第10話
「命に別状はないわよ。話を聞く限り、何匹かの百足に複数個所を噛まれたようだから、強い痛みと痺れはあるでしょうけれど、毒が全身に回って死んだりはしない。もしかしたら、毒蛇もいたかもって話だけれど、まぁ、意識もはっきりしているし、危ない症状は出ていないから安心しなさい」
夜中にいきなり屋敷の中に現れ、問答無用で叩き起こされたにもかかわらず、マシロはすぐにハーティアを治療してくれた。
屋敷の一室に診察台として用意されていたらしい簡易ベッドを組み立ててハーティアを寝かせ、適切な処置を施し、痛みに呻くハーティアに付き添うグレイに診察結果を説明する。
「本当か!?」
「診察で嘘を言うわけないでしょう。とはいえ、一度に噛まれる量としては普通じゃないから、身体がびっくりしているのかも。傷口がすぐに治癒してしまって、毒を排出できなかったのは辛かったと思うけれど、よく冷静に対処出来たわね。何もしないよりはよかったと思うわ」
今のグレイは、子供を生んだばかりの母熊と同じだ。ガルガルと全方位に警戒をむき出しにしている世界最強の生命体に、マシロは少し呆れたようにため息を吐く。
「落ち着いたら、楽な格好に着替えさせてあげて。この後、患部はもっと腫れるだろうし――何より、血が付いたままって言うのも、嫌でしょ。赤狼の群れじゃ、その恰好は暑すぎるでしょうし」
言うが早いが、グレイがゴキッと指を鳴らすと、一瞬で手の中に厚手のガウンのようなものが現れる。屋敷から転移させたのだろう。
献身的過ぎるその対応に呆れるマシロの目を気にして、抵抗を示したハーティアに有無を言わせずあっという間に服を脱がせて着替えさせてしまう早業は、さすがとしか言いようがない。完全に母熊だ。
なるべくハーティアが恥ずかしくないようにと、床に落とされた彼女の衣服を拾いながら寝台の方を見ないようにしていたマシロは、切り裂かれて血が滲んだ衣服の足元を見て嘆息する。
「それにしても……毒を体内から出すために自分で自分の足を斬るって、よくそんな判断が出来たわね」
「は、はは……すごく強い眩暈がしたので、意識を保たなきゃって、必死で……」
羞恥に顔を赤くしながら、誤魔化すようにハーティアは言う。
傷が塞がってしまって毒が吸い出せないのだから、自分で傷を付ければいい――と、とんでもない発想をして、手にした短剣で足を傷つけたのだ。当然、その傷もすぐに回復することがわかっていたからこそ、出来る判断だったが。
副次的ではあったが、毒でぼんやりとした頭もクリアになった。
しかし、服に付着した血の匂いを纏うハーティアに、グレイが過保護を加速させてしまったのは誤算だったが。
「鎮痛剤を打ったから、この後眠くなるかも。安静にしておきなさい。……グレイ。心配だからって、ハーティアを困らせちゃだめよ。しっかり休ませてあげて」
「わかっている」
「じゃあ、あたしは寝るわ。ないとは思うけれど、容態が急変したら教えて頂戴」
じゃあね、と言葉を遺した後、ふわぁっと大きな欠伸を漏らして部屋を後にする。睡眠不足は美容の敵だ。
パタン……と静かに扉が閉まる音がして、しん……と一瞬部屋に沈黙が降りた。
「……グレイ」
「何だ。どうした?」
呼びかけると、寝台の脇に控えていたグレイがすぐに顔を上げて反応する。……母熊だ。
ハーティアは苦笑しながら、ゆっくりと右手を上げると、グレイの見事な白銀の髪をそっとかき混ぜるように撫でた。
「ビアンカさんに、怒ってる?」
「当たり前だ――!ティアの容態が回復したらすぐに、一族郎党、全員を厳罰に処す――!」
「もう……結果的には、無事だったのに。この毒は、私が勝手に、一人で帰ろうとしたからこうなっただけで――きっと、少ししたら戻って来て助けてくれたよ」
「そんなことは関係ない!私の『月の子』に危害を加えようと考える、そのこと自体が問題だ!二度と同じ過ちが起こらぬよう、遍く<狼>に骨の髄まで恐怖を叩きこんで――」
「いや、たぶん、もう、群れ全員が骨の髄まで恐怖を叩き込まれてると思うよ……」
怒髪天を突く勢いで激怒したグレイが、血眼になってハーティアを探し、ビアンカを容赦なく糾弾して痛めつけたその様子を見ていただけで、群れの皆は、ただの穏やかなだけではないグレイの一面を見て、全員等しく凍り付くほどの恐怖を感じたことだろう。
