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 中座しても、ノーラン氏は特に気にしている様子でもなく、落ちつきはらってソファに腰をおろしていた。

「あなたの侍者じしゃはなかなか可愛らしいですね」と彼は言った。

「彼は侍者ではないんですよ。ちょっと事情があって預かっている子で――よく手伝ってくれていますが」

 氏はそれ以上なにも言わずに目を細めた――一瞬、そのスチールグレーの瞳が全く色を欠いたように見えて、私もディーンの言うように首のうしろが冷たくなるのを感じた。

 ノーラン氏におかしなところがなにもないといえば嘘になる。名前からしてアイルランドふうの発音なのはともかくとして、時折、どこかわからないかすかな訛りが入る。不躾にあたらないぎりぎりの時間、こちらをじっと見つめるのも。

 ディーンが居心地の悪さを感じたのもおそらくそのせいなのだろう。思春期の子供というのはただでさえ敏感なものだし。 

 それに、物腰どおりにエグゼクティブなのだとしたら、そういう人たちはえてして時々、自分のふるまいに無頓着なところもあるから……。

「こちらでの生活には慣れましたか? 東部とはなにかと違う点も多いでしょう」

 と氏。

「ええ。教区のみなさんはおだやかで、ボランティア活動にも熱心なかたが多いので……あなたも参加されてみては? すぐに友人ができますよ」

「隣人がなにをしているのかわからないところとは違うというわけだ。以前私のいたところでは、隣にユダヤ教徒が引っ越してくるというだけで大騒ぎになったものだが」

 少し身を乗り出すようにして、

「でも神父さん、あいにく私はそうした活動に参加するつもりはない――時間がないというわけではないんですが」

「それはもう、個人の事情ですから。お仕事の都合もあるでしょうし――」

 投資家だというノーラン氏は、皮肉めいた微笑みをうかべた。

「率直に言いましょう、神父。私はあなたに、神へのとりなしを頼めないかと考えている。人狼の仔をそばに置いているあなたなら――」

 なにを言われたのか理解するのに時間がかかった。ノーラン氏はテーブルを挟んでソファに座っていて、三フィート〔1m〕は離れているのに、そのグレーの瞳がすぐ目の前にあるかのように、吸い込まれそうにどんどん大きくなっていき……

 そのとき、茶碗とトレイがいちどに落ちて割れるものすごい音がした。

「クリスから離れろ、この悪魔!」

「――ディーン!」

 呪縛が解けた。首だけふりむいた視線の先にディーンの姿があった。目が黄色に輝き、唸るようにむきだした犬歯が伸びて、黒髪が逆立って、一部はたてがみのように首筋を覆い始めている――まずい!

「ディーン、落ちつくんだ!」

 興奮している彼のほうへ踏み出して、こっちもまずいと思ってふりかえる。

「ノーランさん、彼は――」

「べつにどうもしませんよ。あなたの子犬のほうが、私のことを嗅ぎ当てるのが早かったようだ」

 ふつうの人間なら、目の前で、低予算のホラーフィルムのように人の顔かたちが変わって毛むくじゃらの犬の耳が生えてくるのを見たら、自分の目が信じられずにパニックを起こすか、腰を抜かすかするはずなのに、ノーラン氏は慌てるふうでもなくゆっくりと立ち上がった。

「……あなたは何者なんです」

 私は低いうなり声をあげているディーンに背を向けて、この正体不明のグレーの瞳の人物と対峙した。

「私は地獄の住人じゃない」彼は心外だというように鼻を鳴らした。「この体も借りものじゃない。生まれたときから使っているものだ。もう六百年以上になるが」

「――吸血鬼め!」

 ディーンが吠えて、いつも首にかけている十字架の鎖を引きちぎった。

「私に十字架は効かないよ」

 それを横目で見て、ヴァンパイア氏は言った。

「私が吸血鬼になったのは、キリスト教とは無関係の事情からだからね。――神父、落ちついて話をしようじゃないか。私はあなたに危害を加える気はない。襲うつもりなら、その番犬が台所に消えた時点でやっている」

「クリスを騙して家に入れさせたじゃねえか! さっきだって催眠術をかけようとしてたくせに!」

 吸血鬼は少しのあいだ目を伏せた。祈るときのように、下ろした両腕の手のひらを上に向けて、

「それについては謝罪しよう、マクファーソン神父。あなたはあなたの意志で私を招待したから、私を追い出すことはできない――だが、催眠術をかけようとしていたわけじゃない。私にそのつもりがあったか、という意味なら」

「……」

 正直言って呆気にとられた。吸血鬼に遭ったのは初めてだったが、これほど率直な吸血鬼はめずらしいのではないだろうか……。

「……わかりました」

「クリス! 本気マジで言ってるんじゃないよな⁈ 吸血鬼に出遭ったら殺せっていうのが俺の一族のルールなんだ。あんただって神父だったら、こいつが悪魔の同類だってわかってるはずだろ⁈」

「あなたの言うように、神の家も十字架も恐れない吸血鬼が存在するなら、私が対抗することはできないでしょうからね」

「存在――? 仮定法だね、神父。たしかめてみればいい」

 ノーラン氏はきれいに爪が整えられた右手を差し出した。半信半疑で握手をするとすぐ――死んだ魚どころではなく――生きている人間の体温ではないことがわかった。ドライアイスを詰めた棺の温度と、かさかさに乾いた革の感触だった。

「お望みならこっちも触ってみるかね」

 彼が自分の胸を指したが、それは遠慮した。

「それじゃ、最初からやりなおそうじゃないか」

 ノーラン氏はソファに座りなおした。まるで自分の家でくつろいでいるようなその態度に、つられて腰をおろしてしまう。

「クリス! こいつの言うことなんか信じちゃダメだよ!」

「キャンキャンうるさい仔犬だな。神父、どうにかしてもらえないか?」

ノーランさんミスター・ノーラン」私は言った。「あなたが礼儀を守ってくれたので、話を聞くと言ったのですよ。彼は私の家族だ。私と話をしたいなら、彼に対しても礼儀マナーを守ってください」

 ヴァンパイア氏は片方の眉を上げたが、

「……彼に、少し静かにしてくれるよう言ってもらえないだろうか?」

 視界のすみに、ディーンが鼻の前で片手をひらひらさせているのが映った。

「やめなさい、ディーン。自分の部屋に行きなさい――割れた食器はあとで片づけておくから」

「なに言ってるんだよ、クリス! こいつのいい人ぶりなんて外面そとづらだけだぜ。俺がいなかったらどうなるか――」

 声に込めた響きに気づいたのだろう、ディーンはうなだれた。ぎらついていた黄色い眼が黒に戻っている。

 彼はぺたんと床に座り込んだ。

「ねえ、頼むよクリス、おとなしくしてるからさあ。ほんとにあんたが心配なんだよ。その吸血鬼野郎に十字架が効かないんだったら、どうにかできるのは俺しかいないんだからね」

 彼には悪いがその様子はまるで、叱られた仔犬がくんくん鼻を鳴らしているみたいだった。

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