第13話 ヤンドリュード領での戦い オルセイヤー視点
イマリアス王国の侵攻が伝えられ、夜会の会場は騒然となった。リュビアンネ嬢の貴族復帰などの騒ぎではない。国王もアステリウスも真剣な顔で話し合っていたが、他国人の私には他人事である。とりあえずアンを連れて帰ろう。私はそう思っていた。
しかし、その時国王がアンを呼びつけた。私は嫌な予感がした。しかして国王はアンに自分の親であるアンボロクがイマリアス王国の侵攻を手引きした事の責任を問うたのである。
私は驚くと共に立腹した。なんだそれは。
アンはアンボロクの罪のお陰で故無く庶民に落とされ、それまでの人生を否定され、庶民として頑張って生きているのではないか。それなのにもう三年も前に離れたまま会ってもいない父親の罪の連座になるというのか?私は自分の父親の冷たさを知っている。あの父親の罪の連座として責任を取るなどごめん被る。アンだって自分を捨てた親の事など知らないと叫ぶだろう。そう思っていた。しかし。
「全て、国王陛下のご判断に従います。我に罪あらば罰をお与えください」
アンは当然のように罪を受け入れ、頭を下げた。私は頭を殴られたような衝撃を受けた。
これが、アン、いやリュビアンネ嬢か。誰よりも貴族らしく、気高く、王太子の婚約者としての責任感を体現するようなその姿。たとえ故無くとも、絶対の王が裁くのならば粛々と受け入れるのが王国の貴族、臣としての矜持なのだと言わんばかりの態度だった。周囲の貴族たちの口から感嘆の声が漏れる。国王でさえも目を見開いて感動しているように見える。
「うむ、良く言った。其方の無念は私の胸に残しておこう。リュビアンネを牢に繋げ!」
しかし王は言った。しかし、誰も咄嗟には動けない。捕縛を命じられた王の近衛騎士たちも凛として立つリュビアンネ嬢に近付くのを躊躇している。私も呆然として動けなかった。
しかしそこで一人、動けた人間がいる。
「お待ちください!」
アステリウスだった。彼は進み出て、アンを国王から守る様に立ちはだかった。
「その処分、納得出来ませぬ!」
先ほど、アンが不当な処分を受け入れたように、王の裁定は絶対だ。それに反する事は国家への反逆と同じ。絶対にしてはならない事である。それは例え王太子であろうとも、いやだからこそしてはならない。以前にアステリウスはリュビアンネ嬢との婚約破棄をした事情について話していた時に私にそう話してくれた。
その彼が今度は王に逆らう様にリュビアンネ嬢の前に立ったのである。それは王に逆らってでも二度と愛する女性を失いたくない、裏切りたく無いという決意の表明であった。王の裁定を粛々と受け入れる気高きリュビアンネ嬢と、その決意は見事な表裏を成し、一対の存在として輝いていた。私の足は自然と動いた。
「そうですとも!」
私は王にアンの無実を訴え、アステリウスと共に王に深く頭を下げた。
「「どうか、寛大なご処置を!お願い致します。国王陛下!」」
しかし国王は許しを与える事はなかった。それどころか「これ以上リュビアンネを庇うなら、其方達二人も同罪とする」と言った。私は流石に怯んだが、ここで引く訳にはいかない。アステリウスも父に罰せられる事を承知の上で引くことは無かった。国王と睨み合いながら、私は不思議な気分でいた。私は一体誰のために、こんな危険な事をしているのだろう。他国人の私がこの国の国王に真っ向から逆らうなど、下手をしたらフサヤ王国ごと問題になってしまうような行為なのだ。
アンのためではある。しかし、アンのためだけでは無いだろう。アステリウスのため。いや、二人のため。それも違うな。そう。二人が導く王国の未来のために、ではなかろうか。未来の王国のためであれば今の国王に逆らう事にも正当性が出ようというものだ。アステリウスはリュビアンネ嬢と結婚すれば素晴らしい王になるだろう。そしてこの国をより良く導いて行くに違いない。
「申し上げます!」
