第9話

 群れから少し離れたところに独りで転移したビアンカは、サクサクと雪を踏みしめて群れへ向かって歩き始めた。


(しばらく放置すれば、十分反省するでしょう。グレイの番として傲慢な態度などしなくなるはず……それまでせいぜい恐怖に慄けば良いんだわ)


 ビアンカとて、何も本気でハーティアを殺そうなどとは考えていない。

 昼間に到着し、群れを案内されている最中でさえ、グレイはずっとハーティアの腰に腕を回し、仲の良さを対外的にアピールしていた。

 白狼の族長として振舞うグレイを前に、時折思い出したかのようにハーティアの香りが変わるのに気付いたものも多かっただろう。

 どこからどう見ても相思相愛の、蜜月真っ盛りの番だ。きっと、今まで密かにグレイに憧れていた雌たちも、あの間に割って入ることは出来ぬと、諦めと共に祝福せざるを得なかっただろう。


「わかっているわよ……でも、悔しいじゃない」


 幼い頃からずっと、グレイに憧れていたのだ。

 いつか必ず番になるのだと、必死に彼に相応しくなるために血の滲む努力をした。周囲の者たちは『神童』などと容易く言ってのけたが、ビアンカが裏で血反吐を吐くような努力をしていたと知っている者は身内の中でもごく親しい者だけだ。

 何度も何度も試験を落とされ、通過していく者たちをギリギリと歯ぎしりをして見送った。戒の練度も、知識の量も、通過者たちに引けを取らないはずなのに。

 痺れを切らして、どうして合格しないのか、と審査官に問い詰めたときに返された言葉は、今も忘れない。


『もう少し、大人になってから再度挑戦することだ』


 悔しかった。少し哀れんだ様子で言われたその言葉が、悔しくてたまらなかった。

 合格して送られていく雌を観察すると、確かに彼女たちは大人だった。優秀で、美しく、理知的な者が多かった。

 ちょっとしたことでむきになり、激昂する自分は、確かに大人とは言い難い。

 だから必死に冷静を保つ訓練をした。激情家な己の本性を理性で抑え込み、理知的に振舞う術を身に着けた。


 何度も往生際悪く挑戦するビアンカに、同情の視線が向けられているのもわかっていた。恥辱と悔しさで、諦めてしまいたくなったこともある。

 それでも毎年――候補者たちは誰一人、グレイの番に選ばれることはなかった。

 千年、誰とも番わず孤独に生きる<狼>の長は、誰もに等しく機会を与え、誰にも等しく無情だった。

 どんなに素晴らしい雌を送り込まれても、決して変わらないグレイの判断は、ビアンカに希望と絶望の両方を与えた。

 情緒がぐちゃぐちゃになる数年間を過ごして――最後の年は、達観していた。

 もう、番にしてほしいという気持ちは殆どなかった。

 グレイはどこまでも公平で公正な、完全無敵の長なのだ。

 だからどうせ――すべての存在モノに分け隔てなく、等しく、正しく、扱いを変えることはない。

 誰か一人を特別扱いして、その存在のために前後不覚になるような、そんな矮小な<狼>ではないはずなのだ。

 だからきっと、自分が候補者になったとしても、番に選ばれることはないだろうと悟った。たとえ何年連続で候補者の座を勝ち取ろうと、彼は変わらず孤独を生きるのだろう。

 だからもう、繁殖候補でもいい。――彼の子を、身ごもれるのなら。

 人知を超越した、完全無欠の<狼>の血を宿した、未来を繋ぐ子を宿せるのなら、それだけで幸せだから――

 そんな風に考えて試験を受けたら――なんの奇跡か、合格を貰えたのだ。


 屋敷に赴くときは、グレイに失望されぬよう、その年の代表として誇り高く振舞うつもりだった。

 何度も試験に落ち続けたから知っている。合格者は、その年の落第者全員の期待と羨望と少しの憎しみを背負って、派遣される。

 彼女らの気持ちを無に帰すようなことは出来ない。

 番になりたい、などという気持ちは胸の奥底に仕舞い込んで、ただ与えられた責務を粛々と過ごそうと――


「ッ……なのに、あの女が……!」


 シーツの波間に漂う、明らかに情事の後だと主張するかのような、艶めかしい肢体。

 何十年も焦がれ続けた、愛しい雄の匂いをこれ見よがしにその身に纏って、ビアンカを振り返った女。

 絶望だった。

 グレイは、完全無欠の長ではなかったのか。

 誰にも等しく、平等に、無慈悲なのではないのか。

 ”例外”が許されるのだとしたら――どうして、何故、私はその対象に選ばれない?

