第5話 FUJI BURNING

 1950年、新聞配達の仕事も滞りなくなってきた頃でいた。

新しく配達をする家が増え、先生の元に夕方ごろによく顔を出すようになっていた頃でもあって。相も変わらず先生は、やれ井戸端会議はどんなもんだったか、やれ風呂掃除をしろだとか、木の屑を集めさせられながら、家の成り立ちを耳ダコできるほど聞かされていた。あれは口うるさくなりつつある、真向かいの嬢ちゃんと同じだ。

 白い家の嬢ちゃん、ステンレス製の陸屋根。スラブが綺麗に整えられた、大工の家だった。嬢ちゃんの名前は、ふねといって。親父は良い名前だと、器量がええとぼやいていたが、案外口やかましい性格をしていた。

 そばかすのある、日焼けが目立つ嬢ちゃんだった。おさげの編み具合が、器用な手先をしているんだろうと。括っている簪は、これまた色っぽい嬢ちゃんの姉さんのものだった。姉さんは二度ほど茶屋街の近くで、配達のついでに見かけたが、彩のある品のいい芸子さんの着物を着こんでいた。それを袖に指をそらせて、これまた見栄えのいい男前が、姉さんの耳元でそっと囁いて。店先の提灯の色合いが、黄色と赤に沈んだ俺の家でもこさえられる空へと。そう、姉さんは綺麗なお人だった。

 そして、あの姉さんは俺を下にとらえて。案外にも、言葉を詰まらせながら、紅を塗りたくった下唇もまた下に。舐められた舌先の動きが、そりゃ少年にはそういう風に見えていただろう。紅に少しばかしの金粉。店先の提灯が揺らめいては消えてゆきながら、嬢ちゃんの無垢さとは違う。その嫌味さが、より引き立つ素材となって。一体どういうつもりで、姉さんの綺麗さは泥だまりに反射しているのだろうかと。舗装されていない、砂利道の店先。石畳がまだ敷き詰められていない、茶屋街の奥底で、黒髪になびく男の指先がゆるりと、反っていった。

 そんな女の人だった、そうだから嬢ちゃんも目をキラキラとさせて。だが、真にそれが淫らに愚かしいと知らずにいた。ああいった振る舞い、そいつは好きじゃなかった。なんせ、姉さんの隣りにいた男前は、新聞配達の俺を見て嘲笑うクソだった。だが、それも流し目の涼しいこと。どうにも、きざたらしい口元が上がって。白昼夢に閉ざされたように、黄色と赤に囲まれたままに。

 俺は、色に切り刻まれている気がしていた。


_ねぇ、藤はほんとうに可愛らしいね。

 そう言ったのは、嬢ちゃんだった。真似事でもしているのか、白い家の陸屋根の下で、これまた坂の下でもあって。着物の裾をたくし上げながら、妙にそこだけ肌は焼けていなかった。喉を鳴らす、燻る心理に。嘆く、理性。まだ、無であった筈の俺の不死身が、有を溜めてしまうと。そっと、握られた針仕事のたこがある手が、中指から徐々に、近付いていた。

 _やめろ、やめてくれよ嬢ちゃん。

_あたしって、藤もそうなん、ねぇ。

 _姉さんとは、違うんだ、

_あん人とは違うよ、当たり前じゃない。

 それが、痛々しく感じていた。通り過ぎり分だけの、夏の風が沈んでは肌に吸い付きながら、近付いてくる。ああ、まだ繰り返す。それが良いと知って、嬢ちゃんの腕を引き寄せられないと。首元から香る、甘酸っぱい匂いに。桃が香っていると、粗目が鼻先で、見つからぬ様に願っていた。

 まだ、知らぬ色でいて。

_おまえには、幸せでいて欲しいんだ。

 不死身の俺に、嬢ちゃんは過ぎていた。

真向かいだからよく知っている筈でいて、親父が玄関口で表札でも投げようもんなら、俺の頭蓋骨は屁でもないと。癌と同じだ、ガンっと響いて。血は出ずに、剥げた皮の下。これもまた下でいて、繊維が見ていた。先生が見せた組み込みの模型でもなく、そんな優しい繊維でもない、剥げかけた死人が見つめていた。

 いつかで、俺の一部は死んでいるんだろうと。

親父のやってしまったと、そんな親の顔が酷く馬鹿らしくもあって。お袋の面影に怯えるように、仏壇に頭を下げる線香が、家から足を出す俺の背中を押していた。心地が良い、戸を横に引けば。敷居の前で悩むこともなく、その一歩が勢いをもって。出た一瞬で、戻るふわっとした罪悪感だけが脳みそを揺らす。

 すまんと呟かれた言葉が、廊下で雷に打たれていた。

_は、何様のつもり?

鋭い一撃、涙目になりながらキリっと上がった二重。

 その目線に耐えられずに、思わず走り出しながら。嬢ちゃんが同情で、揺さぶった訳ではない苦しさが、息を潰していった。若い時代だと、知らしめる不条理さがあれば、誰しもが自分に夢中でいたことも事実だった。

 

 走り出して、出来たばかりの舗装された石畳。そこに、出来るだけ吐いた中身は存在なんてものもせず。俺は、不死身の身の上、何一つ人の味すら残ってもいない。

 嬢ちゃんから貰った握り飯が、腹にある筈でいた。それでも、俺の腹から這い出てきたのは、ただの透明にもなり切れない、液体だけ。


  _例えば、動脈に注射された液体が語り掛けてきたとしよう。

唐突に、ある日突然、脳内に入り込みながら薄らと。

  ドクッと波打った脈に、語り掛けられている言葉が告げている。とても偉大な力が漲っているとでも言うように。頭はぶちまけそうなほど痛みながら、脳みその一部が腐りかけて林檎の皮に、そう皮になっていく。

 果てしなく、気付く。そこで、突如として相応ゆえに。

  「クソったれ、っくそ、くそ」

よく言うだろう、死にたくなる、そんな口癖のように。俺はただ、俺の家がこさえられる筈の東京の空へ向かって。


 「皆殺しだ、クソ野郎」

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