第十話 黄色の泣き声

 そろそろ3月に入る。2月は少しだけ雪が降ったものの、やはり東北とはいえ南部だ。雪国育ちの奏にとっては、あまり冬という実感がないまま春に移り変わろうとしていた。卒業制作の水彩画はなんとか提出して、春から就職するデザイン系の職場からは、たまに事務的な手続きの連絡が来るようになった。ぼちぼち引っ越しの準備をし始めて、数ヶ月前からは想像もつかないくらい部屋が広くなった。大学ではゼミの引き継ぎ作業や自分のデスクの片付けをだらだらと済ませ、使わないものを段ボールに詰めたり売りに出したりして、だんだんと大学生活を閉じていった。大学病院内でのアルバイトも3月上旬で終わりの予定だが、それでも引っ越しを控えた卒業生にしてはギリギリまで働いている方だった。


 かなえちゃんには弟が生まれた。お母さんの通院の頻度が前より不規則になったので、会えない週も多くなった。いつ会えるかわからないので、奏は休憩時間をいつも中庭で過ごすようになった。会えない日が9割くらいだったが、それでも奏のルーティーンとして染み付いていて、いつも中庭に植えられた銀杏の木を眺めながら菓子パンをかじっていた。



 その日は火曜日だった。火曜の休憩時間は15時から45分間と中途半端だが、朝昼の食事が一緒になって11時頃に食べたのでそろそろ小腹が空いてきた頃だった。今日はホットコーヒーとサンドイッチを買った。


 サンドイッチの端の方の、何もサンドされていない部分に顔を歪めながら銀杏の木を見上げる。空色、というには少々深い青と、いつもよりゆっくりと流れていく雲を見ていた。遠くからは赤ちゃんの鳴き声と鳥の声、待合室のアナウンスが混じって聞こえてくる。


 ぴょん、と目の前に何かが飛び出してきた。亀の形をした雲から視線を戻すと、そこには紫色のカチューシャをつけた少女が立っていた。


「ひ、さ、し、ぶ、り」


 やや大袈裟目に口を動かしながら、「久しぶり」の手話をする。会えるのが不定期になって覚えた手話だった。かなえちゃんも大きく口を動かしながら返事をしてくれるが、奏には口の形を読む能力が足りなかった。かなえちゃんは両手の人差し指を立て、外から内へと近付ける。そして、手を開いて胸の前で交互に上下した。これは「嬉しい」の手話だ。人差し指を近付けたのはきっと、「会う」の手話。「会えて嬉しい」、奏の中でそう翻訳された。僕もだよ。そう言いたくて、胸の前で両手の人差し指と親指をトントンと合わせ、「同じ」の手話を返した。これで合っているんだろうか、わからないがかなえちゃんは嬉しそうに頷いた。こうして、文章とまではいかないが、単語だけの簡単な会話ができることもあった。英会話だって最初はこんなかんじだろう。しかし今の奏には英語なんかより手話という言語が魅力的に映っていた。


 木製のベンチ、奏の左隣にかなえちゃんが座った。小脇に抱えていたスケッチブックを開き、目を輝かせながら奏に差し出す。そこには黄色とオレンジで弾けるように描かれた、ひまわりのような「音」があった。その横には、目をぎゅっと瞑って大きな口を開けている、毛布に包まれた赤ちゃんの絵。


『これは、赤ちゃんのなきごえ?』


『せいかい! ママに、どんなこえってきいたの』


『ママは、どんなこえだっていってた?』


『げんきで、ぴかぴかで、うれしくなるこえだって』


『そっか。そうだね。すごくじょうずだよ』


 かなえちゃんが少し恥ずかしそうに、筆談用のノートを抱きしめる。乳歯が2本抜けた歯を見せ、へへ、と笑った。


 それからかなえちゃんは、お母さんやお父さんに聞いた言葉をヒントに、音の絵を描いているようだった。中庭で会うと、奏にお題を出して音を教えてもらっていたのが数ヶ月前。今では自分で音の絵を描くようになって、彼女にしか見えない世界を自分の手で創り上げている。


 奏には、かなえちゃんが眩しかった。かなえちゃんの描く絵は、自分が描いた水彩画よりずっと明確に世界を伝えているし、何より描き手の気持ちが込められた絵だった。かなえちゃんが自分の中にない世界に必死に手を伸ばして、時に周りの人の手を借り、耳を借りて、やっと掴み取った光を、今度は自分の手で形にする。自分の手で表現する。その絵は太陽よりも輝いて奏の目に映った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る