その時、アンが大きな声を上げた。そして聞く耳を持たない国王に向けて、アンボロクは侵攻に協力していないと思われる事を主張した。それを聞いて王の側近たちの間に動揺が広がった。私には分からないが説得力のある意見だったらしい。アンとアステリウスは顔を近づけ合い、話し合っている。
「そもそも、本格的な侵攻を企んでいる時に『我が方にはそちらの事情を熟知している協力者がいるんだぞ』などとは言いませんし匂わせもしないと思いませんか?普通は手の内は隠すはずです」
「とすれば、狙いはこちらの動きを手控えさせる事か・・・。狙いはその隙にヤンドリュード侯爵領を切り取る事。そういう事だな」
「恐らくは」
その二人の様子は息がぴったりで、もうずっと昔から二人はそのようにしていつも相談をしていたのだろうな、と思える姿だった。
アステリウスは国王にリュビアンネ嬢の主張の正しさを説き、その意見を元にして侵攻軍を撃退するため自ら出陣すると告げた。そんなアステリウスに王は尋ねる。
「・・・なぜ、リュビアンネの考えが当たっていると思うのだ?なぜそこまで彼女を信じられる?」
アステリウスはむしろ誇らしげな顔をして言い放った。
「知れた事。将来の妻の言う事も信じられぬのなら、世の中の全てを疑う事になりましょう。世界の誰がリュビアンネを疑っても、私はリュビアンネの事を信じます!」
誰もが呆れ果て、アンが頭を抱えるような直球の惚気だったが、私には響いた。結局、私はアンの事を信じ切れなかったのだろう。彼女は庶民のままでいたい、貴族に戻りたくはないと言っていたし、知っていた筈なのに、疑う私は彼女をこの場に連れてきてしまった。それが結局勝敗を分けたのではないか。
私がアンを諦めたのはこの瞬間だったのかもしれない。
出陣を許可された私達はアンから祝福を受けた。私はアンに言った。
「何があってもアステリウスだけは必ず還すからな」
私はもう、アンに婚約者を失わせたくなかったのだ。
拙速は武器だと言い切ったアステリウスは、鎧を身に纏うのももどかしく、国軍の基地へ向かい、その時に待機していた五千の兵に大至急準備をさせると王都を飛び出した。慌て過ぎにも程がある。私はアステリウスを追い掛けながら、軍に先行する早馬を出し、道中にある軍事拠点に補給の手配を連絡させた。
アステリウスはほとんど休息さえ取らずに行軍を急がせた。そのため本来五千で出た筈の軍勢は脱落者が多く出たために、五日後にヤンドリュード侯爵領に入る頃には三千程度にまで減ってしまった。しかし、アステリウスは敵の位置を掴むとそのまま強襲を掛けたのだった。
イマリアス王国軍は領都を略奪した後にそこで略奪品の分配でもめたために、碌に備えもせずに停滞していた。そこへ行軍の疲れこそあったが戦意盛んなアステリウス軍が襲い掛かったのである。イマリアス王国軍は五千人で我が軍よりも戦力は多かったが、まさか我が軍がこんなに早く来るとは思っていない上に、略奪が忙しくて陣形は乱れ戦意も下がっていた。迎撃の動きも鈍い。
アステリウスは騎士部隊を率いてなんと先頭に立って敵軍に乗り入れた。私は仰天した。確かにアステリウスは剣術大会では誰にも負けない程武勇に優れた男だったが、私と同じく初陣の筈である。戦意が低いとはいえ敵は我々よりも多勢なのだ。私はアステリウスの側に馬を寄せ叫んだ。
「無茶をするなアステリウス!」
しかし、アステリウスは私に向けて笑って見せた。
「無茶もするさ!父王に逆らった罪を帳消しにするには大きな武勲を立てるしか無いからな!」
「死んだら元も子もなかろう!其方が討たれたら私はアンに何と言い訳をすればいいのだ!」
私がそう言うと、アステリウスは破顔しながら目だけを真剣な物にして言った。
「その時は其方がリュビアンネを娶れ!オルセイヤー!」
「な、なんだと?」
私は驚愕した。何の冗談だ?しかしアステリウスは、器用に馬を寄せて私の肩を掴んだ。
