第九話 水色の名前

 約束の日が来た。約束と言っても奏が勝手に自分に負担をかけたせいで、「今日は重大発表の日だ」と脳が思い込んでいるだけなのだけど。つまり普通の金曜日で、普通に朝からバイトがある日だった。違うのはいつもより荷物が大きいことくらいだった。いつも背負っているリュックにはスケッチブックが入らなくて、大きめのトートバッグに無理やり入れてきたのだ。それでもスケッチブックの3分の1ほどはバッグから溢れ、頭を出している。


 いつもは光のように過ぎる午前中のシフトも、今日は長く感じた。なぜかいつもよりお客さんが少なく、暇だったのもあるかもしれない。急ぎでない品出しをしたり、数枚しか溜まっていないレシートを捨てたり、とにかく暇を持て余した。今日の昼に食べたい菓子パンとかなえちゃんに買っていくお菓子を物色し、大体の目処をつける余裕まであった。コンビニの入り口正面の壁にかかっている時計が12時半を回るかどうか、少し早い気もするがギリギリ怒られないくらいの時間になった。奏は「休憩入ります」と投げやりに呟きながらエプロンを脱ぎ捨て、菓子パンとお菓子を買い、ロッカーからスケッチブックを抜き取って廊下に飛び出た。


 今日は少し寒かったが天気が良く、中庭には散歩をしている患者さんが多かった。大体いつも決まったベンチにいる少女を探す。ポケットにスマホがあることを確認して、紫色のカチューシャの正面に回った。肩を叩く前に、彼女が顔を上げてパッと微笑む。こんにちはの手話を交わす。彼女が少しベンチの左側に寄ったので、広くなった方に腰を下ろして、スマホを開いた。


『しゅくだいにしていた、たいようの音をかいてきたよ』


 かなえちゃんは待ってましたとばかりに目を輝かせ、うんうんうんと頷く。


 深呼吸しながら、持ってきたスケッチブックを恐る恐る開く。納得がいくまで描き直して、修正して、何日もかけてやっと完成させた絵だった。それでも今これを見せると、間違いなく少女の世界に何かしらのアクションを起こしてしまう。それが怖くて、不安で。答えのない問いの答え合わせをする、道徳の時間に先生に指名された生徒のような気分だった。

 

 開いたスケッチブックを、かなえちゃんが手を伸ばして引き寄せた。いつものスケッチブックの倍の大きさの紙に描かれた、透明の滑らかな楕円。シャボン玉のようにひらひらと、時に重なりながら、空から降りてくる。その色は黄色、ピンク、オレンジ、黄緑、藍色や白、たくさんの色が混ざり合い、やわらかく溶け合っている。


 どれくらいの時間が経っただろうか。かなえちゃんはその絵を膝の上に置き、両手をいっぱいに広げて持ったまま、じっと動かなかった。少しだけ何か言いたそうに口を開いたが、目は透明な光の粒を見つめたまま、手だけを動かして自分のノートを手繰り寄せた。一番近くにあった赤色を手に取り、筆談用のノートを開く。


『あったかいね』


 ノートを見せた少女は少し寂しそうで、それでいて満足そうな笑みを浮かべていた。何かに納得したような、それでも考え続けているような、複雑な笑顔だった。ただ奏は、それでいいと思った。やわらかくてあたたかい光の粒を感じられたのなら、それでいい。形のないものを手に取ろうとする難しさ、その奏なりの解釈を伝えられたなら、それでいい。


『たいようには、音はないんだよ』


 また絵に視線を落とした少女の視界に、マジックの種明かしをするようにスマホを滑り込ませる。


 少女の大きな目を、長いまつ毛が何往復かするのを見ていた。そのうちゆっくりと筆談用のノートを膝に乗せ、開く。


『じつは、それは、ママからききました。音がないのに、音のえをかけるの?』


 奏の全身は今日少女に会ってから、いや朝起きてからずっと緊張していた。外はこんなに寒いのに、手や額には汗が滲み、腹の奥がざわざわとうごめく感覚がした。音がないのに、音の絵を描いたことは嘘つきになるだろうか。奏が少女にしたことは、間違っていただろうか。

 返事を打てずにいる奏を見かねたのか、少女がまた赤色を持った。


『音があるかどうかは、かなえはわからないけど、おひさまの音はすごくあったかくて、きれいだから、大すき。おひさまのえ、もらってもいいですか?』


 恐る恐る奏の顔を覗き込み、ノートを差し出した少女の目は、嘘をついていなかった。音があるかないかなんて、彼女には関係のないことだった。ほとんどの人が知らない、太陽の音を、彼女は見ることができる。きっと星の音も月の音も、笑顔の音や涙の音だって見ることができる。


『もちろん。それはプレゼントするよ』


 スケッチブックから慎重に一枚を切り取り、裏に黒の色鉛筆で「おひさまの音, XXXX年○○月△△日」と書く。ゆっくりと紙を丸めようとすると、かなえちゃんに袖を引っ張られた。


『おにいちゃんの、サインをかいてほしい』


「え」


 少女には届かない声が、奏の口から漏れた。いつも水彩画を描いた時には、作品の右端にサインを入れる。サインといっても著名人のような立派なものではなく、自分の名前を筆記体で書いたくらいのものだったが。少女がそれを知っていたかのようで、驚いたのだ。


 少女は12色が綺麗に並べられた色鉛筆の箱を差し出す。好きな色で書いて、と目が言っていた。


 水色を手に取る。絵の表側、太陽の音の右下に、いつも通りの署名を入れた。字はきれいとは言えないが、筆記体はそれが誤魔化せるので好きだった。


 サイン入りの絵をもう一度胸の高さに掲げて、かなえちゃんは満足そうに頷く。振り向いて奏と視線が交差すると、りんごのように真っ赤な頬をぷっくりと持ち上げ、120%の笑顔をくれた。彼女の目がこんなに細くなったのを、奏は初めて見た。



 そのうちかなえちゃんのお母さんが中庭に迎えに来た。今日はいつもより少し早い。外来が空いていたんだろうか。先々週に約束した太陽の音の絵を描いてきました、と奏は頭をかきながら言う。かなえちゃんは絵画コンクールで金賞を取った絵を見せるように、自慢げに母親に絵を見せた。


「まぁ、これ、柳澤くんが……。あぁ、あなた、本当に素敵な才能を持っているのね。ええ、ええ、太陽ってこんなかんじだわ。いろんな色が混じっていて、優しいのね。サインまで入れてくれて、これきっとかなえが頼んだんでしょう?」


 名探偵が謎を解いた時のようなお母さんの得意げな顔は、かなえちゃんにそっくりだった。その通りです、と笑う。母親に絵を手渡して両手が空いた少女はくるりとこちらを向き、手をひらひらさせて奏の目を引く。左手を胸の前におき、右手を左手の甲から額へ。口が大きく開いて、音のないままゆっくりと動いていく。


「あ」「り」「が」「と」「う」


 奏はゆっくりと頷いた。「どういたしまして」の手話は知らなかった。

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