天狗の殺人

瀬海(せうみ)

天狗の殺人


 目の前を黒い影が横切った。

「うおっ」

 幅の狭い峠道ということでそれほど速度は出していなかったが、ブレーキを踏み込むと急な減速に体がつんのめる。慌てて前方を確認すると、野犬のようだった。逃げるように走り去っていく姿が視界の端に映る。

 轢かなかったのは幸いにしても、心臓には悪い。……しかし流石は山奥、こういうこともあるのだな――などと安堵の入り交じった妙な感心をしていると、後部座席から恨みがましい声が聞こえてきた。

「……急に何だね。車は苦手なのだからと、静かな運転をお願いしたはずだが」

「すまんすまん。いきなり犬が出てきてな」

「山道だ、それくらい出てくるだろう。現職の警官なのだから、そのあたりも含めての安全運転じゃないのか」

「いや、実は俺もあまりこういうところを走った経験はないんだ」

 苦笑しながらそう返すと、ふん、と鼻を鳴らされる。

 運転させておいてその態度はどうかと思わないでもないが、渋るところを半ば押し込めるように乗せたのだから、こちらに言い返す言葉はない。それに、多忙なところを無理言って付き合ってもらっているのだ。文句を言う筋合いもないだろう。

 しかし。

「車嫌いってのも難儀だな。この現代社会をどう生きてるんだ?」

「正確に言えば、人の運転する車が苦手なだけだ。……そんなことより丁度良い、到着する前に今一度確認させてもらってもいいかね」

「ん? 何をだ」

 アイドリングストップが掛かってしまったエンジンを再始動させていると、バックミラー越しに物部と目が合う。それほど年齢の変わらないはずの顔には、別段これといった感情も浮かんでいなかった。声音には露わにしたはずの不満すら読み取れない。

 その口元が動く。

「奇声と共に小屋を飛び出し、そのまま暫く消息不明」

 思わず視線を引き締める。

 ここでその話をするのか。……現状確認はこちらとしても不本意ではないが。

「一週後、茸を採りに山へ入った村人によって発見。遺体には四肢の損壊が見られ、また夏場ということもあり腐乱が進行。酸鼻を極めた死亡状況から、村内の一部住民の間ではこうした噂が立っている。即ち」

 俺は頷き、後を引き継ぐ。

「――天狗の殺人」



 物部もののべじゅんは民俗学者だ。

 学問の性質に起因するのか単に変わり者なのかは分からないが、主に野を駆け山を登り、徹底的な実地調査をすることでコンスタントに研究成果を上げていると聞く。……お陰で今回も捕まえるのに散々苦労させられたわけだが、それが本業なのだから仕方がない。

 俺は不可思議な事件に遭遇する度に物部の知見を借りており、要するにこちらは事件の解決を、物部は新たな研究対象を――ということで利害が一致し、早数年来の付き合いになる。

 とは言え旅の道連れとして良き伴侶だとは言い難い。学者としても物部には妙に偏屈なところがあるし、それ以上にその思考はあまりに浮世離れしている。そんな頭脳でもなければ解決できない事件もあったので、逐一言っても始まらないのだが。

「柳田國男の『遠野物語』にも天狗に関する記述がある」

 往来のない林横に車を停めると、車外に二人揃って足を踏み出す。

「――『早池峰の腰へ村人大勢と共に馬を曳きて萩を苅りに行き、さて帰らんとする頃になりてこの男のみ姿見えず。一同驚きて尋ねたれば深き谷の奥にて手も足も一つ一つ抜き取られて死してゐたりといふ』。……どうかね」

「どうかね、と言われてもな。生憎古語は苦手なんだ」

「古語と言うほどでもないだろう。いくらきみでもこのくらいは分かるはずだ」

「馬鹿にしてるのかよ」

 苦笑を返すが、確かに意味が取れないと言うほどではない。

 手も足も一つ一つ抜き取られて死してゐたり。……

 自分の眉が歪むのが分かる。

「今で言うところのバラバラ死体だろ。……一致してるな」

「そう。天狗の仕業と言われるだけはある」

「だがそれじゃ、小屋を飛び出したってのはどういうことだ? 問題はそこだぜ」

 足元の砂利を踏みしめながら、物部はあっけらかんと口を開く。

「天狗には昔から神通力があると言われている。造作もないだろうな」

「……おいおい、分かってるのか? そんな説明をしても誰も納得しないぞ」

「だから話を聞くために足を運んでいるのだろう」

 まぁ、その通りだ。

 誰のものであろうと、人は死に対してある程度の理由を求める。怪死を怪死で片付けるわけにはいかない。だからこそ。

 目の前に、目的地である集落が見えてくる。



 一通り村で話を聞いた後、今日は物部の提案で、被害者が居住していた村はずれの小屋を寝床とすることにした。

 ここで起こったことを考えると正直ぞっとしない話だったが、事件の究明を図るためと言うのだから仕方がない。……しかし、それにしても。

「物部。さっきの内容、どう思う?」

 持参した寝袋にくるまりながら、話を振ってみる。

 最後に訪ねた民家で、年配の婦人が口にした言葉。

「…………。ん? 何か言ったかね?」

「おい、何イヤホンなんかつけてるんだ。さっきの話だよ、話」

「あぁ」

 陽も落ちてきたあばら屋に、寝返りの気配。それほど造りが良いわけではないようで、風の音がする度に家鳴りが続く。

「古くからの集落には特によくある話だ。いわゆる村八分だな。別段、取り立てて珍しいことじゃあない」

 それはそうかもしれないが。そういうことじゃなく。

 話を要約すると、こうだ。

 村に持ち上がった山間部の再開発に際し、被害者の男性は積極的に賛成の意を示したため、裏切り者として辺境の小屋に追いやられた。同時に山の主である天狗様の怒りにも触れ、祟りに遭って怪死を遂げた。……本当に、不気味な話だ。物部から話を聞いているのだから、尚更。

