第6話 FUJI NOTICING
1951年、全てが消えかかって息を潜めていた。
その頃には親父は家にも寄り付かないまま、女の所に出入りして。それこそ、あの茶屋街の石畳の上で、右足を引きずって。俺は、そのまま死んでいくんだろうと。
死といえば、もっと型にはまった様子でいた。新聞配達の途中で見掛けた先生の姿は、ヤシの木の生えた敷地からするりと出てくるほど、やせ細って。口ごもる、その杖のつき方に、嫌気が差してしまう頃だった。
前々から多くの土建屋が騒ぎ立てる、裏で。闇市の集まりはやがて、街の一端にまで変化を遂げていた。あれは文化を飲み込み、生活を潰しながら、俺たちを金で歴史に名を刻もうとする謂われがあった。やがて、きっとそんな通りが価値あるとされて、暗黒時代とでもいうように、この国のアホを晒すのだろう。それが、最早着物すら面影もなく、編み目も透けて見えたショーツの下。白い肌、ブーツ共に似て。赤みがかる、口紅の色合い。情欲に目玉を転がす、その醜態に眉を顰めていた。
そうだ、その頃には、真向かいの嬢ちゃんは、例の茶屋街にいた男前と会うようになっちまって。腰に回された癖に、思わず歯の奥がぎしりと鳴ると、下に見られた口元が際立っては消えていた。俺は、とんだ負け犬に思えて。試しに、坂からまた転げ落ちれば、その頃にはもう誰一人として、叫ぶ素振りすら見せなくなった。
俺が死なないことが、そんなにも、どうでもいいことなのか。
傲慢さに身が凍れば、先生の死期が近いことも自ずと気付けていた筈だった。
奥座敷に、先生の家の奥底。玄関に存在している、大和は海に戻ることもない。先生の息子さんが、戦争に思うところがあったのは写真で丸わかりだった。あれは、死ぬことを恐れている奴の立ち方だ。坂から転げ落ちる俺は、階段の一段、そいつが妙に迫りくる石として、恐れを身に宿す。拳は骨に響き、骨は脳に響き、衝撃と共にやってくる空襲のような地鳴りが、耳元で聞こえていた。
あれは、死の音だ。人は、坂から転がり落ちれば、息を止めてしまう。
だが、俺の剥げかけた肌の下は告げていた。特攻隊は立派だっただろうと、お前なんかクソの足しにもならない人間じゃないか。握られた拳の中に、折れる筈でいた骨が見えていた。せめて、この身体が合金ならば、剥げた肌の下に赤が広がらなければ、まだ俺はハンニバルの決断のようにいれただろう。
だが、人生は始まりからして結末をこぼしていて。
奥座敷に、先生が倒れているのが見えていた。咳き込んだあとが血だまりに、結核でも患っていたのかと。不死身じゃ菌すらも、効きやしない。喉元に耳を当てると、ヒューっと音が漏れていた。だが、人がしていいような音でもなくて。鳴龍の如く、音がかさばりを深けていく。重音のようでいて、弾みのあるそれ。洞窟に取り残された絶望を乗せて、物語であれば終盤の音が聞こえていた。ヒューっと、骨を透かす音が死を呼んでいる。
駆け寄った俺の耳は引き千切られるぐらいに、何かに痛みを感じていた。ハッと気が付けば、先生は目を見開いて。腕に食い込む爪が、先生の脆さを語っていた。しんどい、そんな言葉と共に、静けさが嵐を巻き起こしている。
先生は、そっと囁いた。
_ふじ、ふじ、わたしは。
音にすらならない、意味がそこにはあった。
_すまない、なんてことを。
先生が何に対して、謝っていたのか。当時の俺には到底分かりやしない問題であって、無が無に帰ろうとしている瞬間を眺めていた。焦りはしなかった、ただ虚しさと微かな羨ましさが宙を浮かんでいると。
先生の、ヒューっと鳴く音も消えて。
俺は恐らくまだ心を打っている身体を捨て置き、また走り出した。暗い、暗い、夏の影を詰め込んだ、奥座敷。近付いて来るそれに、身を守ろうと。蝉の音が聞こえる方へと、駆け足で。ふじ、ふじ、そう言葉が木霊をし始めていた。
まるで、まだ心だけじゃなく、先生が有にあると示すように。
だが、ヒューっと消えた音が戻ってくることはない。そんな幻想を抱きながら、畳に影が縫い付けられて。中庭の池水が、梁に浮かんでいた。
ふじ、ふじ、不死身のなまえ。
先生の家を飛び出した俺は、坂をまた転がり落ちていった。
_ふじ、わたしはなんてことを。
俺は、藤だ。
アップル・ヘイト9_とあるヴィランの最初から最後までクソ人生 上坂新 @ainketch4869
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