 哀しみが暴走して、試験に受かるために抑え込んだ筈の、本来の激情家の自分が前面に出て来た。

 彼らが群れに来て、他の雌たちが「これは仕方がない」と諦めているのを見ても、気持ちは全く整理できなかった。

 ビアンカの人生は、ただ、あのグレイの屋敷に赴くたった一日のためにあったと言っても過言ではなかったのに――寄り添う二人の仲を無条件に認めてしまっては、自分が積み上げた長い期間も全て無駄になってしまうようで――


(少し懲らしめたら、胸も梳くはずよ。今度はグレイに、笑っておめでとうって言えるはず。だから、ほんの少しくらい、意趣返しをしたって――)


 歩みを進めていくと、ふと、群れの中が騒がしいことに気が付いた。

 足を止めて、様子を窺う。

 群れの中のいたるところに、松明のような灯りが揺れている。――灯篭ではない。


(え……?な、何……?もう、夜中よね……?どうしてこんな数の<狼>が――!?)


 その松明の数は、老若男女、関係なく総出で起き出して外に出ていることを示していた。

 ゆるりと視線を巡らせれば、林の中にもちらほらと炎の揺らぎが見える。

 一体何が――という問いは、誰かに尋ねるまでもなく、すぐにわかった。


「ハーティアーー!」「ハーティアちゃん!!」「返事をしてくれ!!ハーティアさん!」


 耳に届いた、<狼>たちの必死の呼びかけに、ザァッ――と頭の先から一瞬で血の気が引く。

 視界一杯に広がる無数の灯りは、どうやらあの脆弱な少女を捜索しているらしい。


「ぁ――」


 事の重大さに怯んで、無意識に後退ると、ざく……と雪が足元で音を立てる。

 <狼>たちが口々に張り上げている声に、冗談の響きはない。微塵の隙も無く、どこか悲痛な――恐怖すら伴う、必死の呼びかけ。

 彼らが感じている恐怖の元が何なのか――わざわざ考えるまでもなく、予想はついた。


(だ――駄目、駄目よ、冷静に……冷静になるの、ビアンカ……)


 一瞬、屋敷でぶつけられたグレイの冷たい殺気の恐怖を思い出し、その場に竦みそうになるが、自分で自分を叱咤する。


(不在がばれたところで、犯人まではわからないはず――あの女が、夜風に当たろうと、自分から宴会場を抜け出したのは事実なんだもの。見慣れぬ幻想的な風景に、誘われるように足を向けたら、迷子になって、林に出ちゃったとか――そう、それを私が見つけて保護したことにすれば、まだ大丈夫――!)