「それなら、関わった俺たちも祟り殺される可能性があるってことじゃないか? ご丁寧に一本一本、神通力だのなんだので手足を『抜き取られて』さ」

 冗談半分で言った台詞だったが、物部は思いの外真面目な顔を向けてきた。

「神通力はそういった類の力ではないが」

 視線が険しくなる。

「用心するに越したことはないな。……まぁ、今日は眠るがいい」



 ――夜更けの暗冥に目を覚ました。

 早過ぎる就寝のためかと思ったが、やがて、そうではないことに気付く。

 得体の知れない気配。

 何かに干渉されている感覚。

 自分の内側を弄られているような、止めどない不快感。

 いや、不快と言うより、恐怖だ。ただ寝転んでいるだけなのに、何者かの力を受けていることがはっきりと分かった。物部の真剣な表情を思い出す。

 頭の中で何かが鳴っている。

 暗闇に恐怖が膨張し、際限なく広がり続ける。

 歯の根が合わない。

 吐き気を催す。

 意に反して震えが止まらず、冷や汗がだらだらと流れ続ける。

 ――神通力。

「う、うああっ」

 寝袋を打ち捨て、立ち上がる。

 天狗。

 祟り。

 今、当事者となって分かった。本当にあったのだ。

 なら早く。

 早くここから逃げ出さなければ、俺たちも殺されて――!


「どこへ行くつもりだね」


 駆け出そうとしたところを、物部に腕を捕まれた。

 いつから起きていたのだろう。しかし、それなら話は早い。

「は、早く。早くここから」

「まぁ、一旦落ち着くといい」  

 瞬間、物部の腕が動いたかと思うと、耳の中に何かを突っ込まれた。

 それだけで悲鳴を上げそうになったが、やがて、自分の耳に突っ込まれたのがイヤホンであることに思い至る。

 …………。

 ……何だ? これ?

 物部は顔を顰めると、一転して提案する。

「む。……これはきついな。言う通り、外に出るとしようか」



「超低周波音」

 小屋から歩き始めて開口一番、そんな言葉を口にする。

「公害でもある低周波音の聞こえない版だとでも思ってもらえばいい。だが実際には鼓膜は震えているため、その差が体に不調を及ぼすことがある。今回は、再開発のために変えられた山の形と風がそれを引き起こしたのだと思うが。……さて、落ち着いたかね」

「あ、あぁ。しかしこのイヤホン、何なんだ?」

「気休め程度だが、中和のための音を流している」

 話しながら山道を進み続ける。

 暗闇のため足下は悪く、懐中電灯で照らしていなければ十メートルも進めなかっただろう。暫く男二人でそうしていると、目の前に果たして小さな崖が見えてきた。事件のあった現場。

 物部はそこで、口を開く。

「……被害者はさっきのきみのようにパニックを起こし、恐怖から逃れようと遮二無二走り出したんだろう。そして、滑落した。直接の死因はおそらくそれだね――打ち所が悪ければ、この高さでも十分死ねる」

「で、でもそれなら、遺体の損壊は」

「野犬にでもやられたんだろう……熊でも何でもいいがね。解剖には回しているんだろう? 結果が出れば自ずと分かることだ」

 そこまで目星がついていたのか。

 なら、わざわざ危険を冒す必要はなかったじゃないか。非難の眼差しを向けると、物部は素知らぬ顔で言う。

「実験してみないことには判らないからな。……しかしまさか、一晩で体験することになるとは思わなかったが」


 闇の中で二人、立ち尽くす。

 先に背を向けたのは、物部の方だった。

「さて、戻るかね。車中泊にでもすれば音は解決するだろう」

「そう。そう、だな。……だが」

 現場を見やり、正直な思いを口にする。

「天狗って言っても、こんなものなんだな。解き明かされれば自然現象、か」

 すると物部は、

「そう言ったか?」

 視線の先で、こちらを振り返る。その瞬間だった。

 何か尋常でない気配が、重圧が、頭の上からのし掛かる。

 辛うじて目を上げると、物部は静かに何かを見つめていた。

 視線を追い、俺はその場に凍り付く。

 木の上に、何か巨大な影が「居た」。

「――――」

 言葉も出ない俺を睥睨するように。

 取るに足らない存在と嘲笑うかのように。

 やがて影は空を撃つ音と共に、目にも見えない早さで飛び去っていく。

「……私はただ、仮説を挙げただけだ」

 物部は何も居ない樹上に視線を注いでいたが、そうしていることにも飽いたのか、やがてこちらに目を向けた。

「天狗の殺人か、不可思議なる自然現象か。……私の窺い知るところではないよ」

 そう言って、再び踵を返す。

 俺は暫く、その背中を追うことができなかった。

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