第六十一 心の傷
香辛料が高値で売れることに気が付いた数時間後に、アングリーウルフの群れに襲われる。
天国から地獄に叩き落されたかのような状況に嘆くも、嘆いていても事態が好転する訳ではない。
とにかく逃げることだけを優先して、なんとか俺達だけで対処をしないといけないのだが……未だに汗が滝のように流れているのはトラウマからだろう。
徐々に息が激しくなり、呼吸がしづらくなっている。
理由は明白。俺の脳が、また俺を置いて逃げるのではと考えてしまっているから。
なんとか落ち着こうと努力するが……息はどんどんと激しく、そして荒れてくる。
「おいっ、ルインどうしたんだ? まだ魔物は遠くにいるから大丈夫だぞ」
「ええ。最悪、僕らで足止めしますから、心配はいらないですよ」
ガクガクと震える膝に手をつき、倒れそうになっている俺に、心配そうな声で喋りかけてきてくれるバーンとポルタ。
このことから、確実に俺を見捨てると言うことはしないと断言できるのだが、それでも俺の体の震えは止まらない。
自分の中では【白のフェイラー】に置いて行かれたことも割り切っていたと思っていたのだが、心のダメージとして深く刻まれていたのか。
「だ、大丈夫です。ちょっと恐怖で……あ、足が竦んでしまっていただけで、も、問題はないので」
「いやっ、敬語になって……なんでもない。ルイン、絶対に守るから安心しろ!」
噛み切る勢いで舌を噛み、痛みによって恐怖を抑え込む。
それでも震えは止まらないが、口から血の味を感じたことで、意識が逸れて少しだけだが震えが治まった。
そのタイミングでライラとニーナがテントから出てきて、俺達は全員合流する。
なんとかアングリーウルフと鉢合わせする前に、ここから逃げ出すことが出来そうだ。
「ごめん、お待たせ。こっちも準備出来たよ」
「よしっ、それじゃ一度、ここから離れるぞ。夜道だから合図だけは頻繁に送り合うからな」
「了解……って、本当にかなり危険な状態なんだ」
「ああ。無駄話している暇はない程、危険な魔物の群れが近くにいる」
遅れて合流したライラにバーンが簡潔に状況説明をしてから、五人で移動を開始。
音をあまり立てないように心掛け、慎重に移動をする。
気をつけなければいけないのが、道中で他の魔物とも戦闘にならないようにすること。
一度でも戦闘になってしまうと、どうしても戦闘音が響き渡る。
この戦闘音を察知されると、正確な位置情報がアングリーウルフに伝わり、そこで終わってしまう。
だから道中の魔物にも気をつけつつ、更には背後から俺達を追ってきているアングリーウルフを巻かなくてはいけないのだ。
俺は震える足をなんとか動かして進んでいるのだが、バーンとポルタ、それからライラも、俺と同じ様に様子がおかしいのが見て分かる。
凄い勢いで背後から追われていることと、前方にも注意を払わないといけないことから、バーンの荒れた息遣いが聞こえ、ポルタの拭う汗の量が半端ではない。
ライラに関しては、何度も転びそうになっていて、俺と同じように足に震えが来ているのが分かる。
俺のトラウマから始まり、各々の緊張が伝播し合って嫌な共鳴を起こし始めたとき、ニーナが普段とは違う凛とした声で喋り出した。
「三人……それとルインさん。後ろから追ってきていますが大丈夫ですよ。前方の魔物は私の【アンチヒール】で音なく殺せますし、背後の魔物に仮に追いつかれたとしても、私達なら対処できますから安心してください」
微笑み混じりのニーナのその声に、俺の……いや、みんなの心が落ち着ついていくのが分かる。
ニーナの落ち着き払ったその声のおかげもあってか、冷静さを取り戻した俺と【鉄の歯車】は、全方向に注意を割きながら、どうにかこうにか夜のコルネロ山を下山することができた。
道中、何度か魔物と遭遇するケースがあったのだが、完璧な連携により魔物を素早く処理することで、時間のロスなく移動することが出来た。
「はぁー、はぁー……。なんとか追っ手を振り切って下山出来たな」
「正直に言いますと、追ってきていた魔物の圧が凄かったので、正直死んだかと思いました」
「私も途中でもう駄目かと思った! だって、かなり距離を詰められてたよね!?」
コルネロ山の入口で、三人が口々に安堵の籠った悲観的な言葉をぶつけ合っている。
確かに一時、背後からの気配が明確に感じられる程に距離を詰められた時は、俺も終わったかと思った。
咄嗟の思いつきで、俺が燻した魔力草を道中に残し、臭いで攪乱させることによってなんとか切り抜けることが出来たが……本当にギリギリだったな。
「と言うか、荷物の殆どが中腹の拠点にあるぞ。どうする? 取りに行くか?」
「馬鹿っ! 今は行けないよ。まだ道中に追ってきていた魔物がいるかもしれないし!」
「そうですね。一度手ぶらでグレゼスタに報告しに戻ってから、また取りに戻るのが賢明だと思います。……ルインさんはすいませんでした。折角、専属契約まで決めてくださったのに、今回の依頼は完全に失敗ですね」
ポルタはそう言って申し訳なさそうにしているが、俺の中での評価は急上昇している。
正直、自分自身でも理解が出来ないほど焦っていたし、途中まで恐慌状態となっていた。
そんな俺を囮に使わなかったことだけで、評価は最大まで高まっていたのに、【鉄の歯車】さん達は俺を第一に逃がそうとしてくれていたからな。
基準がそもそもおかしいのかもしれないが、俺の中ではある意味、【鉄の歯車】さんの根の部分が見れたから成功に近いと思う。
山を完全に下山し終えており、周囲も遠くまで視認できるほど明るくなっているため、俺達は完全に安心しきって話していると——近くから耳を劈く程の咆哮が発せられた。
全員が音の方向を見ると、そこには一匹のアングリーウルフの姿。
すぐに周囲を確認するが不幸中の幸いと言えるのか、いたのはその一匹だけ。
どうやら、一匹だけで俺達を追ってきたようだ。
そのアングリーウルフの視線は何故か俺だけに向けられ、進む足も俺に向かって進んできているように感じた。
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