 くるっと踵を返し、震える足を叩いて黙らせ、集中する。ビアンカ自身が誰かに見つかる前なら、言い訳は可能だ。自分も必死に探していたのだと言えばいい。

 ひゅぉ――と戒を発動させようとしたところで、後ろから声が響いた。


「ビアンカ!」

「!」


 自分の名前を呼ぶ声に、心臓が飛び跳ね、集中が霧散する。

 咄嗟に振り返ると、よく知った男が松明を手に真っ青な顔でこちらへと駆けて来ていた。


「叔父さん!」

「あぁ――ビアンカ、良かった!よかった、安心した――!」


 男は近くまで駆け寄ってくると、ビアンカの顔を確かめ少し皺のある目を細めて、蒼い顔を松明に照らしながら心の底から安堵のため息を吐く。

 彼は、ビアンカが幼いころから裏で血反吐を吐くほどの努力をしていたことを知る数少ない<狼>の一人だ。


「姿が見えないから心配していたんだ――!」

「ご、ごめんなさい……」


 もしかしたら、ハーティアは林の猛獣や、何か外敵に襲われたと心配されているのかもしれない。だから、ビアンカの不在を、彼女も餌食になったのではと心配されていたのか。

 そんな風に都合よく考えるビアンカの思考を、親しい叔父は一瞬でぶち壊す。


「さぁ、早く!グレイが、お前を探しているんだ――!」

「っ!?」


 手を取られて、群れの中に引っ張り込まれそうになって、思わず足を踏ん張って抵抗を示す。

 その反応に、叔父は目を見開いてビアンカを見た。


「ビアンカ……?一体、どうしたんだ?」

「っ……こ、こっちのセリフよっ……グレイが、どうして私を――!」


 ドクドクと、心臓が不穏な音を立てて騒ぎ立てる。じっとりと、全身に嫌な汗が広がっていくのが分かった。

 叔父は、蒼い顔でビアンカに言い募る。――決して、掴んだ手は離さないままに。


「グレイの番が、宴会場から姿を消したんだ」

「っ、それが、どうして私に――」

「グレイは――グレイは、お前を疑っている――!」


 ひゅっ――と己の息が止まる音がした。

 目の前が暗転するような錯覚に、足がふらふらと定まらなくなる。


「なぁ、ビアンカ!儂は、お前がそんなことをする奴じゃないと信じている!今度ばかりは、あのグレイが間違っていると思いたい!だから――だから、ビアンカ!お前にやましいことがないなら、グレイの元に赴いて、直接説明をしてくれ!」

「ゃ――」

「番の安否がわからぬ状態に、グレイは今、常軌を逸した興奮状態だ――!誰も彼もが、グレイの逆鱗に触れて腰を抜かしながら必死に番を探している!このまま番の行方が分からなければ、白狼の責任として、代表者や主要な人物が見せしめに殺されかねない!頼む――頼む、だから、ビアンカ!すべての誤解を解いて、白狼の責ではないと……っ、外部の、何者かの犯行なのだと、お前の口から説明してくれ!!!」


 ぞぉっ……と背筋が寒くなる。

 昔から信用していた叔父の瞳が、縋るようにこちらを見ている。

 証拠など、無いはずだった。それなのに、グレイはきっと、あのよく回る頭で、ビアンカが犯人だとすぐに特定したのだろう。


(駄目だ――駄目、このままグレイの元へ行ったら私――八つ裂きにされる――!)


 この短時間で犯人を特定し、住民を全て叩き起こして捜索に加わらせた怒り狂うグレイを前に、どんな嘘も言い訳も通用するはずがない。

 ガチガチと歯を鳴らしながら、足を踏み出そうとしないビアンカを前に、叔父は愕然とした顔をした。


「お前――まさか、とは思うが――本当に――」

「ぁ……ぁぁ……」


 信じられない行いだった。

 白狼の寿命の平均は、五百年ほど。他の<狼>たちと比べて、先の大戦から、まださほど代替わりをしていない。

 つまり――長であるグレイの、伝説のような強さも、本気で怒った時の恐怖も、身内であっても規律を乱した者に対する容赦のなさも、何もかもの逸話を、年長者であるほど骨の髄まで理解している。

 千年が経ち、滅多に白狼の群れに訪れることもなくなったグレイが、他の者に族長の座を明け渡し、自分は<狼>種族の長としてだけ君臨しようと提案しても、白狼たちは決して首を縦に振らなかった。

 グレイ以上に長として相応しい存在はいない、と誰もが心から理解しているからである。


「ビアンカ!お前、なんてことを――!」

「違うの、叔父さん!わ、私は――」


 蒼い顔で絶句した叔父に、藍色の瞳に涙を浮かべて弁明しようと顔を上げた時だった。


「あっ!いた!グレイ、こっちだ!」

「!」


 恐らく、ハーティアを探す部隊とビアンカを探す部隊がいたのだろう。

 若い<狼>が、ビアンカを見つけてこちらを指さす。

 ドキリ、と心臓が鳴った途端――


 ドゥッ――


 若者のすぐ後ろで、雪が舞いあがる鈍い音がした瞬間、目の前に血走った黄金の瞳があった。


(戒――じゃ、ない――!?)


 まるで、戒で転移したのかと錯覚するほどの速度で踏み込み、一瞬で距離を詰めたグレイは、そのまま容赦なくビアンカの首へと己の右手を突き出した。


「ガッ――!!」

「ぐ、グレイ!!!」


 叔父が思わず声をかけるが、怒りのマグマを湛えた黄金の瞳は、完全にビアンカを敵と認識しているらしかった。

 ギリ、と犬歯を噛みしめるようにして、そのまま片手で首を掴み上げると、ビアンカの長身がふわりと宙に浮く。


「ッ、く――ぁ……」

「貴様――私の『月の子』を、どこへやった――!」


 地底から響いてくるような低い声で、片手でやすやすと大人一人を持ち上げ脅し付ける。

 ギリギリと首を締め上げる腕には一切の容赦がない。


「し――知、らな――」

「私の目を誤魔化せると思うか――!昼間、群れの中を歩いている時、唯一お前だけが最後までティアに敵意の目を向けていた。宴会場を出たらしきティアの匂いを辿れば、お前の匂いと共に一点で途切れていた。そして、今、この瞬間まで群れを不在にしていた――!関与を疑わぬ方が難しい――!」

