
「何がネタだ! 怪談というのは元々は口伝。何が誰のものという概念を持ち出すことこそ、浅はかだ。知らないなら、教えてやるよ。怪談の類はどこが元ネタかは分からない。文字伝承とは性質が異なるものだ」
再びソファーに座り直した犬飼は、唾を飛ばしてしゃべり続ける。叶はパーテーションがあって良かったと呑気なことを考えながら、紅茶に檸檬を絞った。数滴の果汁が、紅茶の中に広がる。その檸檬の果汁が叶の指を濡らした。叶はそれを妖艶な舌で舐めとった。そして、目の前で講釈を垂れ続けていた犬飼を見て、くすりと笑った。
「君の言う通り、口伝の起源論は無意味かもしれない。そして同じ話でも、いくつものバージョンが存在するから面白い」
叶がロングスカートの下で足を組んでそう言うと、犬飼も「分かっているじゃないか」と満足気にうなずいた。
「実はね、小学校の時君に教えた怪談は、俺が聞いていたのとちょっと違うんだ。そう、さっき、君が俺に得意気に披露してくれたキャンプの肝試しの話し。君にはキャンプ場の神社って言ったけど、俺が聞いたのは君の家の近くの神社だったんだ」
「何だと⁉」
「でね、君には鳥居をくぐらなかった生徒が数日後に死ぬって言ったけど、実はあれも違っていたんだ。本当はね、鳥居をわざと何度もくぐらなかった男が、数日後に死ぬって聞いてたんだよ。神様を試すなんて、いけないことだもんね?」
「そ、そんなの、迷信じゃないか。俺を怖がらせようなんて、百年早いよ」
「そう。口伝は迷信。君は得意気にそう語っていたじゃないか。だったら、何故今、そんなに震えてるのかな?」
叶は怨嗟のこもった目で、犬飼をにらみつけた。ずっと、犬飼が憎かった。自分を見下していたくせに、自分の語っていた怪談で私腹を肥やし、周りにちやほやされる男。さも当然のように、嘘を言って仕事を得る男。口伝は迷信なんてホラ話を、テレビで堂々と話す男。学者には相手にされていなかったようだが、テレビや雑誌では歓迎されていた。いつの間にか、怪談作家なんて肩書までついて。
叶に怖い話をよくしてくれたのは、一人で叶を育てた母だった。母は、叶が中学校に上がる頃に事故死していた。母との思い出を、叶はこの犬飼という男に穢され、盗まれていると感じた。だから、「いつかお会い出来たら」という言葉は、本物だった。
「構っていられるか!」
犬飼は自分の横に置いていたショルダーバッグを、肩に掛けることもせずに出て行った。そのバッグを握った手がまだ震えているのを、叶は見逃さなかった。
「気を付けて」
逃げるように部屋から出ようとしていた犬飼の背に、叶は言葉をぶつけた。
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