「私以外なら其方だけがリュビアンネに相応しい。私がもし死んだらリュビアンネを頼む」
私は呆然とし、言葉の意味を了解すると、次に憤激した。
「馬鹿な事を言うな!アステリウス!」
私は思わず兜の上からアステリウスの顔を殴りつけた。兜と籠手が当たって物凄い金属音が戦場に響き渡った。
「貴様は私が死なせん!アンとも其方を無事に戻すと約束した!二度とつまらぬことを言うな!」
アステリウスは苦笑の気配を漂わせながら兜の位置を直した。
「そうか。それなら腑抜けた事を言っていないでしっかり私を護れ!付いてこい!」
「言われなくても!」
私は馬を駆って敵中に踊り込むアステリウスを追って、馬を駆けさせた。
結局、アステリウスは常に騎士たちの先頭に立ち続け、最前線で戦い続けながらも手傷一つ負う事は無かった。彼の武勇は戦場でもしっかりと証明され、騎士や兵士たちはアステリウスの事を歓呼の声で讃えた。それに対して手を上げて応えるアステリウスには既にして王の風格が表れ始めていた。
私は、そんな彼を見ながら次第に焦りにも似た感情を覚え始めていた。彼の事は認めている。兄貴分として尊敬もしている。アンの事があってもそれは変わらなかった。しかし、どんどんと成長し、王太子として、いや次代の王としての自分を確立させて行くアステリウスに対して、自分も王子なのだから対等なのだ、と主張した自分はどうなのだろうか。
王族である事を重視せず、貴族である事すら自覚が薄い。下町で受け入れられた事が嬉しかった私は庶民になっても良いと思ってさえいた。しかしながら結局、それは私が責任を回避しているのと同じ事なのではなかろうか。これまではそれで良いと、私は思っていた。しかしながら、王族の責任と重圧を背負いながらもそれから逃げずに成長し続けるアステリウス。その彼との差がどんどん開いて行ってしまうのを私は感じざるを得なかった。友人として、弟分として、私はそれで良いのだろうか?
アステリウスは戦後処理も適切に行なった。ヤンドリュード領都の焼け出された民衆に支援を行い、国境の砦に兵士を増員し、王都との連絡体制を整えた。イマリアス王国の再侵攻に備えるためだ。イマリアス王国の将軍を含む捕虜は順次後送し、王都で取り調べてもらう。捕虜の買取りや賠償の交渉のために、誰かがイマリアス王国へ使者として行く必要があるだろう。
そうしてヤンドリュード侯爵領が安定した事を確認して、アステリウスは軍に帰還命令を出した。
我々は王都に凱旋し、市街で隊列を組んでパレードを行なった。王都の民は手を叩き歓声を上げ、花吹雪を舞わせ我々を大歓迎してくれた。特に先頭に立っていたアステリウスと私に対する歓呼の声は凄まじく、しばらく耳が痛かったくらいだ。
市街を練り歩いた後、我々は王宮に入った。そして百人程度の特に功績が目覚ましかった者たちだけを連れて、王宮の大謁見室に入った。
大謁見室は巨大なドーム状の空間である。大扉から私達が入場すると、中にいた数百人の着飾った貴族たちが一斉に拍手をした。歓声も沸き起こり、特に若い婦人の黄色い歓声が凄かった。もちろん、アステリウスに対してのものだろう。
我々全員が王の前で跪くと、アステリウスが誇らしげに勝利の報告をした。大歓声が沸き起こる、誰もが確かな軍事手腕を見せつけた王太子を讃えていた。この王太子あるかぎり王国の未来は安泰である。そういう歓声だった。
しかしながら、この王太子には一つだけ欠けているものがある。そう。十九にもなってまだ妃がいないのである、この素晴らしい王太子に妃どころか婚約者もいない。これはいけない。誰もがそう思った事だろう。
そこへ、ゆっくりと進み出て来た者がいる。濃い黄色の素晴らしいドレスを身に纏い、美しい亜麻色髪を高く結い、麗貌に微笑みを浮かべ、真っ直ぐに立っている。
