第8話
「……困ったな……」
ハーティアは短剣を手に唸る。
正論をぶつけて事の重大さをわからせる、という最後の手段は通じなかったらしい。
「まぁでも……逆上して、私を殺そうとしなかっただけマシか」
そういう意味では、賭けに勝ったのかもしれない。
もしも、ビアンカが怒り狂って、衝動的にハーティアを手に掛けようとした瞬間――
――きっと、グレイの『特別扱い』が発動して、たとえ彼が世界の果てにいたとしても、問答無用で修羅の形相を湛えた最強の<狼>がこの場に顕現することになる。
(間違いなく、一瞬で肉片になるよね……ビアンカさん……)
グレイの『特別扱い』が発動した時点で、他者が悪意を持ってハーティアを殺そうとしたことの証明だ。それは、決して事故では発動しないのだから。
その事実を前にすれば、グレイはきっと、どんな言い訳も、命乞いも聞かない。
愛しい番を奪われる恐怖と怒りに我を忘れて、この辺り一帯を吹き飛ばしてしまっても何ら不思議ではないのだ。
(そして、そんな出来事があったら、同じことが絶対に起きないように、もう二度と傍から一瞬たりとも離しはしない――とか言って、屋敷に問答無用でしばらく監禁される未来まで見える。……それだけは何としても防ぎたい)
げんなりと胸中で呟き、はぁ、と重いため息を吐く。
ビアンカには大変申し訳ないが――正直、愛され過ぎるのもなかなかに大変だ。
「さて……と。冗談じゃなく、早く戻らないと、グレイが暴れ出しかねないよね……」
気持ちを入れ替えて、ハーティアは言い聞かせるようにつぶやく。
呼び出されたグレイが戻ってきたら、ハーティアの不在に、すぐに周囲の者に居場所を尋ねるだろう。そこできっと、宴会に気を取られていた者たちも、いつまでも戻ってこないハーティアを不審に思い、事件が発覚する。
そこから先は――考えたくもない、悪夢だ。
どうか、昼間、あんなによくしてくれた同胞の数々を、一瞬で恐怖のどん底に叩き落すようなことだけはやめてほしいと、切に願う。
「獣型で横穴を疾走すれば――ってことは、こっちは出口につながってる、ってことだよね」
ビアンカがこぼした言葉を思い出しながら、横穴の方へと足を進める。
「この時期にここに子供が入れられることはない――って、まぁ、そりゃそうだよね。風邪の菌すら活動できないレベルの寒さなら、毒虫も蛇も、大抵冬眠してるでしょ」
ビアンカは神童と呼ばれていたと言うから、この穴に入れられたことはないのか。あるいは、狩り一つにしても、戒でお手軽に済ませてしまうが故に、蛇や虫の生態といった森の常識には詳しくないのか。
どちらにせよ――幼いころから山を駆けまわっていたハーティアよりは、抜けているとしか言いようがない。
「グレイが、私たちの身体は体力が無尽蔵だって言ってたし――それなら、出口まで走り切ることくらい出来そうだよね」
ぐっぐっと屈伸運動をして全力疾走の準備を整える。
ハーティアは、村一番の俊足を誇った。さすがに子供とはいえ<狼>の獣型と比べれば劣るだろうが、虫たちが冬眠をしている今の季節なら、踏みつけたところですぐに噛まれることはないはずだ。もしも冬眠せずに起きていて、明らかに危うい毒蛇がいたとしたら、それは短剣で排除していけばいい。
そして何より――仮に噛まれたとしても、さほど怖くはないのだ。
内側の不調に強くない、とグレイは言っていたが――苦しむことはあっても、死に至ることはない、とも言っていたのだから。
「それよりも、グレイが見境なく暴れて、この辺一帯が更地になる方が本当に怖い……生態系が一気に崩れそう……」
ぶるっ……と寒さではない何かで背筋を震わせた後、しっかりと与えられた短剣を握り直す。
二、三度深呼吸して息を整えた後、ハーティアは力強く地面を蹴って、横穴の中へと突っ込んで行った。
◆◆◆
予想通り、横穴の中にいると言われていた虫や蛇たちは、皆冬眠しているのか、ハーティアが全力で駆け抜けて行けば、その進みを阻害するようなものはいなかった。
ビアンカは、虫や蛇に怯えて泣き叫べと言っていたが、山育ちのハーティアは、そもそも虫や蛇ごときに悲鳴を上げるようなか弱い性格をしていない。仮に噛まれたとしても、適切な知識で処置をすることすら可能だ。
小悪党のお粗末すぎる計画をあざ笑うかのように、すいすいと何にも阻害されることなく横穴を駆け抜ける。だいぶ、真っ暗な横穴にも目が慣れたのか、ぼんやりと周囲の様子がわかるのはありがたかった。
どれくらい駆け抜けたのか――遠くに、眩い月光が差し込んでいる場所が見えた。
(出口――!)
