あかり先生はこころの声が聞こえる②


 その日はアカリ先生が学校に来る最後の日だった。クリスマスイブ、終業式の日でもある。僕は通学班での登校を無視して誰よりも早く登校していた。




 あ、アカリ先生だ。教室に向かう途中で、姿が目に入る。


 白いシャツに、紺色のフレアスカートの後ろ姿に僕はたった一言の挨拶ですら、迷ってしまう。




 僕は先生に悪いことをした。あの日以来、先生にお礼を一度も言えていないのだ。友達の前だと妙に恥ずかしくて避けてしまう。アカリ先生は僕にあんなに真っ直ぐ向き合ってくれたのに。


 それが恥ずかしくてどんな顔をして会えばいいのか、無性に泣きたくなる。ランドセルの持ち手を握る手に力が入る。


 カッと、廊下と靴のぶつかる音がした。僕は気が付かなかった。なんせ、廊下に視線が張り付いていたのだ。アカリ先生は僕の側まで来ると、向かい合わせにした両手の人差し指を軽く曲げた。




『おはよう』




 アカリ先生が微笑む。


 優しすぎるよ、先生。


 僕は思い切って、真っ直ぐに先生を見た。




「この前は、」




 僕は左腕を胸の前に横たえ、立てた右手の平を一度前に倒した。




『ありがとう』




 図書室の本を借りて、唯一覚えた手話だ。


 先生は一瞬驚いた顔をして、それから僕に向けて『なにか』を告げた。




 その想い(ことば)がなんであったのか、その時の僕は知らない。


 だけどアカリ先生の顔を見れば分かった。


 僕の出来損ないの手話を先生はとても喜んでくれていた。




 アカリ先生はその日を最後に、もう学校に来ることはなかった。教育実習生なんだから、ずっと学校にいないことは分かってたつもりだったけど、冬休みが明けて初めて実感した。




 僕はもうアカリ先生に会えないんだ。




 もっと先生と話をすれば良かった。そんな後悔は僕の中にこびりついた。アカリ先生は僕のことをどう思っていたんだろう。アカリ先生の目には何が見えていたのか、どんな心の声が聞こえていたのか、教えて欲しかった。


 僕もアカリ先生みたいに、心の声が聞こえるようになりたい。




 悲しくて仕方の無い中でアカリ先生のことを考えているうちに、僕はそう思うようになっていた。






 ❀ ❀ ❀




 話が終わり、僕はふぅ、と息をついた。




「まぁこんな感じかな」


「心の声、聞こえるようになった?」




 桃花ちゃんは目を輝かせた。


 と、その時、鈴のついた扉が開いてカランと音が鳴った。




「あら山ノ内さん! 桃花ちゃーん、お迎えよ」


「はーい!」




 元気な返事と共に桃花ちゃんが駆け出した。


 その先に髪の長い女性がいて、桃花ちゃんに手を振っている。




 微かに既視感があった。


 あれ、どこかで。頭を抑える。




 ――うそだろ。記憶を遡ってみて気がついた。


 僕はさすがに目を疑った。




 そこにいたのは、10年後のアカリ先生だった。


 山ノ内 朱里先生。


 一度、まさかと否定してみるけど間違えない。




「…………桃花ちゃん、この人は」


「あかりちゃん? お母さんの妹だよ! たまにお母さんの代わりに迎えに来るんだ〜! あれ、先生会うの初めてだっけ?」




 こんな嬉しい偶然があって良いんだろうか。


 アカリ先生が僕を見る。


 きっと彼女は僕のことなんて覚えていないだろう。10年も前に少し関わった小学生の僕のことなんて。


 それでも、聞かずには居られなかった。




「お久しぶりです、アカリ先生。僕のことを……若葉陽斗のことを覚えてますか?」




 手話と併せて、先生に話しかける。




 髪、伸びましたね。


 また一段と、綺麗になりましたね。


 笑顔とか、優しい目とか、そういうところは全然変わりませんね。




 話したいことが沢山頭に浮かぶのに、それらは口から出ない。




 アカリ先生は僕に手を伸ばす。暗い顔をしたつもりは無かったのに、両頬を摘まれ、無理やり笑顔を作らされた。




「え?」


『……君は私に一生懸命にぶつかってきてくれた子だから、忘れるわけないよ』




 効きすぎた暖房のせいか、胸から身体が熱を帯びていく。




『手話、覚えたんだ?』


「はい」


『元気だった?』


「はい」




 いつかアカリ先生にどこかで偶然会えたら、言おうと思っていたことを思い浮かべようとするけど、頭の中は真っ白で、言葉がつまる。


 アカリ先生が待っている。早く言わないと。




「…………っ」


『…………そんなに無理しないで。私はいくらでも待つから』



 やっぱりアカリ先生は優しかった。


 凝り固まっていた肩が解れていく。



「アカリ先生。あの時僕に『おはよう』って声を掛けてくれて本当にありがとう」




 先生がきっかけをくれなかったら、僕は謝ることすら出来なかったと思う。隆佑とは今でも仲がいい。


 それに僕は手話をやっていたおかげで、また先生に会えた。




 アカリ先生が嬉しそうに微笑んだ。




『よく出来ました』




 10年前と同じことを言った。


 あの時の僕は、アカリ先生の想い(ことば)がすぐに理解できなかった。でも、今なら分かる。分かるということが、どうしようもなく嬉しい。



 今でも僕の心の声は届くだろうか。



 ――アカリ先生、僕は10年前からずっとあなたに恋をしています。



 僕はまだ先生みたいになれていないけれど、いつかアカリ先生みたいになれたら、この想い(ことば)を伝えようと思う。

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最終下校時刻10分前 成瀬 灯 @kimito-yua

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