ああ、もうこれはアンでは無いな。リュビアンネ嬢だ。私でもそう納得するしか無かった。全く庶民生活の面影は無い。その姿は、彼女がアンである事を捨て去り、リュビアンネとしてもう一度生きていく覚悟を決めた事を如実に表していた。
そして、その彼女に鎧姿で向き合うアステリウス。英雄が麗しの姫君に迎えられたのだ。英雄は姫君を抱き寄せ、姫は英雄の背中に手を回した。まるで物語のクライマックスのような光景に、誰もが歓声を上げ、嘆息し、感動に目を潤ませた。
誰よりも私が感動していた。私はこの二人の姿を見るために戦ったのだと思った。やはりリュビアンネ嬢はアステリウスにこそ相応しい。私は心から二人に拍手を送ることが出来た。
しかし、アステリウスはそんな私の事を見て、少し顔を顰めていた。何だろうか。
「オルセイヤー!何をしている!リュビアンネに勝利の報告をしろ!祝福を受けたのだろうが!」
アステリウスが言うので、私はリュビアンネ嬢に勝利の報告をした。
「我が女神よ。あなたのお陰で勝てました。ありがとうございます。リュビアンネ様」
ここにいるのはもうアンではない。私は自然にそう思ったから、彼女をリュビアンネ様と読んだ。その瞬間、わずかに彼女の表情が動いた。それは、何だか凄く悔しそうな表情だった。どうしてそんな顔をするのだろう。私には分からなかった。
すると、その様子を見ていたアステリウスが叫んだ。
「おい!勝負をするぞ!オルセイヤー!」
は?いきなり何を言い出すのか?私もリュビアンネ嬢も戸惑ったが、アステリウスがその言葉を言った瞬間、私の頭の中は沸騰した。
「其方にも私にも譲れないものがあるだろう。それを賭けよう!」
一体何を言い出すのか!私はこれ以上ないくらいの怒りに駆られた。
「余興に賭けるようなものか!貴様は正気かアステリウス!」
しかしアステリウスはヘラヘラ笑いながら、しかし目だけは私に対する殺気をはっきりと示しながら言った。
「貴様にもチャンスをくれてやろうと言っているんだ」
この野郎!私は激昂した。アステリウスは口ではチャンスをくれてやると言いながら、目ではコテンパンに打ちのめしてリュビアンネ嬢の事を完全に諦めさせてやると言っていたのだ。
私はこの時、初めて悔しさを覚えた。才能も努力も家柄もそして人間的な魅力も敵わないアステリウスが、貴族に戻ったリュビアンネ嬢を得るのは当然だと思った反面、なす術もなくアンを奪われる事が悔しいと思ったのだ。しかもこの上で公衆の面前で剣の腕で上下を示され、完全にアンの事を諦めさせられるのかと思うとやるせなかった。
ちくしょう。私は歯を食いしばった。せめてここでは一矢を報いてやる。目に物見せてやるからな!
この時、私の頭の中にはアンのことは殆ど無かった。ただひたすらにアステリウスに勝ちたかった。アステリウスをここで叩きのめしてもアンが戻ってくることは無いとも分かっていたのである。ただ、アステリウスに、この巨大な兄貴分に勝ちたかった。
凱旋の式典の余興として行われた剣術試合に観衆は大きく盛り上がった。リュビアンネ嬢だけは不満そうで、私たちにお説教をしたそうな顔をしていたが。
勝負が始まると、私は必死にアステリウスに食らいついた。アステリウスの動きは速く、力は強い。しかし、速度なら負けないし力は僅かに私が勝る筈だ。後は技術だがこれはアステリウスにはどうしても敵わない。故に私は体力に任せて手数を増やしアステリウスの技を封じるしか無かった。
必死の戦いがどれくらい続いたか分からない。私の鎧にはアステリウスが放った剣技で数カ所の凹みが生じたが、有効打はお互いに無かった。二人とも息が上がり、それでも気力で切り結ぶ。どうだアステリウス!貴様と互角に戦っているぞ!と叫びたくてももう声は出せない。必死に剣を振るい、避ける。
その瞬間の事ははっきり覚えている。アステリウスが踏み込んだ瞬間に足を滑らせた。バランスを取るために剣先が下がった。大きな隙。絶好のチャンス。私の体は無意識に動いた。
