辻遥井は、彼女の名前だった。

 彼女の記憶が戻らないかと思って、彼女の名前を使った。

 そして、目の前の彼女は。自分の名前を聞いても、特に何も感じないみたいだった。


 目の前の彼女は。

 もう。

 辻遥井ではない。


 まったく違う、別人。


「そうか」


 あきらめが。

 なんとなく。

 ついてしまった。

 もう、彼女はいない。


 ここへ来るのも、最後にするか。


 ここには、彼女の面影しかない。


「最後に、教えといてやる」


「は?」


 お前から教わることなんて無いと言いたげな、顔。


「おまえが歩道橋にいるのは、歩道橋に感情移入してるからだよ」


「意味わかんない」


「そうか」


 下の交差点が、辻遥井で。上の歩道橋が、今の彼女。

 本当の人格の上に覆い被さった、別の道。







「ねぇ」





 もう。

 答える気も、起きなかった。

 でも。離れる気も起きない。意味の無い、未練。


「わたし。一応。わるかったと思ってる」


「何がだよ」


「わたし。記憶。うろ覚えだけど。ある」


「そうか」


「でも。なんか。違くて。ごめん」


「いや。気にしなくていい。おまえの人生だし。自由に」


「いや」


 いやか。何が、いやなんだろうか。


「行かないで」


「あ。俺のことか」


「他に誰がいるのよ」


 じゃあ、もうしばらく。ここにいるか。


「ねえ。任務の話をしてよ」


「言っても分からねぇよ。彼女にも、言ったことはあまりない」


「じゃあ。彼女の」


「おまえの前で、なんでおまえの話を」


「やっぱり。わたしなんだ」


「あ?」


「記憶はあるけど。わたしのことじゃないって。思いたかったの。でも。わたしなんだ。あれは。はぁ」


「どんな記憶なんだ?」


「なんか、男のことを、好きだった記憶。それしかない」


 俺のことか。


「でも、肝心の男の顔を。思い出せないの。だから、どうやって探していいかも分かんなくて。分かんなくて。それで」


 あ。そうか。


「それで歩道橋の上から、人の流れを見てたのか」


「うん。運命の男なら、びびっとくるかなって」


「びびっとくるやつは、いたか?」


「いない」


「そうか」


「その、毎回泣きそうになるの。やめてよ。なんか、どきってする」


「そうか」


 びびっときてるじゃん。


「ごめん。わたし。何言ってるか分からない」


 記憶が、たぶん混濁している。そして、そういう人間は、だいたい脳が考えるのを強制的にやめさせるので、倒れる。


「はぁ」


 ほら。

 倒れた。


 近くのベンチに横たえる。


 目が。覚めたら。

 どっちの彼女、だろうか。

 そんなことを考えながら、ぼうっとしていた。


 昼から、夜に切り替わる、その中間ぐらい。歩道橋の上。


 彼女は、まだ起きない。気持ちよさそうに寝てる。

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夕方の索漠 春嵐 @aiot3110

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