最終話 虹色の夢
3月18日。金曜日。奏の最後の出勤日だった。雪が降っていた。
とはいえ人の移り変わりが多いコンビニのアルバイトなので、最後だからといって特に何かあるわけではない。いつも通りのシフトをこなし、最後に挨拶をして出るだけだ。ロッカールームに入ると、長く働いていてみんなの母的な存在だったシフトリーダーから、箱菓子のせん別が置かれていた。「今まで一緒に働けて楽しかったです。就職してもがんばってね!」と書かれた小さなメッセージカードに、不覚にも目が潤みそうになる。いつものエプロンも今日で最後と思うと、寂しげに見えてくるから不思議だ。奏はレジに立ち、そんなことよりももっと大事なことを考えていた。
12時半になったことを確認して、足早に廊下に出る。昼食を買うことも忘れて、意識はもう中庭に到着している。大きな廊下に出て、天井まである高い窓が見え始めた時、今日は雪だということを思い出した。中庭のベンチにもうっすらと雪が積もり、外に出ている人はいなかった。中庭を挟んだガラスの前に呆然と立ち、重たそうに空から落ちる大粒の雪をいくつか眺めていた。昼間なのに、厚い雲のせいで朝方のように薄暗い。病院内のオレンジ色の電気がいつもよりも明るく反射している。ガラスの隅は凍り、かざした奏の手の温度でゆっくりと溶けて流れていった。
高くそびえる向かいの病棟の11階あたりをぼんやり見上げていると、右の袖口をくいと引っ張られる感覚がした。振り向く前に、安堵の笑みがこぼれた。そこには紫色のポシェットを肩から下げた少女が、大きな目を輝かせて立っていた。奏が今日お別れを言わないといけない、一番大切な人だった。
少女から少し離れて、赤ちゃんを抱っこしたお母さんがこちらに手を振っていた。軽く会釈し、カチューシャの少女の手をとってお母さんの元へ向かう。
「こんにちは、柳澤さん。今日寒いですね、夜中から雪が降ってますし」
「こんにちは。ええ、赤ちゃんも寒いでしょう、暖かくしてくださいね。あと、あの、実は……」
左手をぐいっと強く引かれ、会話が遮られた。左手が引かれた先は、中庭を見渡せる窓の正面にあるベンチ。奏とお母さんは目を合わせ、少女の無邪気さに少し笑って、ベンチに向かった。かなえちゃんが真ん中に、その右に奏が、左には赤ちゃんとお母さんが座る。
いつものようにスケッチブックを開こうとするかなえちゃんの手を握る。彼女は少し驚いたのか、ぱっと奏の顔を見上げた。奏は少女ではなく、お母さんを見ていた。
「お母さん。僕がここで働くのは今日で最後です。今日はお母さんとかなえちゃんに、お別れを言わないといけません。数ヶ月だけでしたが、僕にない世界を見せてくれたかなえちゃんに、今日はちゃんとお礼を言いたんです」
お母さんは少し寂しそうな顔をしたが、眉を下げたまま微笑み、優しく頷いた。かなえちゃんと話す時間をくれたのだ。口元を引き締め、スマホを開く。この状況になった時に焦ることが容易に想像できたので、事前に文章を打ってあった。
『かなえちゃん。ぼくは、とおくにひっこしてしまうので、きょうでおわかれです。
いっしょにえをかいたり、おはなししてくれてありがとう。
ぼくは、かなえちゃんのえが大すきです。
これからも、たくさんえをかいて、かなえちゃんのせかいをつくってね。』
さっと読み終えたかなえちゃんは、今後はゆっくりと一文字一文字を噛み締め、初めから読み直しているようだった。だんだんと意味を理解してきたのか、表情からさっきまでの笑顔が消えていった。一瞬、眉をぎゅっと寄せたかと思うと、母親に向かって何か話し始めた。筆談している余裕はないというように、急いで伝えたいというように。
「あの……今日もお昼休みは1時半までですか? かなえが、絵をプレゼントしたいから少し待って欲しいって」
奏が返事をする前に、かなえちゃんはスケッチブックをめくって色鉛筆をポシェットから引っ張り出す。もちろん、断る理由はなかった。
かなえちゃんが大急ぎで絵を描いている間、奏はお母さんと無難な話をしていた。急がなくても大丈夫、まだ僕はここにいるよと、かなえちゃんの背中に手を当てて。今月中に東京に引っ越すこと。春からデザイン系の仕事に就くこと。かなえちゃんのお父さんのことや弟のこと。
「あなたと出会ってから、かなえは家でもいつもあなたのことを話すのよ」
「えっ」
「次はいつ会えるの? とか、この絵はお兄ちゃんに見せるんだ、とか。今まで見たことないくらい、本当に楽しそうに話すんだもの。この子の耳が聞こえなくなった時、私は毎日毎日泣いたわ。この子を不幸にしてしまったって、助けてあげられなかったって。音を知らない子にしてしまって、この子は何を楽しみに生きるんだろうって思ったの。私の声も、パパの声も聞こえないのよ。二人目を妊娠した時も、生まれたきょうだいの声を、この子だけが聞けないんだなって」
そこまで一気に話して、お母さんは頬に流れた雫を払った。少し照れたように笑って、鼻をすすった。