横穴の出口から顔を出したハーティアを見つけた若者たちが、血相を変えて飛んできて、あっという間にグレイの元へ連れて行かれたときの必死な様子から、それくらいは優に想像がついた。
「まぁ……きっと、ビアンカさんも反省していると思うし」
「まさか、許せと言うのか!!?」
「ビアンカさんって、<狼>さんの年齢的には、若い部類に入るんでしょう?だとしたら、グレイの本気の怒りを真正面からぶつけられたら、もうそれだけで死にたくなるほど怖いだろうなって思うから……もう、大丈夫だよ」
「しかし――」
「候補者の資質としてはちょっとアレなところがあったかもしれないけれど、難しい試験に合格するくらいなんだから、優秀な<狼>さんなのは事実なんでしょう?白狼の次世代を担っていく、貴重な存在じゃないの?」
「だがっ――だが、ティアっ……!」
「現時点では、私は戒も使えないし、白狼の子供が落とされるお仕置きの横穴すら、ヘロヘロになりながらじゃないと通り抜けられないくらいなのは、事実だもん。彼女は、何十年もグレイに一途に恋してたって言ってたから――ポッと出て来た、大して力もない女じゃグレイに相応しくない、って思う気持ちも、まぁ、わからなくはないっていうか――」
「そんなことはあり得ない。ティアは、存在するだけで尊い。ティアは、ただ、ティアであるだけでいいのだ。ただそこに在るだけで、何より優れている、世界で一番の女だ。どこに出しても誇らしい、私の愛しい無二の番だ」
「それはちょっと欲目が過ぎないかな……」
きっぱり言い切る母熊状態のグレイに呆れて、苦笑する。
子供を脅かされ、ガルガル期に入っているとしか思えぬ<狼>を前に、よしよし、と銀髪を撫でながら、穏やかな声で続けた。
「でも、ちょっと悔しいし――何かがあった時のために、やっぱり、戒は教えてほしいかな」
「勿論だ。回復したら、すぐにでも訓練を始めよう」
「うん。……そしたら、グレイも安心だよね?」
このままでは、四六時中監視&監禁コースが待ちかねている気がして、ハーティアは期待を込めて聞く。
「いや、戒とて万能ではない。安心は出来ぬ。やはり私が常に傍にいて――」
「いやほら、グレイが施してくれた『特別扱い』もあるわけだし」
「今回、それは発動しなかった。頼ることは出来ない」
「それはあれでしょ、百足の毒とかじゃ死ぬことはないから発動しなかっただけで――あれが猛獣とかだったらきっと発動してたよ。大丈夫大丈夫。キットダイジョウブ」
据わった瞳で狂愛を発動させようとするグレイを、必死になだめる。……怖い。
「でも、今回の件のおかげで、色々なことが分かったよ」
「何のことだ……?」
「まずは、私の身体のこと。正直、どんなに色々な人から話を聞いても、どうしても実感が沸いていなくって。本当に傷口が一瞬で回復しちゃうこととか、毒物には弱いこととか。……胃もたれはするんだなぁ、とか、全力疾走しても全然疲れないんだなぁとかっていうことも含めて、初めて実感することが出来たの」
瑠璃色の瞳が、心配そうにしている黄金の瞳を捉え、ふわりと緩む。
「ちゃんと知ることが出来て、よかったなぁって。だって、この身体とは長く――永遠に、付き合っていくんでしょう?グレイと一緒に」
「っ……あぁ……!私と一緒に、永遠に、いつまでも、共に歩いてくれ。この地獄の底を、どこまでも」
「ふふ……じゃあ、やっぱり、よかったなぁって思ったよ」
ハーティアの手を取って頬を摺り寄せ、懇願するように告げるグレイにクスクスと笑いながら、ハーティアは言葉を続ける。
「あとは――グレイが、すごく、モテるんだなぁってことも」
「何……?」
「ビアンカさんはもちろんだけど――白狼の皆に、モテモテだった。男の人にも」
「どういう意味だ?」
「滅多に帰らないって言ってたし、白狼たちは監視者としての役目も担っているって言っていたから、もしかしてグレイとは距離があるのかなって思ってたのに――皆、総出で歓迎してくれたじゃない」
「あぁ――なるほど。そういう意味か」
ふ、と苦笑して、グレイはゆっくりと眩い月光を溶かしたような黄金の髪を撫でつける。
「白狼の寿命は長いからな。先の大戦から、さほど代替わりをしていない。その後、特に大きな問題も起きていないから、変わらず当時の功績を認めて、私を族長として担いでくれる者が多いだけだ」