群れを離れてからの時間を考えると、ビアンカとの不毛な問答のせいで少し時が経ってしまっているだろうが、横穴に入ってからはさほど経っていないはずだ。
子供の反省を促すための穴で、勇気をもって駆け抜ければ出られるように設計されていると言うのなら、きっと出口は群れからほど近く、大人たちの目に触れやすい場所だろう。――子供が勇気を出した先で遭難するなど、本末転倒にもほどがあるのだから。
ハーティアはそう当たりを付けて、早く群れに戻ろうと力強くさらに足を踏み出そうとして――
「っ――!?」
ぎゅっ――と足元で耳障りな音がする。全力で踏ん張るようにして、足を止めたせいだ。
「な……ナニコレ……」
ひくっ……と頬が引き攣る。
光が差し込む出口の手前――まるで浅い盆地のようなそこには、目を凝らすと何かがうじゃうじゃと犇めいている。
微かな灯りしかないため、蛇だか百足だか知らないが、何か毒を持った生命体であろうことだけは予想がついた。
「……あー……なるほど……獣型なら、全力疾走で助走を付ければ飛び越えられる距離、ってことね……」
試練の穴、という表現を思い出し、ハーティアは疲れたため息を吐く。
さしずめこれは、勇気をもって横穴に足を踏み出した、戒がまだ使えぬ幼子に課される最後の試練、というわけか。
「どうしようかな……さすがにこれだけいると、足場も悪いし、全力で駆け抜けても噛まれちゃうよね……」
むむむ……と目の前の浅い盆地を前に唸りながら考え込む。
幸い、盆地の底でも大半の生き物は冬眠しているらしかったが、バタバタとその上を踏みつけながら慌ただしく駆けて行けば、起き出してガブリと噛まれてしまうだろう。
しばらくハーティアは考えて――
「――よし!考えても仕方がない!死なないことに賭けて、走り抜けよう!」
脳筋の極みのような結論を出す。
そもそも、子供の反省を促す場として設けられている横穴なのだ。ビアンカは”猛毒”と表現していたが、ひと噛みで死んでしまうほどの、本当の猛毒を持つ生物がいるとは思えない。せいぜい、少し熱が出たり体調が悪くなる程度の微細な毒だろう。
流石に、この盆地に犇めく毒虫に手当たり次第に全身を噛まれたりすれば、命の危機も起きるかもしれないが、今は虫も冬眠中だ。いくつか噛まれたとて、すぐに傷口から毒を吸い出して適切に対処すれば、恐れることはないはずだ。
ぐっぐっと再びハーティアは盆地の前で準備運動をすると、息を整える。
少し距離を戻って、出口を見据え――
全力で駆けだした。
「っ――!」
盆地の中へと足を踏み入れると、見た目よりも深かったらしい。ずぼっと足が柔らかい何かに飲み込まれる感覚に、生理的な嫌悪感が走るが、自分を叱咤して無理矢理に足を進める。
「いたっ――!」
やはり、無傷という訳にはいかなかったのだろう。駆け抜ける中で、足に何度か激痛が走る。
(大丈夫、毒くらいじゃ死なないはず――!)
自分に言い聞かせるように無心で足を動かして、やっとのことで盆地を抜け出る。
出口はもう、目の前だった。
「っ、たぁ……!」
灯りが差し込んできているところに倒れ込むようにして、自分の足を顧みると、わさわさと百足が数匹取り付いているのが見えた。
「あぁもうっ!どっか行って!」
普通の女なら耳を劈く悲鳴を上げるところだろうが、ハーティアは怒りながら百足を払いのけ、手にした短剣でざくりと突き刺し、命を奪う。これ以上の被害を防ぐためだ。
「~~~っ……さ、すがに、ちょっと無謀だったかな……!?」
すべての百足の処理を終えるころには、くらりと目の前が揺れて、毒が回っていることを自覚する。身体も心なしか熱い。熱があるのかもしれない。
ハーティアは急いで靴を脱ぎ、傷口を確かめて毒を吸い出そうと――
「――ぁ……やっば……これは、考えて――なかった……」
己の脚を見て、荒い息を吐く。
毒が侵入したところからすぐに毒を吸い出そうとしたのだが――
――驚異的な自然治癒の力のせいで、百足に噛まれた傷跡は、既にどこもかしこも、きれいさっぱり消えてなくなっているのだ。
どうしようか――と考えるも、すぐに息が荒くなり、出口を失った毒が身体に回っているのがわかる。
「ぁ……だ、めだ……これ……グレイ、に……見つかった、ら……本当に、ヤバい、やつ……」
毒物に弱いというのは本当なんだな、などと意識が朦朧とする頭の隅で考えながら、狂気の愛を振り撒く番が、見境なく暴れる未来が脳裏に浮かんで、ぞくりと背筋が寒くなる。
もしもこのまま、毒に苦しみながら意識を失った状態でグレイに発見されたとしたら――考えるだけでも、恐ろしい。
「あー、もう……っ!頑張れ、ハーティアっ……!」
自分で自分を奮い立たせて、ハーティアはゆるゆると短剣を持ち直すのだった。
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