剣を振りかざす。アステリウスも反応するが間に合うまい。私の心に歓喜が湧き起こった。勝った!私はアステリウスに勝ったぞ。そして剣を振ると・・・。剣が後ろにすっぽ抜けたのだ。間抜けな話だった。もう私の手は限界で、剣を握っていられなかったのだ。
床に転がる剣を見ながら私はゼイゼイと息をするしかなかった。ああ、届かなかった。私は思った。アステリウスを追い詰めながら、私はアステリウスに結局勝てなかったのだ。見ればアステリウスには私に剣を拾うように促す余裕がある。私はもう剣も握れないというのに。
私は降参した。
「・・・其方、それで良いのか?」
アステリウスはリュビアンネ嬢を見ながら言った。しかし私はこの戦いに彼女を賭けたつもりはなかったのだ。もっと大きなものを賭けてしまったから。いや、違うな。やはり賭けたのは彼女だったのかもしれない。私はアステリウスを越えなければ、アンを取り戻せないだろうと思い込んだのだから。
「ああ、良い」
そう言った時の私はもう完全にアンの事を諦める事が出来ていた。
凱旋してから半年くらい経って、私は国王に呼び出された。そしてフサヤ王国から帰国要請が出ている事を知らされた。
これまでも何度となく本国からは帰国要請が届いていたとは思うのだが、私にわざわざ知らされたのは初めてだった。国王曰く、なんでもリュビアンネ嬢から「フサヤ王国の事情も考えずにオルセイヤーの帰国を妨げるとは何事か!」と怒られたのだとか。
そのリュビアンネ嬢とアステリウスの婚約は無事に復活して、数ヶ月後に挙式の予定だと聞いていた。あまりにも結婚までの間が短いため、挙式の準備が大急ぎになってしまい、アステリウスが大忙しになったこともあり、私はアステリウスとあれからろくに会えないでいた。
私はそもそも帰国するつもりは無かったのだが、今回は母から帰国を願う書簡も付されていた。父王からの要請は蹴れても、母親の願いは無碍に出来ない。そして、私の心の中に以前とは違う考え方も育ちつつあったのだ。それは、自分も王になってみたい、という思いだった。
きっかけはアステリウスに負けた事だった。アステリウスは王になる。おそらく偉大な王に。そうなれば私はもう、一生彼に追いつくことは出来ないだろう。彼に追いつくには、私も王になるしかない。フサヤ王国の王になり、国を強く大きくし、この国の勢力を上回れば、私はアステリウスを超えたと言えるのではないか。
子供っぽい考え方かもしれない。しかし、このままこの国で一貴族としてやっていく限り、アステリウスとの差は開き、早晩彼の弟分を名乗る事さえ許されなくなるだろう。私は、彼の友人であり弟分でいたかったのである。
結局、私は帰国を決めた。国王にその事を伝えると、アステリウスが忙しい中を縫って飛んできた。帰国するな、と言うのである。せめて自分の結婚式まで待てと。
私はもう、アステリウスとリュビアンネ嬢が結婚することには何の蟠りは無かったのだが、何となく思い立ったら直ぐに行動したくなってしまい、結局は結婚式前に帰国することにしたのだった。
すると、今度はアステリウス経由でリュビアンネ嬢から指輪を返却したいという打診が届いた。それを聞いて流石に私の心は痛んだ。もう血が出るような痛さではなく古傷が痛むようなジクジクとした痛さだったが痛いことは痛い。
私は帰国準備の忙しさを理由にリュビアンネ嬢との面会を先延ばしにし、結局、帰国の旅に出発するその日に会うことにしたのだった。
リュビアンネ嬢はその日、若草色のドレスに銀のチェーンのネックレスという少し地味な格好で現れた。その飾りの少ない姿が庶民時代の彼女を少し思わせて、やはり私の心は少し騒いだ。
アステリウスはこの期に及んで私を引き止めようとした。私は自分も王になりたいからと言って断った。アステリウスは懐疑的な顔をしていたが、リュビアンネ嬢は顔を輝かせていた。彼女は以前から私に王族の自覚を説いていたから、私が成長したのだと思ってくれたのだろう。