「でも、びっくりしちゃった。凄く綺麗な街並だったね。あのたくさんの灯篭の飾りつけも、きっと、グレイが来るのに合わせて、わざわざ準備してくれたんでしょう?宴会のときも、皆とっても良くしてくれて――私もすごく、嬉しかった」
「そうか。私の同胞を気に入ってもらえたのなら、何よりだ」
すっとグレイの瞳が緩んで細められる。本当に喜んでいるらしい。
その表情に、<狼>種族を平等に慈しむ心優しいいつものグレイの姿を垣間見て、ふわり、とつられたようにハーティアも笑みを作る。
「私の旦那さんは、すごく人気者なんだなぁって思って――ふふ、すごく嬉しかったんだよ」
「っ……ティア――」
無邪気に笑ったハーティアを前に、ぎゅっとグレイはその手を握って熱いため息を吐く。
「急に匂いを変えるな。――堪らない気持ちになる」
「ぅぇええ!?ちょ――待って無理だよ!?」
「わかっている。……まさか私のことを、体調の悪い番に無理に行為を迫るような雄だと思っているのか?」
(……はい、って答えたら怒られるよね……)
グレイならやりかねない――と思ってしまったとは口に出来ず、乾いた笑いで誤魔化す。
ちゅ、と握った掌に愛しそうに口付けを一つ落として、グレイはいつものように愛を囁く。
「誰にどれだけ愛されていようと、関係ない。私は等しくすべての<狼>に慈愛を注いでいるのは事実だが――それはあくまで、長として、だ」
「う、うん」
「グレイ・アークリース個人の愛を注ぐのは、千年前からずっと――これから先も、世界でただ一人、ハーティア・ルナンだけだと、それだけは
「わ……わかった……」
切ない表情で熱く囁かれ、ドキドキと心臓を高鳴らせながらコクコクと頷く。
誰からも尊敬を集める優秀なリーダーの顔と、背筋が寒くなる狂愛を振り撒く顔と、甘ったるい溺愛を囁く顔を持つグレイに振り回されてばかりで、ハーティアの心臓は今日も騒がしい。
「あぁ……ティア、頼むから早く回復してくれ。心配でたまらないのはもちろん――繁殖期も近いのに、不意に愛しく懐かしい匂いを漂わせるお前を前に、あまり長くお預けをされては、気が狂ってしまいそうだ」
はぁ……と熱っぽい吐息を吐くグレイに、ビクリと手が震える。
「え――?」
「?……どうした」
ギギギ、とハーティアが音を立てそうなほどぎこちなく首をグレイへと向ける。
きょとん、と瞬く黄金の瞳をまじまじと見つめる。
今――なんだか、不穏な発言がなかったか?
「えっと――グレイ」
「あぁ」
「繁殖期って――冬、なんだよね?」
「?……まぁ、広義で言えば、そうだな」
「つまり今も、真っ盛りっていう――」
恐る恐る確認をすると、ぱちぱち、と優しい黄金の瞳が何度か瞬く。
「いや?――繁殖期は、晩冬だ。まだしばらく先だな」
「!!!!???」
「この時期に候補者がやってくるのは、定期連絡を兼ねているためにきちんと仕事を全うせねばならないためだ。私が何かしら指導をする場合もあるから、その期間も設けねばならないしな」
ぞっ――とハーティアの背筋が寒くなる。毒による熱っぽさなど、一瞬でどこかに吹き飛んでしまった。
「繁殖期は、基本的に皆家の中に籠って出てこない。獣の冬眠に近いな。事前に準備をして、引きこもる。経済活動も社会活動も、最低限を残して殆ど止まってしまう」
「な……な……」
「いつも、この時期はただの種を残すための期間だとしか思っていなかったが――今年は、仕事のことも何もかもを忘れて、お前のことだけを考え、ただひたすらにお前を愛していられる期間なのだと思うと、今から楽しみでたまらない」
「そ……そんな……」
待ってくれ。
じゃあ、最近のあの絶倫っぷりはもしや――――グレイの通常運転、だとでも言うのか。
「その期間は、世界に二人きりだけと言っても過言ではない。愛しい『月の子』よ。千年重ねた私のこの愛を、どうかその身で受け止めておくれ」
「は……はひ……」
再び掌に口付けを落としながら、うっとりとした声で囁く番を前に、ハーティアは泣きそうな顔で返事をしながら天井を仰ぐのだった。
【本編完結1周年記念番外編】北の白狼 神崎右京 @Ukyo_Kanzaki
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