「ぐ、グレイ、それではビアンカが喋れない!どうか少し落ち着いて――」


 酸欠で意識が白んでいく寸前、叔父が蒼い顔でグレイに懇願している声が聞こえた。

 ギリッ、と奥歯が破滅的な音を立てるのが聞こえた後、急に手が離されたのか、気管に夜の凍えた空気が大量に入り込んで、無様に崩れ落ちながら咽る。


「言ったはずだ――!ティアに危害を加えれば、それが例え我が子同然の<狼>たちであろうと、どんな弁明も、命乞いも聞かぬと――!」

「ガハッ……ぐっ……ごほっごほっ……」

「さぁ立て――!ティアの居場所を吐いてもらうぞ」


 地面にもんどりうって泣きながら咳き込む美女にまたがり、ぐいっと再び襟首を掴み上げる。


「貴様を挽肉ミンチにするのはその後だ――!そのまま、宴会の皿に並べてやろうか――!」

「ヒッ……!」


 ギラギラと、殺意の塊を抱いて光る黄金の瞳は、とても正気とは思えない。


『怒りに我を忘れたグレイに、一族郎党惨殺されるご覚悟があるなら、どうぞご自由に』


 耳の奥で、年端もいかぬ少女が呆れたように呟いた声が蘇る。

 あれは、脅しでも何でもなかった。


(こ――殺される――!)


 自分だけではない。きっと、ビアンカに連なる者たちまで全て、見せしめのように殺されるのだろう。

 グレイの番に危害を加えるとはこういうことなのだと、全員に等しく、正しく、理解させるために。

 何故なら彼は――公平で公正な、長だから。


「ぁ……ぁぁ……」


 答えても地獄。――答えなくても、地獄。

 恐怖のあまり失禁しそうになりながら、ビアンカが涙目で絶望していると――


「グレイ!!!いた!!!ハーティアが見つかった!!!!」

「何――!?」


 遠くから響いた声を拾い、ぐりんっとグレイは首を振って声の方へと振り返る。

 視界の先に、数名の<狼>たちに両側から支えられるようにして、ぐったりした様子ながら気丈に笑みを浮かべて見せる、愛しい番の姿が確かにあった。


「っ、ティア!!!!」


 叫び声をあげて、首を締め上げていたビアンカを雪の中へ放り出し、全速力でハーティアへと駆け寄る。

 あまりの速度に面喰った<狼>たちが怯むのにも構わず、風のようにその小柄な身体を掬い上げ、骨が折れる勢いで抱きしめて無事を確認する。


「ティアっ――ティア、ティア、無事だったか――!」

「ちょ、いた、痛い痛い痛い」


 暑苦しく全力で顔をうずめてフンフンと匂いを嗅ぐグレイに、弱々しく呻くように抵抗する。

 相変わらず、愛が重い。

 しかしグレイは、スン、と鼻をひと鳴らしした途端、ガバッと顔を上げた。


「ティア――!?血の匂いがっ……お前、どこか怪我を――!?」

「あー、うん。いや、怪我って言うか、自分で――」


 困ったように告げるハーティアは、心なしか体が熱い。ぐったりとしていて、呼吸も荒かった。


「一体、何が――!ビアンカか!?今すぐ殺して――」

「ちが、違う、違う。あー、その……グレイ、落ち着いて……お願いだから……」


 ギロッと放りだした女へと敵意を向けるグレイをなだめながら、ハーティアはそっとグレイの首に縋りつくように腕を巻き付けた。

 本来なら、衆目の中でこんな体制を取るのは御免なのだが――そうしないと立っていられないのだから、仕方がない。


「ティアっ!?」

「グレイ……悪いんだけど、お医者さん――赤狼の群れとかに、連れてってもらえないかな――」

「わかった、すぐに行こう。マシロを叩き起こす!」


 熱っぽい吐息で苦し気に伝えるハーティアの言葉に、理由も聞かずたちどころに頷いて、小柄な身体をしっかりと抱きかかえたままゴキンッと指を鳴らす。


 ふぉんっ……


 北の果てから、恐怖の大魔王が去ったことを知り、ひとまずの安寧が訪れ、白狼たちは心の底から安堵の吐息を漏らしたのだった。

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