「でもね、違ったのよ。かなえにはね、かなえにしか聞こえない音があるの。この子にしか見えない世界があったのよ。それはあなたが見つけてくれたのね。かなえの、耳になってくれたのね」
お母さんは、急ピッチで出来上がっていくスケッチブックの中の絵を見下ろす。奏は、お母さんの顔から目が離せなかった。深呼吸したお母さんは、奏の視線に気付いたのか、目を細くして言う。
「柳澤奏くん。いい名前ね」
「あ、それは……両親がピアノを嗜んでいたもので。音楽を奏でる子に、という意味でつけたみたいですけど、残念ながら僕は音楽のセンスがなくて、デザインや美術の道に来てしまいました」
「音楽ではないけれど、あなたは色や形で音を奏でるのが誰よりも上手だわ。かなえが教えてくれたのよ。この子はね、夢を叶えてほしいから、かなえ。ちょっと安直かしら」
「いえ。素敵な名前です」
その時、かなえちゃんがパッと顔を上げた。奏の顔を見て、お母さんの顔を見る。また奏の顔を見て、スケッチブックを差し出した。
そこには奏とカチューシャをつけたかなえちゃん、赤ちゃんを抱っこしたお母さんの絵。赤ちゃんからはひまわりのような声が、奏の顔の周りには水色に塗られた楕円がいくつかあった。同じく少女の周りにはピンク色の花形が、お母さんの周りには黄緑色の四角形がちりばめられていた。それぞれの声の色、声の形は、かなえちゃんにはこう見えているのだろう。
『おにいちゃん、いつもあそんでくれてありがとう。
さみしいけど、おにいちゃんからもらった、おひさまのえは、たからものにします。
おにいちゃんも、かなえのこと、わすれないでね』
青色で書かれた筆談用のノートを奏の膝の上に置き、スケッチブックからゆっくりと一枚を切り取る。
「あ」「え」「う」
――あげる。初めてかなえちゃんの口から、奏に言葉が届いた。かなえちゃんは大きな目から静かに雫を落とし、口元にぎゅっと力を入れた。
奏は絵を受け取って膝に置いたまま、スマホを開く。「泣かないで」なんていう言葉はろくでもない色をしているだろう、と思いながら文字を打ち込んでいく。
『かなえちゃんは、おとなになったら、なにになりたい?』
少女は水に溺れた大きな目をぱちぱちとさせて、ノートに答えを書き始める。その手に迷いはなかった。
『えをかく人になりたい』
ノートを胸の高さに掲げ、賞状を持った記念写真のように胸を張って奏に見せる。奏の口元が緩んだ。
『いつか、かなえちゃんがゆうめいになったときのために、このえにサインをくれないかな?
ぼくが、だいいちごうになりたいんだ』
さっきまで涙をぽろぽろと落としていたかなえちゃんの顔が、ぱっと明るくなる。まだ濡れたままの頬をそのままに、大きく頷いて色鉛筆を選んだ。
『たかの かなえ』
6色の色鉛筆で書かれた、虹色のサインをもらった。僕がこの素晴らしいアーティストのファン1号だ。奏は著名な作家のサイン本を手に入れた時のように、誇らしく、絶対に宝物にしようと心に決めた。世界中の全員に自慢して回りたい気分だった。「ありがとう」と大きく口を動かし、すっかり手に馴染んだ手話を一つ。満足そうに笑ったかなえちゃんとお母さんは、よく見ると目元がそっくりだった。
タイムリミットが迫っていた。お母さんが腕時計をちらりと見て、心配そうな顔を奏に向ける。奏は立ち上がった。最後の言葉をスマホに打ち、画面をかなえちゃんの前に差し出した。
『そろそろいかないと。すてきなプレゼントをくれて、ほんとうにありがとう』
その時だった。かなえちゃんは立ち上がり、少し遠慮がちに両手を広げて、2歩だけ奏に近付いた。奏はそれが何だかすぐにわかったので、もらった絵が折れないように気をつけながら、その場にしゃがみ込んだ。かなえちゃんの目を見て小さく頷くと、涙をいっぱいにためたかなえちゃんが奏の胸に飛び込んできた。首に回された冷えた手と、濡れた頬をじんじんと感じる。細い腰が折れてしまわないように、それでいて奏の熱が伝わるように、強く、優しく抱きしめた。左耳のそばで小さな嗚咽が聞こえた。ひんやりとした髪を撫で、少女の呼吸が落ち着いてきたのを確認すると、そっと腕の力を緩める。奏の正面に戻ってきたかなえちゃんは涙と鼻水でぐちゃぐちゃだったけれど、満足そうに笑っていた。奥ではお母さんも同じ顔をしていた。少女ははっと気付いたようにベンチに戻り、ノートにお別れの言葉を書き始める。
『こちらこそ、ありがとう。おにいちゃん、大すき」
『ぼくもだよ。かなえちゃんのゆめは、きっとかなうよ。たのしみにしてる』
かなえちゃんがそれを読み終わったのを確認して、立ち上がる。スマホで時間を確認すると、タイムリミットは残り5分。
「お母さんも、今日まで色々お世話になりました。ありがとうございます。かなえちゃんは、夢を叶えられますよ。僕も頑張ります」
お母さんは手で涙を払って無理に笑いながら、うんうんと頷いた。
赤ちゃんのひまわりのような泣き声が、廊下に咲いた。
音の色を奏でて 柏よもぎ @kashiwa_yomogi
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