アステリウスは私との別れを終えると、言い訳をしながら馬車に引きこもってしまった。私は苦笑した。
「なんだあれは。婚約者を残して行くとはどういう了見だ。攫って行ってしまうぞ?」
「攫って行ってもいい、というつもりかも知れませんよ?」
リュビアンネ嬢の言葉に私は思わず彼女の顔を見てしまった。彼女は苦笑していた。そんな事はあなたには出来ないでしょう?と彼女は表情で言っていた。その通りだ。結局、私は彼女をアステリウスから奪えなかった。
「アンですよ。今は、アンです」
彼女はそう言って、泣きながら私に指輪を返してきた。シルバーのシンプルなリング。庶民の彼女には似合うだろうと思っていたが、今の彼女には地味過ぎる。
「ありがとうオルセイヤー。そして、ごめんなさい」
泣きじゃくるリュビアンネ嬢を、私は見ている事しか出来ない。指輪を返された今、私はもう彼女の婚約者ではない。いや、最初から私はリュビアンネ嬢の婚約者ではなかった。私の婚約者はあくまでもアンだ。
そう思った時私の心に最後の悪戯心が浮かんだ。
「・・・アン。頼みがあるのだ。最後にこの指輪をもう一度だけ嵌めてもらえないか?」
リュビアンネ嬢は涙で濡れた顔で驚いたが、頷いて私の指輪を取り、自分の左の薬指に嵌めた。
「これで、良いですか・・・、あ!」
その瞬間に私は彼女を抱き寄せて、その唇を奪った。
「婚約指輪をしながらの唇へのキスは、簡易な結婚の意味がある。そして、指輪の返還には離婚の意味があるな」
馬鹿馬鹿しい屁理屈だった。結局は、私はどうにもリュビアンネ嬢が私の愛したアンを含めてまとめてアステリウスのものになってしまう事に納得がいかなかったのだと思う。いやどうだろうか。自分の思いが明確に言葉になるほど整理されていないから本当の事はよく分からない。単に彼女にキスがしたかったからかもしれないし、アステリウスに嫌がらせがしたかっただけなのかもしれない。
リュビアンネ嬢はしきりに怒っていたが、やがて少し悪戯っぽく微笑むと、私に囁いた。
「私の最初の結婚相手があなたになった、と言いましたね?」
彼女の意図がよく分からず。私は目を瞬いた。
「?ああ。そうだな」
「違いますよ」
「?」
リュビアンネ嬢は歯を見せてニッコリ笑った。
「アンの夫は生涯あなた一人ですよ」
息が詰まるほどの衝撃だった。リュビアンネ嬢は、この瞬間から自分はリュビアンネとアンに分かれて、アンの部分は私の妻になると言ってくれたのだ。
「アンはこの先もあなたと共に」
「・・・そうか」
リュビアンネ嬢、いや、アンは、私を陰りの無い瞳で見つめていた。そうなのだ。私とアンは確かに愛し合い、将来を約束したのだった。あの時のアンは確かにいたのだし、今もいる。そう、リュビアンネ嬢の中に永遠に。そして私の側に。
それは私にとって救いになった。彼女を愛して良かった。何の蟠りもなく、心からそう思えたのだから。
「分かった。アンは、私が連れて行こう。生涯、大事にする」
帰国して王になってからも、アステリウスとの交友は続いた。流石に直接は会うことは出来なかったが、書簡を頻繁にやり取りしたのだ。
アステリウスは王となり、リュビアンネ嬢は王妃となって、予定通りに国内に学校を広げた為に、国内の識字率が飛躍的に向上して、商業の発展や学問の向上による国力の増大に繋がり、戦争もせずに勢力の拡大に成功していた。流石と言うしかない。
私はアステリウスには何度となく直筆の手紙を送り、アステリウスからの挑発的な内容の手紙も受けたが、リュビアンネ嬢には一度も手紙を出さなかったし、彼女からも一度も手紙は来なかった。
それで良いのだ。アンはいつでも私の側にいてくれるのだから。
二人の王太子殿下と婚約してしまいました 宮前葵 @AOIKEN
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